今日も声は、おかしい 皆さん 0120の電話に出てしまった。
「●×会社ですが、奥様ですか」違いますと答えると
今度は「御爺ちゃんですか」と予期せぬ問いに、小生、あが、切れた
我が頭の辞書は5、6ページその中の数少ない回答は
5年前に亡くなった爺さんだ、その返答は「そうですか、またかけます」
それじゃー次は、娑婆はさみーから土の中に今度はかけてくんないと答えた。
今日は、講談社から出ている五木寛之の「こころの新書」シリーズなどの古本を読んですごした、
きわめて記憶能力の低い小生は「こころの新書」シリーズ実はもう二桁近く読み返しているのだ。
いわゆる陶片僕なのです、本人が自覚しているのだから間違いない
そのシリーズの中の「サンカの民と被差別の世界」は実に興味深い
これは小説ではなく、ジャンルとしては、エッセイないしは著者自らのフィールドワークによる学術的レポートと呼んで差し支えない本である。
レポートの内容は、タイトルが示すように、サンカその他の、日本のマイノリティについてである。
この本を読めば、日本が単一民族国家であるとか、自分が普段送っている市民生活が、日本という国のすべてだなどと、
ゆめ思ってはならないことを思い知らされる。
例えば、家船(エブネ)である。
瀬戸内海には「家船(えぶね)」と言って、船を家とする人たちがいたらしい。旧正月には母港に集まる。その写真も載っているが壮観である。
東南アジアの一部に、川や海に船を浮かべ、その中で生活する水上生活者がいるが、昭和の時代まで、日本にも家船と呼ばれる水上生活者がいたことは、ほとんど知られていない。
サンカが山の民だとすれば、家船は海の民なのである。
その後、義務教育が始まると、彼らの子どものための学寮が陸上に作られたと言う。ある学寮では、
昭和38年のピーク時には在籍者が150名にも達したそうだが、昭和58年には閉鎖された。しかし、
豊浜にだけは今も学寮が残っているという
「サンカの民と被差別の世界」によると、家船らは船上で生まれ、ほとんど一生を船上で過ごし、必要とあらば沖にもどんどん出て行く。
定まった住所がないため、第二次世界大戦中も赤紙の届きようがなく、戦争の影響も受けなかったのだ。
しかし、昭和27年、全ての国民に住民票登録が義務付けられ、その人々は陸に上がり定住することを強いられたが、
定住後は、文盲であったことや、習慣の相違から差別もあった。
彼らにしてみれば、迷惑な話だっただろう。ある日突然、戸籍や住民票をあてがわれ、先祖代々の生活を全否定され、無理矢理日本国民にされても訳がわからなかったに違いない。
彼らはただの「人間」として生きていただけで、国家への帰属意識などなかっただろう。
そういえば、アイヌやイヌイットも「人間」という意味だった。
国家が近代化するためには、どうしても全体主義にならざるを得ないが、地球上の全ての人間が、定住し、戸籍や住民票を作らされ、徴兵・納税・義務教育をさせられることに向いている訳ではない。
中には先祖代々、そういう生活とは違うライフスタイルを守ってきた人々もいるのだ。
本来それは、優劣や善悪の問題ではなく、ライフスタイルの相違に過ぎない問題だったはずだ。
しかし、国家発展の過程はそのまま、国家の方針と相容れない「まつろわぬ人々」を従わせ、国民としての義務を負わせて来た歴史でもある。
そうした義務の反面、人権問題や、マイノリティの精神的文化遺産を守ることは考慮されて来なかった。
社会が成熟して来た今だからこそ、そうした問題を見直し、マイノリティの子孫が、自らの先祖や出自に誇りが持てるようにすべきである。
例えば、マイノリティが自分達の伝統文化を学びたいと希望した場合、そのための助成金、奨学金を国が負担すべきではないだろうか。
無論、おかしな利権問題とは別次元の話だが。
「サンカの民と被差別の世界」の中で、五木寛之は次のように書いている。
「この列島のなかを、あたかもリンパ球や血球のように流動する人びとが存在する、というイメージをずっと抱いてきた。定住民のあいだを非定住民が漂泊し、流動することによって、日本列島の文化というものはいつも活性化されつづける」
全く同じ価値観、全く同じ生活様式の人しかいなければ、国家に刺激はない。
植物が虫や鳥の力で受粉・果結するように、別の存在からの刺激を受けないと、文化は成熟しない。
沖浦和光氏は、サンカ研究の難しさについて、以下のようにまとめています。
朝廷や幕府が編纂した正史だけではなく、民間の伝承を綴った稗史にも、「サンカ」の名は見えない。辺鄙な地方に散在していたので、王朝貴族や権門寺社の記録に出てこないと解することもできる。しかし、古代・中世以来の由緒がある集団ならば、どこかにその痕跡が残っているはずだ。
特定の集団の歴史を調べる場合に、最も重要な手がかりになるのは、その集団の内部で書き残された記録であり、それを補う口碑と伝承である。
サンカは、無文字社会で生きていたから記録を残さなかったとしても、長い歴史がある集団ならば、口から口へと伝えられた口碑を残したはずだ。ところが、それもない。かつてあった物が、なにかの事情で失われたわけではない。はじめから内部資料は全く残されていないのだ。
古代や中世の文献から「サンカ」の当字らしき漢語を探索して、その名辞でもって起源論を展開してみても
徒労に終わるだけだ。その生活や民族の実態を考察することなしに、呼称にこだわって論じても、その歴史
を解明できないことは目に見えている。
「サンカ」の起源とその歴史を明らかにするためには、とりあえず正確な「サンカ民俗誌」が編まれなければ
ならない。歴史記録がないならば、この民族誌がサンカの実像を明らかにする大きい手掛かりになる。
しかし、その姿も1950年代後半には見えなくなったので、もはや新しい鍬でもってサンカ民俗の土壌を鋤き直すことはむつかしい。
確かな資料が集積されないままにサンカについて語ろうとすると、どうしても推定による資料操作になって
しまう。その典型的な例が、三角寛の博士論文『サンカ社会の研究』であった。これなどは腕利きの新聞記者の勘と想像力豊かな小説家
資質がないまぜになって、「サンカ」社会を壮大な仮構の世界として築き上げてしまった好例である。
柳田國男のように古代からの先住民の末裔だという説もあったが、著者は江戸時代のたび重なる飢饉から逃れて山中に生計の道を探さざるをえなかった人たちがサンカの起源になったとみなしている。天明や天保の飢饉があいついで、餓死者が数多く出る荒廃した幕末期にそのような山中に活路を見出す人たちがあらわれたと考えている。民に関わりがあるところなど、零細的なかわいそうな印象のほうが強い思いがした。
戦後の「寅さん」の放浪であるとか山下清の放浪などのフィクション物語は人びとの憧れを誘ったものである。松本清張『砂の器』のような零落した放浪もかすかな憧憬を駆り立てる。社会の硬直化や閉塞状況が強くなるたびにそのような思いが強くなる。近代化の国家主義の時代において、や民に近かった零細の民は、都市民の過大なる憧憬やロマンを駆り立てて、
「大いなる虚像」とてつくりあげられていったのだろうと私は思う。
サンカについては沖浦和光氏の『幻の漂泊民サンカ』以上のことは、あまり書いてなかった。
数冊より引用していますので解りにくい点が有りますが、文学的表現極めて低いのでご了承願います。
なを、特定の人を対象にしておりませんが、表現に誤解が有りましたらはお許しください。
つづく