惣右衛門の手記より
とうとう忠治も、関所破りの罪名を主罪として、江戸時代後期の
掟の通りに、破った大戸の関所で「於其処磔」となった。
裁きを受けた江戸から、はるばる中山道を上って、豊岡から更に
信州街道に入り、室田~三ノ倉~権田~萩生~大戸へと送られる
事になった。この間の準備や処刑のための刑場設備などに主として
当った大戸宿のの幹部であった惣右衛門が、事詳しく当時の、
経過の記を遺している。原本は、旧吾妻郡吾妻町大戸の佐藤げん
さんが所蔵している。三冊あり、一冊は表紙に
「時于嘉禾三庚戌年十二月廿一目 罪科之儀者傑
御仕置御用向勤方諸掛 扣」とあり、
紙数は表紙とも十七枚て、左頁下隅が破損して一部読みにくい。
行われる事になっていたので、忠治の処刑も同じ方法を採った。
地元大戸宿の惣右衛門が直接の責任者となり、高崎、安中、
板鼻方面の頭と連絡して準備を進めた事がわかり、
貴重な資料である。
この記録を原本のまま此処に記して、その状況を知る事にする。
作家、塩見鮮一郎氏が、「弾左衛門の謎」「資料 浅草弾左衛門」
など全六巻他、「車善七」全三巻など多数の著書が、現代人の
知り得ない裏社会の実態を知る上で非常に参考になります。
又、隆 慶一郎氏の「吉原御免状」「花と火の帝」なども、
当時の幕府裏社会を丹念に調査し且つ克明に、描写しており
無学な我は非常に、興味深く学ばせて戴いております。
続く