夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。

2016年04月11日 20時15分49秒 | 真理の言葉
あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。

先日は佐賀での生長の家講習会に参加しました。
車窓にムギの青い穂並みが広大な佐賀平野に揺れそよぎ、ひばりの囀りが今にも聞こえそうです。
佐賀文化会館も葉桜が初々しく煌き、ツツジの花が下から顔を覗かせて、
いのちの息吹を肌に感じ、神の創造し給える光明なる美しさと生命の神秘と力強さに、神の尊い真心を観じ、
有り難く合掌せずにはおれません。






人間の生命の奥底に、生理学も心理学も医学も哲学も生物学も到達することの出来ない
『妙妙なる存在』が横たわっているのです。
私達は時にそれを自覚し、しかしある人は自覚出来ないでいる。
人間の深遠なる奥底に横たわっている『妙妙なる存在』を神の国、仏教では浄土というのであります。
イエスが『神の国は汝等の内に在り』といったのは、この『妙妙なる存在』を云ったのです。
浄土は十万億土の彼方にありいうのは、心理学や哲学や生物学や医学や脳髄意識でこの『妙妙なる存在』に到達しようと思えば、
今、此処に既に浄土ありといえども無限の遠さにあって、聞こえど聞こえず、見ようと思えど見えないのであります。
あたかも空中には何万通のメールの電波が飛んでいます。
ある特定(浄土)のメールを(認識)するためにはそのメールに波長を合わせないと捉えられないと同じようなものです。
南無阿弥陀仏と称名念仏して、今、此処に尽十方無碍光如来(阿弥陀如来)に帰命して、
いかなる煩悩にもさまたげられない阿弥陀如来の光明と一体となり、
既に自己に存在する尊い光明(阿弥陀如来)なる自己を覚するとき、今此処に天国極楽浄土の世界が実現するのです。

『注』
帰命・・・いのちをささげて、心からのまことをささげる。

自己の身命をさし出して佛を信じてよりすがること。




4月9日(土)のつぶやき

2016年04月10日 04時50分34秒 | 日記・エッセイ

不思議なめぐり愛 (愛について) goo.gl/vTZWy5


不思議なめぐり愛 (愛について) fb.me/YbBR0Dt1


神は十字架と復活とにより
人間を聖愛で擁き給い、
福音を与え給う。


物質文明は物質的な存在、物の生産主義的な思考に隷属して、
ついにはそれらの奴隷となり、
人間に与えられた最大の特権である自由が脅かされます。



日本国の祭りごと 

2016年04月09日 22時23分35秒 | コラム・人文
日本国の祭りごと 

日本国の実相を考える時、現人神である今上天皇陛下をぬきにして論じることは出来ない。
神武天皇の即位より日本の歴史上連綿として受け継がれたことが皇統譜に示されているが如く、
日本精神の根幹である丸い円の如く円満なるマコトの大御心である日本国天皇の理念は今此処に生きているのです。
今月四月三日紀元二千六百年大祭が橿原神宮で今上天皇をお迎えしてしめやかに執り行われ、
今上天皇陛下は皇后陛下、御皇族方々共々に神武天皇陵に玉串を捧げられ御参拝なされました。
大正五年以来の一〇〇年ぶりであることです。
古事記、日本書記にあらわされているが如く幽の幽なる天之御中主神より始まり、
天照大御神と現人神である今上天皇陛下とは御一体で在られます。
また身近な八幡大神、春日大神、住吉大神、稲荷大神、氏神、産土神等と枝岐(わか)かれて吾々と国民とつながっています。
天皇はまた国民である私達とも一体であると云う、君民一体であると云うことが日の丸にも現れています。
このことが日本国の生命であり理念であります。
これが日本国の本当の意味での民主主義であります。
政治も日本精神の根幹である丸い円の如く円満なるマコトの大御心を現すように真つり合わせないとなりません。
丁度天秤の両端が吊り合わないといけません。
民衆の心がバラバラで争って不統一では神の御心に叶いません。
天皇の大御心に寄り添い一つになり団結し、円満な誠心が顕れないと
善い祭り事(政治)は行なわれません。




まつりごといとまなき身は春の日をながきものと思はざりけり

すめ神にははつほささげて国民と共に年ある秋を祝はむ

 

