下士官から将校への道
福島は酒保への出人りもひかえて、手当の大半を積立て、士官学校の人学にそなえてきた。
その積立金で招待したいと、手紙で宇田川に申し出たのである。
休暇をとり、東京を案内するとも申し添えてあった。
ところが宇田川教官は、丁重な挨拶につづけて、そのようなことを考えるよりも、
親に送金するようにと返信をしてきた。福島はこの宇田川の手紙を、
筆写本にはさみ、その後長く永く保存している。
福島は明治二十一年九月、教育団を卒業、陸軍工兵二等軍曹に任官し、
仙台の工兵第二大隊付を命ぜられた。
しかし彼は士官学校では、歩兵士官へのみちを希望し、歩兵科への転科を申し出た。
希望は適えられてその年の十一月、本官の工兵二等軍曹を免ぜられ、
士官候補生だけとなった。そして工兵科だったものが、歩兵科に自分から望んで転科したため、
歩兵科を二等卒から体得しなおさせられることになり、高崎連隊(歩兵第十五連隊)の
第三中隊に転属した。陸軍軍人として戦闘第一線での活躍をのぞみ、
それには工兵科よりも歩兵科でなくては、と判断したためだろう。
工兵科のままのほうが陸軍士官学校では苫労も少かっただろうに、
あえてまわり迫をしたところに、福島の面白さがある。こうと決めたからにはと、
ひたすら兵卒部屋で兵卒勤務に励む彼の姿が眼に映るようだ。
寄り道をしたような工兵科の経験も後年、大いに役立つことになる。
高崎連隊で、福島が元の階級、陸軍歩兵二等軍曹に昇進したのは、翌年の夏、
明治二十二年八月である。そしてその年の秋十一月、晴れて陸軍士官学校に入学した。
こうして、一平民の出にすぎない福島泰蔵は、
士族出身のものとようやく肩を並べることができた。
しかし肩を並べたようにみえながら、現実には薩長閥という巨大な壁に
大きくはばまれることになるのを、後年、いやというほど思い知らされるのである