1780-1838 江戸時代後期の儒者で文政、天保時代に東毛文壇重きをなし影響を与えたのが
鈴木廣川 「すずき-こうせん」安永9年生まれ。上野(こうずけ)佐位郡保泉(ほずみ)村
(群馬県伊勢崎市境保泉)の、独学で荻生徂徠(おぎゅう-そらい)派)
ついで山崎闇斎(あんさい)派の学をおさめ,詩文もよくした。
門人に金井烏洲(うしゅう)、俳人 和佐田 池澄(こじゅう)保泉村 名主らがいる。
59歳。名は惟親。字(あざな)は克敬。
通称は四九郎。別号に漂麦園(ひょうばくえん)。著作に「漂麦園自詠」「凶荒歌」などが。
鈴木広川は金井家と、伊与久村、大谷尚石などと親しく、漂麦園文集12巻が現存しており
特に漂麦園自詠20首は、古今の絶唱と称されている。
昔から保泉村には、過ぎたるものが二つある「四九郎先生と唐銅の鳥居」
勝山神社の大鳥居は明和六年に建てられ、神社拝殿は天保十一年に
弥勒寺(みろくじ)音次郎が造営した。
拝殿の天井は、金井烏洲と門弟が画いた花鳥で貴重な文化財である。
なを、 名主 和佐田家 十七代当主 貞良氏は平成二十年三月 百二歳で帰幽
老叟大人命霊神(ろうそううしのみことみたまのかみ)となった。
特に漂麦園自詠20首は、古今の絶唱と称されている。
余談になりますが、鈴木家には私の義妹が嫁いでおります。
我が系譜は、楠木正成から七百年前よりあります。
墓石は、権大僧都 正徳院なども現存おります。
随って鎌倉時代から、僧侶が居たと思います。
金井 烏洲(かない うじゅう、寛政8年(1796年) - 安政4年1月14日(1857年2月8日))は、
江戸時代後期の画家、勤皇家である。通称は左仲太のちに彦兵衛、字を子修また林学、
諱は時敏のちに泰。号は烏洲(烏州とも)、朽木翁、呑山人、白沙頓翁、雨笠、晩泰翁、
栃木翁、白沙村翁、小禅道人、獅子孔道人など。従五位。上野国佐位郡島村
金井家は岩松時兼の三男金井長義を祖とし、数世の後に新田郷から島村に移住した。
累代の豪族で萬古と号して俳諧を能くした彦兵衛の二男として生まれ。
早くから尊王の志を抱き高山彦九郎に私淑する。後年、頼山陽らと交流し、ますます勤皇の志を固めた。
来遊した春木南湖に画の手解きを受け、江戸に出てからは谷文晁に師事した。
江戸南画壇の一人として名を成し、大障壁画の製作にも携る。学問や詩を好み、
詩文結社の小不朽吟社に参加している。頼山陽の他、菅井梅関、篠崎小竹との交流も知られる。
寛永6年(1853年)に避暑に訪れた日光にて『無声詩話』を著す。晩年は故郷にアトリエ呑山楼を構え、
中風を患うも書画の製作に打ち込んだ。この晩年の作を風後の作という。享年63。金井之恭は息子。
なを、現在、金井 烏洲の作品が現存しておりますのは、
群馬県伊勢崎市境保泉の勝山神社の天井画が紛れもない烏洲の作品です。
金井 烏洲の作品は下記の伊勢崎市のホームページでご覧頂けます。
http://www.city.isesaki.lg.jp/internetmuseum/kanai/room3.html
なを、上州で知られている、国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次、忠次郎とも、文化7年(1810年)
嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は,佐位郡保泉村は、幕府領・前橋藩であり、立入はご法度だった。
参考文献 しの木弘明著 佐波伊勢崎史帖 みやま文庫
群馬地名研究会 編 群馬の地名を訪ねて ㈱上毛新聞ほか