                                           明治天皇 明治三五年

国譲り祀られしし大神の奇しき御業を偲びて止まず

                                        今上天皇 平成一五年 出雲大社に詣でて

大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継ぎし時しも

                                         今上天皇 平成十一年 歌会始

六年(むとせ)の難(かた)きに耐えて人々の築きたる街みどり豊けし

                                         今上天皇 平成十一年 阪神淡路大震災地訪問

あらたかや くにたみまもる なむだいしとうじ いまもおはします

                        
                                               弘法大師 空海
『注』
まつりごと・・・政務。
すめ神・・・国の神々。
はつほ・・・神嘗祭・新嘗祭に伊勢神宮はじめ各神社に新穀を供える神事。
年ある・・・豊年の秋。








不思議なめぐり愛 (愛について)

2016年04月09日 12時33分42秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
不思議なめぐり愛 (愛について)

四女の娘に結婚をして下さいと云われる男性が現れ、ある料亭で私達両親に男性からその告白を受けました。
それも遠い遠い東北の秋田であります。
奥様がとうとうお別れの実感がしてまいりましたと言い、神妙にしておりました。
母の愛は父の思いとは多少位相があります。
釈尊の父母恩重経にも母の恩徳への思いの比重が強いように思われます。
遠い東北の男性と西の果ての長崎の女性との不思議な縁であります。
男女の縁は、既に男と女の半身同士の魂が存在していて、半身同士互いに一体となりたいと呼び合い、求めているから、
例えアメリカ、日本と分かれて住んでいようとも時期が熟したら年齢には関わらずに共に会え、一体となることが出来る云われています。



母の懐を寝床となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを生命となし、
飢える時、食を求るに母にあらざれば食らわず、渇く時、飲みものを求るに、母にあらざれば飲まず、
母寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に着せたまう。
十指の爪の中に、子の不浄を食らう。母の恩、重きこと天の極まり無きが如し。
このように愛の尊い源は『母の愛』であります。
しかし子供は母が娘を愛するようには母を愛しないのが常であります。
娘が母を愛するのは母の肉体から別れて生まれたと云う感情をもっているのではないのです。
娘が母を愛するのは、母が娘を愛してくれている映しとして母を愛しているのです。
それ故に子が母を愛するのは必ずしも生みの母とは限らないのであります。
養母、義母であっても愛される度合いによって、養母、義母を愛し慕うのであります。
また子が親を慕う愛については、食物を与えてくれるものに対する『本能的な愛着』が混ざっているのです。
動物は必ずしもその動物の母でなくとも、食物を与えてくれている人間を親のように慕うのであります。
スズメの雛を座敷でエサを与えて養っていると、飛べるようになっても人間を慕って追い回して肩に留まったりするものなのです。
このような食本能的な愛は好きな苺を破壊して食べてしまい、その本来の美しい姿を壊してしまうような愛なのです。
これはただの好き嫌いの愛であります。
これは相手を食い滅ぼす『性本能』にも云えることでもあります。
『恋愛』は曲者(くせもの)であると云われている所以であります。
しかし人間は恋愛によって摩訶不思議な感情を味わい、肉体的には、なんら関係のない他人でありながら、肉親以上の一体感を求め、それを自覚するのです。
娘は男性の後を追い、息子は女性の後を追う。
しかしこのような愛は自己を中心のすえている種族本能的な好き嫌いの『性愛』であります。
真の愛は種族的な『性愛』を超えなければならないのです。
『性愛』を超えてそれが昇華されて行くとき、欲情ではない『聖らかな恋愛』に達するのです。
これが互いにこれからの運命を共有して、貴方がいなけれが生きては行けないと云う、切に聖らかに一体にならんとすること願う、神秘的な魂の結び合いの共同生活が結婚であります。

清くして、しかして美しき
わがマリアよ
おん身はかって
ルルドの聖泉の巌壁に
きざまれし黄金の
三輪の薔薇の花を踏んで立ちし
聖母マリアか
わが愛は汚れたれども
君にふれなば
たちまち清まりぬ。






4月7日(木)のつぶやき

2016年04月08日 05時24分43秒 | 日記・エッセイ

真言の神秘なる世界

2016年04月07日 22時36分55秒 | 真理の言葉
真言の神秘なる世界

春の嵐が吹き荒れる。
横なぐりの雨の中を幼い小学生の傘がほうきの如く天を向き、両手で懸命に握りしめ、横断歩道をわたる、黄色いランドセルが上下に揺れる。それを見守る交通係りのおまわりさん。




『真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千里を含み 即身に法如を証す。
行行として圓寂にいたり 去去として原初に入る 三界は客舎の如し 一心は是れ本居なり』

