侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

休憩しましょう、、

2010-09-13 20:27:57 | Weblog

   
 「渚から内陸へ~ 人はどこから来てどこへ向かおうとしているのか」
 はじめに
1.  神から人へ、プラスチック文化に席巻された現代から~どこに向かうのか?
 おわりに



 はじめに

 未知との遭遇、固定概念の転覆を余儀なくされる前代未聞の授業だから是非受講するようにと先輩から厳命され、ついにその日が来た。噂に違わぬというかそれ以上の昂揚感を味わうライブツアーだった。参加型ライブだとどこかで思いこんでいた私は、お客たちも参加する場面があるのかと思いこみ、それ用の小道具など携えて行ったのだが飛んだ勘違いだった。
 知らぬ間に当校に在籍して早三年がたつ、入学の動機は芸術で人と人をつなぐ、人と場をつなぐ、場と場をつなぐ事を学びたいということだった。環境活動をしていて、つくづく限界を感じていた。結局は教える、伝える、仕向ける傾向の強さが逆に環境への関心を遠ざけてしまっているようにも思えたからだ。
 その中にアート性を加味することで、ぐっと味わいと深まりが違ってくるのではないかと我流でアートな環境学習を試みてみた。
 これがアートってもんだろうと、書を捨て町に出て、海賊になって街探検をしたり、様々なキャラクターになってハメルンの笛吹宜しく子ども音楽隊と称して子ども達を拐かしたり、ごみ分別釣り堀屋にもなってみた。「ミニ・ミュンヘン」まがいのエーコランドも試した。が、理論的にアートで環境教育という概念を説明出来なかったためか、「これのどこが環境学習なのっ!?」とつめよられっぱなしにへこみ、ついに、NOPを離脱、本当の芸術を解りに入学をした次第だった。
 が、しかしそんなに簡単に芸術は解るものではない。
 当初はルンルン気分で自分の好みのスクーリングを受けてほぼお楽しみ気分を満喫するも、気がつけばもう3年目、芸術は未だ遠しの状態である。
 この度のライブツアーはいみじくも、芸術研究、テーマは「表象行為論」というまさにうってつけ!期待していた社会活動をつなぐ芸術みたいなものも「表象行為」の一つとなりうるという確証が授業を通じて得られるのかもしれないと期待がいや増した。
 三日間のライブは常時刺激的であり、やつぎばやにコックピットから弾丸のように発射される言語は、ある時は砂漠のように乾いて硬質に感じられ、又あるときは湿り気をおび、艶めかしくすらあり、行きつ戻りの二律背反がよせては返す波となり、その波にたゆたっているうちに、ありとあらゆる世界がごった煮のようになり、未消化なまま脳髄の中でさまよっている感じだった。だが、それが心地良く、その二律背反の中にこそ真実があるような気分にもなっていた。
 講師自身が「表象行為論」のメタファーそのもののだっ!と感じたのは私一人ではあるまい。
 一処に定まらず、縦横無尽に概念も精神も身体も往還可能であり、その飛翔する魂を燃料にしているかのようなライブと称する授業は未だかつて体験したことのないものだった。
 これだけのエネルギーを消耗する授業をライブと呼ばずして何と言おう、まさに授業全体が芸術研究としての「表象行為」なのだな、と納得した。
 「見たい、知りたい、解りたい」 という欲求は自力で獲得して行かなければならないと言うのが、摂理なのだろう。この三日間のライブで私は何を見、知り、解ったのか、そして咀嚼されたものが、日常生きている暮らしの場でどう活かされる可能性があるのか、考えてみたい。

2. 神から人へ、プラスチック文化に席巻された現代から~どこに向かうのか?

 われわれ団塊の世代はある意味で「見たい、知りたい、解りたい」を色濃くその身体に宿している世代と言えるのでは無かろうか。明治、大正、昭和初期の残像未だしの時代に生をうけ、戦後の貧しい時代も体験し、戦後復興の勢いに乗せられて育ち、飛んでもなくバブリーな時代も体験し、やがてバブル崩壊、凋落の一途をたどりつつも、もう過去にはもどれず、大量生産、大量消費、大量廃棄の構造からどうもがいても脱却できない構造にからめとられ、心身はほぼモノマー化しつつもプラスチックは憎悪するというアンビバレンツな感情を内包するという特徴を持った世代なのではなかろうか。
 西洋における16世紀ルネッサンスは神との決別が始まりと言われている。
 盛期ルネッサンスを代表する万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは、

 「(前略)大宇宙すなわちマクロコスモスを、人間、すなわちミクロコスモスと同形と見る考えです。あるいは宇宙現象を生態と考えるのです。同時にわれわれの人体を小さな宇宙と考える。(中略)人間は古い昔から小さな世界、すなわちミクロコスモスとよばれてきた。人間は土と水と空気と火から構成されているのだ。(後略)」 宇宙を創造したのは神ではないと言うことを述べていると同時に我々自身が宇宙と合一なのだと言っている。
 我々日本人が西洋美術史の文脈で語られるルネッサンスという古代復興をもたなかったのは、古来私たちの血脈の中に森羅万象に神宿るという感受性がありミクロコスモスとマクロコスモスを自在に行き来する事になんの差し障りも無い営みを続けてきたからなのではないだろうか。その血脈の系譜の最後の人ともいえるのが土方巽であり、大野一雄のように思えてならない。
 私たちはつい2~300年ほど前までは殆ど、自然と一体感のある自然循環がベースの暮らしをしてきた。ところが、プラスチックの出現である。これほどこの物質が文化、身体、精神、環境、世界そのものに影響を及ぼしていたとは自覚がたりなかった。日本においてはすでに戦前から生産され、政府が手厚く保護育成にあたってきた産業だった事もはじめて知った。森羅万象に神宿るに違和感の無かった我々がいともたやすく、このプラスチックに席巻されてしまったのだ。「見たい、知りたい、解りたい」をこの物体に対して発揮した遠藤徹「プラスチックの文化史」 はくまなくプラスチックの誕生、生い立ちを物語ってくれているが、驚きの結末はどうしても、肯んじることはできなかった。
 丸ごとプラスチックのようなディズニーランド分析は、とてもうなずけるものがあった。

