澄んだ青空が美しい木場公園の一隅をしめる現代美術館では
今日からあらたな展覧会が始まり、入り口を入ると 仰山な生花が列を成していた!
田窪恭治展 風景芸術 2011年2/26~5/8
展覧会概要
「林檎の礼拝堂」や「こんぴらさん」の再生プロジェクトで知られる美術家、田窪恭治(1949年-)の、
東京では初めてとなる包括的な個展を開催いたします。
1968年に多摩美術大学絵画科に入学した田窪は、1970年代前半のパフォーマンスを経て、
1980年代半ばまで、廃材を窓や扉の形に構成した作品を、
画廊や国際展(1984年のヴェネチア・ビエンナーレ等)などさまざまな美術展で発表していました。
フランス、ノルマンディー地方に移り住み、10年にわたり、廃墟と化していた礼拝堂の再生に取り組みます。
この「林檎の礼拝堂」のプロジェクトは、
住民との協働により、作品と享受者、出資者、所有権をめぐる芸術の新しいあり方を示すものとなりました。
「自分より長い時間を生きるであろう、特定の現場の風景を表現の対象とした仕事を『風景美術』。
作家がいなくなった未来においても生き続ける表現の現場を『風景芸術』」と呼び、
そのような空間的にも時間的にも開かれた活動を目指すようになりました。
と、言うわけで田窪様の展覧会は後日改めてユックリ拝見することにして、本日は田川先生のライブ(講義)を堪能する。
先生の芸術研究の授業概容にはこうある。
「移ろうのは時代や文化の表現ではなく人のほうである。
当ライブは芸術表現の射程をファインアート以外の分野に大幅に拡張(逸脱)し、あえて
意外なトピックスを盛り込む。そして、客観的な情報の羅列や史実の解説ではなく、
いかに世界や人と関係しているかにダイナミックに斬り込んでみたい。
スタンスは講義と言うより生身のライブ。
教室を会場とし、教壇をステージとし、配布物はプログラムであり、
扱うトピックスはセットリストのようなものである。、、、」と
というわけで本日のライブのタイトルは第1ステージが「身体加工」、第二ステージが「文身」である。
リッププラグ・頭蓋骨変工・纏足・伸首 等々 モードやファッションとしての加工ではなく
それぞれの民族固有の概念から、在る意味ではリーズナブルとも言える身体加工が施され、
その民族に在っては、美しさや誇りを顕す印でもあった。
身体加工の一つとして入れ墨があるが、
ダーウィンによると「北極圏からニュージーランドにいたるまで、原住民が入れ墨の習慣を持っていなかったところは一つもない」
というほどであったらしい。
この入れ墨を文身とも言う。
鶴岡真弓氏の「装飾の美術史」によると
文様の「文」は「人間・私」を越えた宇宙自然という客観的対象を表すばかりでなく
「人間・私」を組み込んだ文を表すもので、それは漢字の構造のなかにしめされています。
中略
とすれば、「文」「文様」とは人間がこの世界に誕生することと消滅することを厳粛に意識した
初めの傷=しるしであり、人間と世界の「関係を確認する」最初のしるしだったのではないでしょうか。
とある。
このことはアポトーシスともかさなる。
例えば、木に茂っていた葉は秋になると自然に落葉する。
それは、未来に生命をつなぐために、あらたな芽吹きの
為に死んでいくのだ。
われわれの60兆の細胞の内、日々4000億の細胞が死んでいく。
死に往く細胞があるから今日を活かされる。
死によって生が保証される。
まさに相反するものが交わる 文身である。