般若心経秘鍵 弘法大師 空海



真言ダラニ(陀羅尼)は何と不可思議なものでしょう。これを誦(とな)えるだげで、
始めの無い遠い昔から人間が持っている無知なる愚かさを除くことが出来るのです。
一つの文字に壱千もの尊い教えが含まれているのです。
この身このままの煩悩にあふれた肉体のままで大日如来の法身を顕わして生きることが出来るのです。
悟りに至り、すべてのものごとの大本に入ることが出来るのです。
この世に生きている諸々姿、現象は、旅をして宿に泊まって居る束の間の夢の如き世界であるのです。 
宇宙の存在する絶対無比の眞如である大日法身の実相は本来人間に具わっているものであります。
此のことを知り、自覚すればこの身このままの煩悩にあふれた肉体のままで、
素晴らしい光明輝く世界に既に存在していて、大日如来に生かされていることがわかるのです。

『注』
真言・・・真実絶対のことば。佛、菩薩などのはたらきを顕わす秘密のコトバ。
    呪、神呪、密呪、密言。
観誦・・・心で観じて読誦すること。
無明・・・真実を見失った無知、愚かさ、煩悩、迷いの根源。
即身・・・この身このままの今現在の身体。
法如・・・大日法身の妙理を云う。
妙理・・・深妙不可思議な理法。こよなき真理。
圓寂(えんじゃく)・・・本来はすべての無知と私欲とを除いたさとり。のち高僧の死没をいう。
原初・・・いちばん初め。おおもと。
三界・・・衆生が生まれて死に輪廻する領域としての三つの世界である、欲界、
      色界、無色界の三つ。
客舎・・・旅人を休息させる宿舎。
一心・・・究極の根底としての心。万有の実体真如を云う。
    宇宙の事象の基本のある絶対的な真実。
本居・・・本来具わっていること。
具足・・・具えていること。円満完全に満ち足りていること。
















































4月6日(水)のつぶやき

2016年04月07日 04時49分06秒 | 日記・エッセイ

宗教的精神と茶と僧房料理がコラボレーション(collaboration)した茶懐石 blog.goo.ne.jp/violetmoon-blo…


宗教的精神と茶と僧房料理がコラボレーション(collaboration)した茶懐石 fb.me/8gJlEvtRm


愛するとは自分の持っている一切の執着を捨てることであります。



宗教的精神と茶と僧房料理がコラボレーション(collaboration)した茶懐石

2016年04月06日 21時22分44秒 | 日本の食文化
宗教的精神と茶と僧房料理がコラボレーション(collaboration)した茶懐石

禅僧房の料理より出でて、茶の湯の儀式を定めてこれを完成に域にまで至らせた千利休により
『茶懐石』の様式が整いました。
『茶花』は宗教的の尊敬をもって花を見る、美的センスを目的に心を込めて選択して、
花に慈悲の心もって無闇に必要の度を超えて切り落とさないことを常とする。
茶懐石料理のひと品ひと品の分量は、空間も無限を表す味の一つでありますから十分でなく、
例えばみそ汁(椀盛)の分量にしても椀の六分に止める。
残り四分は心の余韻、趣にあてる。
恵まれない世界への慈悲の心根、また乞食の精神も含まれています。
寂の精神にも通じています。


みそ汁は口をしめらすのみなれば煮物焼物肝心と知れ

                                         裏千家 円能斎宗匠

四季それぞれの風雅の喜び、自然の恵みをさりげなく取り合わせる懐石と器物は尽きせぬ面白さであります。
                                          辻 嘉一 京都の茶懐石料理人

美味即菩提
眞の美味に出会った時は、佛の悟りである。

                           吉川英治
茶室は静寂純潔の世界である。

見渡せば花ももみじもなかりけり
    浦のとやまの秋の夕暮れ

                                    藤原定家


茶は薬用として始まり後飲料となる。・・・・日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。
・・・・茶道の要義は『不完全なものを』崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。
倫理、宗教と合して、天人の関するわれわれのいっさいの見解を表しているものである。
・・・・宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。
それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、東洋民主義の眞精神を表している。

                                                   茶の本 岡倉天心




















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4月5日(火)のつぶやき

2016年04月06日 04時46分01秒 | 日記・エッセイ

一菜の葉っぱの屑にも神、佛の生命が輝いている。 goo.gl/37VFRL


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誠実で誠と愛情をもってする仕事はその人の尊厳さを現します。



一菜の葉っぱの屑にも神、佛の生命が輝いている。

2016年04月05日 17時46分47秒 | 日本の食文化
一菜の葉っぱの屑にも神、佛の生命が輝いている。

ある高級料亭で、見習いの者が一切れの豆腐をゴミ箱に捨てたのを調理長から、
その豆腐を捨てたゴミ箱に頭を入れられたそうであります。
君の実家は農業ではないか、
豆腐が出来上がるまでにはどれだけの大豆が必要であるか君は知っているか、
君のお父さん達の苦労で大豆が収穫さているではないかと諭されたそうであります。