「(前略)プラスチックに覆われた世界は、だから一方では確かに物質的自由というユートピアを指し示して見せるが、他方ではプラスチックの壁に囲まれて死んでいく囚人のイメージも想起させるのではないだろうか。(後略)」 一度、オープン間もないディズニーランドに足を運んだ事があるが、二度と行く気にはならなかった。自分で何もしなくても回りが動いてくれる環境に気分がめいって面白いと思えなかったのだ。そのような感覚をもたらした源はまさにこの囚人のイメージと重なるとも言える。
 しかし、著者は結末においてはむしろプラスチックを肯定するニュアンスで結論としている。確かに、我々環境問題に取り組んできているような人種はのっけからプラスチックを悪の権化のようにあしざまにののしるが、その当人ですら、年間84㎏のプラスチックを消費せざるを得ない環境にいるのだ。現代社会を生きている以上は避けようの無い現実、衣食住すべてに渡ってまさにプラスチックに席巻されている。それは文化とも相まって、ポストモダンを凌駕し、さらに、ポスト・ポストモダンなのかもしれず、著者のいわんとするところはまさにポスト・ポストモダン的である。
 「(前略)より柔軟な共存の道を探ることこそ、今僕たちが早急に取り組むべき課題なのだと、ひとまずは結論したい。」
 素直に肯定は出来ないが、考えて見る必要はありそうだ。プラスチックも老化し死ぬようになっているのであれば、微生物によって分解されるということなのではないかと、これが一つの光明と思えるのだ。微生物、菌類の世界は無音の美しさをたたえている。彼らは静寂の中で粛々と彼らの営みを気の遠くなるような時間、続けてきている生命体だ。その微生物に依ってプラスチックの循環が可能になるのではないか、とふとひらめいた。これを福音にする事ができるかどうかは不明だが、さらに「知りたい、解りたい」好奇心を発揮し続けてみたい課題ではある。

 おわりに

 すでにモノマー化している我々自身がプラスチックと共存する道を探るというより、すでに無意識的に共存してしまっているのかもしれない、だとしても、ここで今一度、芸術に立ち返りたい。その矛盾を内包したままの我々にどんな可能性があるのか、殊に自分がめざしたいと思った人と人をつなぐ、人と場をつなぐ、場と場をつなぐということへの答えは芸術の側からあるのか、ここに一つの答えを見た思いがした。
「反アート入門」の著者椹木野衣はその著書の中でハイデッガーを引用しつつ[最後の門]で語っていることは畢竟、土方巽、大野一雄に行き着く道筋なのではないかと感じた。
 「真理」を示すギリシャ語である「アレーティア」は「隠れ・なさ」という解りにくい状態を示す言葉らしい。真理、美を理想とする既知の芸術ではなく、「隠れ・なさ」を立ち現す未知の芸術こそが芸術の営みにとって根源的だ、と言う。
 この「隠れ・なさ」だが私たち日本人にはそんなに縁遠い感覚ではないと思う。
椹木自身も「仏教的、神道的な価値の在り様(たとえば「たま・しひ」のようなもの)」
と言っている。
 なにやら、俄然、勢いが出てきそうな展開である。
美術や芸術を理解するときに、私たち日本人にはどうもルネッサンスの革命性を語られてもあまりピンと来ないところがあり、芸術を語る時も日本に昔からあり、今ではそれらを芸術の範疇にとらえている、仏像、水墨画、日本画、陶芸など全く西洋とは違う時間をたどってきている。だから、今この現代の時点で芸術問題を語るにあたっても何か、私たちの問題ではないような気分になることもある。
 その曖昧な収まりの悪いままの芸術をこれからどうしていくかというところで椹木の提案するものは極めて納得させられるものだ。というか、そんなふうな極めて身体的、かつ瞬間的、残らない物ではあるが、生み出すアウラの大きさは無尽蔵であり、そのアウラこそがやたらと滋養になり、人を昂揚させ、勇気づけ、発憤させる、祝祭的ですらあるものなのではないか、椹木は呪術と言っている。まさに土方であり、大野の身体表現こそが
それに値するものなのではないか、と思うのだが。しかし、惜しむらくはすでにお二人はこの世にない。暗黒舞踏的な物はあまたありそうだが、真の後継者を私は知らない。
 
「だから、そのような孤生の現れとしていま、わたしの念頭に漠然とあるのは、誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術です。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能な芸術です。文字どおり、それは万人のものです。実はアートに決定的にかけているのは、この次元なのです。」

 今でもこのようなことを実現したいと腐心しながら、故障しがちな孤生な身を引きずりながら活動しているつもりではある。これで少しは能書きに箔を付けることができるのだろうか。そんなに単純で卑近なものじゃないはずだと腰がひけることも確かだ。
 が、これをもってとりあえずの結論としたい。






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