先日は佐賀での生長の家講習会に参加しました。
車窓にムギの青い穂並みが広大な佐賀平野に揺れそよぎ、ひばりの囀りが今にも聞こえそうです。
佐賀文化会館も葉桜が初々しく煌き、ツツジの花が下から顔を覗かせて、
いのちの息吹を肌に感じ、神の創造し給える光明なる美しさと生命の神秘と力強さに、神の尊い真心を観じ、
有り難く合掌せずにはおれません。
人間の生命の奥底に、生理学も心理学も医学も哲学も生物学も到達することの出来ない
『妙妙なる存在』が横たわっているのです。
私達は時にそれを自覚し、しかしある人は自覚出来ないでいる。
人間の深遠なる奥底に横たわっている『妙妙なる存在』を神の国、仏教では浄土というのであります。
イエスが『神の国は汝等の内に在り』といったのは、この『妙妙なる存在』を云ったのです。
浄土は十万億土の彼方にありいうのは、心理学や哲学や生物学や医学や脳髄意識でこの『妙妙なる存在』に到達しようと思えば、
今、此処に既に浄土ありといえども無限の遠さにあって、聞こえど聞こえず、見ようと思えど見えないのであります。
あたかも空中には何万通のメールの電波が飛んでいます。
ある特定(浄土)のメールを(認識)するためにはそのメールに波長を合わせないと捉えられないと同じようなものです。
南無阿弥陀仏と称名念仏して、今、此処に尽十方無碍光如来(阿弥陀如来)に帰命して、
いかなる煩悩にもさまたげられない阿弥陀如来の光明と一体となり、
既に自己に存在する尊い光明(阿弥陀如来)なる自己を覚するとき、今此処に天国極楽浄土の世界が実現するのです。
『注』
帰命・・・いのちをささげて、心からのまことをささげる。
自己の身命をさし出して佛を信じてよりすがること。