またある寺の台所で、夜な夜な、ある僧が何かを美味しそうに食べているのを見当たり、
翌朝、己は皆が寝静まった夜中に隠れて旨いもの食べているのはけしからんと抗議をされ。
その僧は答えて曰、昼間典座係が切り捨てた野菜の屑を煮て食べているのである。




一人の老婆が米のとぎ汁を捨てようとして家の外に出た時に、釈尊に出会い、思わず信心を起し、
なにもさし上げるものは無いですが、この粗末なとぎ汁でも召し上がって下さいと言って、
捨てようとしていた米のとぎ汁を釈尊に供養した。
釈尊は喜んでこれをうけとり、老婆はこの功徳により、生前にはこの上もない福楽をうけ、
来世にはきっと悟りを成就するであろうと云う予言を受けたと云う。




醍醐味の御馳走を作るときにも、それを必ずしも上等とはしてはならない、
また菜っ葉の汁を調理するときにも下となさず、誠実な心、浄心、潔らかな心で、
醍醐味を作るときと同じ心で調理すること。
上等な物、粗末な物と区別して差別してはならない、与えられたものを好き嫌いせず、一味にして食べないとならない。
                                    典座教訓 道元

食事は自分自身の内に宿る神に供え物を献ずる最も尊い儀式である。
食事をとる時にもすべての隣人と仲直りし、自己が過ちておかした罪が神によって許されんがための供え物と思い、
またすべての人の罪が心から許されんがための食事として食べよ。



4月4日(月)のつぶやき

2016年04月05日 04時47分51秒 | 日記・エッセイ

食物と人間の関係 (共に生かし合いの食生活のために) goo.gl/KK46Rg


食物と人間の関係 (共に生かし合いの食生活のために) fb.me/YXWyI9fy


苦しむ人の隣人になることは慈悲の心であり、
彼と共に歩むことは愛の共有であり、
神は共に歩み愛を行じることを祝福し給うのである。



食物と人間の関係 (共に生かし合いの食生活のために)

2016年04月04日 22時32分08秒 | 日本の食文化
食物と人間の関係(共に生かし合いの食生活のために)

温かくなりますと、爽やかな清涼感あふれる食材に魅かれるます。
不思議にも山菜、野菜、海草、果物等も春夏秋冬の季節に合わせて色づきます。
キュウリ、西瓜の瓜等は夏の汗ばむ時期に合わせ利尿作用に適した野菜のように。
このような季節感にあふれた山海、里の恵みは神より授けて頂いた尊い珍味であります。


殺すものは殺さなければならない、キリストは『剣をとるものは、剣によって滅ぶ』と云う聖言を言っています。





『本来殺生なし』とは現象世界は有ると見えながらも本来無いのである。と云うことを悟ることが必要であります。
蛇が蛙を飲み込む姿は実在していると見えているけれども、
神が創造し給うた実相の世界では蛇が蛙を殺した業もなければ、蛙が蛇に殺された業もないのです。
人間が魚を殺すと思い、魚が殺されると思って食べる時には、そこに殺生の業が発生し、業とは心に鳴りひびくものである。
その業を支えているものは心そのものであり、その業を支えている心が存在する限り、輪廻転生し、
殺生は、次の殺生を生み、それが輪転して、ついには人類相互いに殺生の一大業を生むことになるのです。
その故に現象世界は本来無いのであると覚るまでは、生き物を殺し、また捕獲して食べない方が好いのです。
弘法大師と山伏の問答で山伏が坊主でありながら猪の肉を食べたと弘法大師を非難しますが、
弘法大師は報謝の供養の心は食べたが猪の肉は食べてはいないと言ったそうであります。・・・・・
悟らないでそのようなことはすることは殺生の業を輪転することになるからであります。
殺生の業はつぎの殺生の業を生む、人間が殺生して命を保つかぎり、人類同士の殺し合いも尽きることがない。
戦争の根本原因は此処にあるのです。
ただ習慣で生き物を食べるので、凄惨な気持が起こらないであります。
これは殺生した意識が希薄であるからです。だから殺生の肯定が起こるのです。
目の前で生き物が死んでいく姿には誰しも慈悲の心が起きるものなのです。
知らないで犯した罪が、知って犯した罪より、その受ける被害、業、が大きいように、
凄惨な気持が希薄なのは殺生の業の意識も希薄なのであります。
それ故に殺生の業を強引に肯定するのです。
釈迦は、自ら殺さずして、布施し、供養をされた肉食はこれを受けてもよしとしました。
それは受けても好いと意味であります。積極的に強制し、仕向けてはいけないのであります。
儲けるための、獣鳥魚肉は、利己心のために殺生を肯定したものであるからけがれた殺生であります。
しかし漁師が生計のため、やむえず魚等を捕獲するのは生活のためにゆるされるのです。
生命(いのち)は聖霊であるから聖霊を翻弄して殺すことは赦されないことであります。
しかし純粋に愛の心、報恩感謝の心、布施心で供養された肉食は、これらの心で浄められているので浄食である。
植物、米、穀物、野菜も生きているので、それを収穫して、殺してしまうのは残虐な殺生であると云う考えをする人があります。
例えば吾々人間の髪の毛等なども切らない間は生きているが、切り取った時死ぬのです。
これらは身なりを整えるために、喜んで髪を適度に調えるのです。
また髪を切り取った時苦痛を感じないのです。
ミカンが熟すと鳥が啄ばむます。
放っておくと地面に落下してしまいます。
果樹は鳥に食べられても悲鳴を上げる等の苦痛を感じません。
このように野菜、穀物、果樹等の植物は食べられるように喜んで、自ら夫々の個性ある色づきをして表現します。
日本にも、追うと逃げさりるような生類は避けて、痛覚がない植物、米、穀物、野菜、山菜、海草等の食材で頂く
精進料理の歴史が連綿として今に続いています。
このように食して喜び、食べられて喜ばれる生かし合いの食材での食生活をお進めします。


















