高倉健の転換期
高倉健インタヴューズ より引用
《高倉健の話》
俳優になろうと思ったのは、お金がほしかったからです。
恋をした人がいて、その人と暮らすためにお金が必要でした。
大学を卒業して二年目。知人に新芸プロダクションという事務所を紹介してくださる方がいて、マネジャーになろうとしたんです。
(美空)ひばりちゃん、大川橋蔵さん、錦ちゃん(中村錦之介)がいたプロダクションでした。
事務所を紹介してくださる方とある喫茶店で会ったとき、
偶然当時、東映の専務だったマキノ光雄さんがいらした。その場で俳優と
してスカウトされました。
(東映の)ニューフェイスに受かってすぐに大泉の撮影所にカメラテストを
受けに来たことをよく覚えています。メイク室で顔にドーランを塗られて、
ああ、役者になると化粧するんだなあと思ったら涙がぽろっと出ましたよ。
翌日から僕と今井健二君の二人は六本木にある俳優座の養成所に
委託研究生として頂けられました。
演技の勉強をすることになったんです。
教室に入って「小田と申します」と自己紹介したとたん、小田君、
いいからまずパントマイムをやってみなさい」……。
周囲がすべて壁で囲まれている場所で火災にあった男をパントマイムで表現してみろ、
ということなんです。
ところが、僕は教室に足を踏み入れたばかりだもの、やれ、と訪われてもねえ。
なかなかできないよね。素人だもの。
「すみません。できません」と正直に言いました。他の人たちはみんな
煙を吸い込んで咳き込んだ真似したり、
ないはずの塀を叩く格好をしたり、みんな上手なんだよ。
「小田くんは俳優を目指して稽古にきてるのに、できませんとは何事かね」と
僕だけ怒られました。評価はゼロです。自分には俳優という仕事は
向いていないんじゃないかとも思ったんですが、しかし、
他にできる仕事もないし、
金を稼ぐためにはとにかくやるしかない。それでIカ月の問、
稽古に通っていたら、
突然、主役をやれということになりました。そのまますぐに
撮影現場に入りましたから、僕の演技は誰かに教わったものじゃないんです。
俳優になって三年間くらいは演技のことなんて何もわかっていなかった。
三年目に内出仕夢監哲に出会い、『森と湖のまつり』(九八年)と
いう映画に出演しました。
衣装合わせのときに内田監督から「君の役はアイヌの運命を背負って立つ青年だ。
キャラクターのなかに悲劇的な匂いを出してほしい」と言われたんです。
しかし、僕には監督の言った「匂い」という言葉がまったく理解できなかった。
「どうして映画に匂いが写るんだ。そんなわけないだろ」なんて腕組んで真剣に
考え込んでたくらいですから。しかし、あの映画に出てから、
僕も少しは自分の演技について考えることを学んだように思います。