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4月3日(日)のつぶやき

2016年04月04日 04時49分55秒 | 日記・エッセイ

大自然と桜と『寂』と日本の文化。 goo.gl/cg53IJ


大自然と桜と『寂』と日本の文化。 fb.me/13cAyAk4i


苦難の道は、魂を磨くものであります。
その耐えざる苦難を苦難と受取らず、与えられた神への道程だと観じて、
耐えしのび明るく前進することにより、
神は誉めたたえ、
なお一層の善き賜物を神より授かることになります。



大自然と桜と『寂』と日本の文化。

2016年04月03日 11時38分39秒 | 自然の育み・環境
大自然と桜と『寂』と日本の文化。

東京の杉並区在住の次男の声を久しぶり聞き、大変元気そうでした。
東京はまだ寒いとのこと、吉祥寺界隈の景気もまずまずのようで機嫌が好いようでした。
次男に桜のことを常々聞きますと何時も東京の人は桜見には気合が入っていると言います。
考えて見ますと歴史的にも、江戸に幕府が開かれてからは人口が集中してからは人々には
『火事と喧嘩は江戸の花』と言われるようになり、ストレスが溜まる時代となり、
ストレス解消、憩いの場として広い小路等が整備され計画的に植えられたようです。
田舎の自然の山に自生している山桜と違って殆どの桜の木がそれぞれの時代の人々の手により
人工的に植えられた模様であります。
それ故に人々が自ら愛と心を込めて植えた桜に惹かれ、また無意識に桜に人生の栄枯盛衰を映し、
桜見物に駆り出される衝動が強く現れるのではないでしょうか。
また気高い大自然を愛でる日本人の文化が、自然が少ない江戸の町並みの中で桜見物によって
自然を身近に人々は感じていたのではないでしょうか。
それは今の東京にも云えることでもあります。




大自然の悠久さ、久遠不滅の生命の尊厳が顕れているのが『寂』であり、ただ古いと云うものではないのです。
そこに永遠なる、時間空間を貫いて滅びない生命が躍動していて、
大自然の深い味わいというものが滲み出ているものが『寂』には出ているのです。
芸術にも大自然のいのちが作品に『寂』と云う精神が染み込んでいることにより成り立つのであります。
日本人は古来よりこの『寂』というものを愛でいた民族、国民であります。
『寂』には温かい包容心と他を排除しない、対立感の無い、争い心が無い、自然と一体感のある精神であります。
この寂の精神は俳句、能、書、日本画、茶の精神、茶懐石、雅楽、華道、香道等日本の文化に脈々と息づいています。






















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4月2日(土)のつぶやき

2016年04月03日 04時49分32秒 | 日記・エッセイ

人間は肉体という塊だけではないのです。
真実を生きる霊的存在なのです。
愛する心の存在こそが、愛されるという果実を得ることが出来るのです。


本来人間には既に生まれたときから財福が具わっているのです。
与えられ苦難、痛みを真理の道への導きと素直に受けて、素直に喜び、
有り難く感謝して生活しているとき、神は既に福音を与えているのです。

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