三角寛(1903―1971年)は小説家であり、また著名なサンカ研究者であった。
三角の著書『サンカの社会』(昭和四十年、朝日新聞社)の末尾に、おそらく著者白身の手になる略歴が記されている。
本名三浦守。明治三十六年大分県生れ。大正三年(十一歳)三月出家、(本派本願寺)得道、
憎名、釈法幢。同十五年三月日大法科在学中、東京朝日新聞社入社。社会部記者として活躍の
かたわら三角寛の筆名で書いた『昭和毒婦伝』以下の諸作でサンカ小説を開拓。昭和八年から作家
生活に入り現在映画館「人世坐」社長。孝養山母念寺管長住職。昭和三十七年『サンカ社会の研究』により
文学博士の学位を得た。
著書 昭和妖婦伝(新潮社)昭和毒婦伝(春陽堂)山窩は生きている(四季社)ほか六十八冊。
住所 東京都豊島区雑司ケ谷一の三六六
『サンカの社会』は、略歴中に見える博士論文(東洋大学へ提出)の骨子版として出版されたもの
である。これと全く同じ内容、同じ体裁の本が三角の設立した母念寺出版という会社から同時期に
発行されており、こちらの方は表題が『サンカ社会の研究』となっている。ともに長く絶版になっていて、
たしか昭和六十年ごろのことだったと思うが、わたしは東京・神田の古書店で、かなりくたびれた
『サンカの社会』に五万何千円かの値段がついていたのを目にした記憶がある。
しかし平成十三年に現代書館から母念寺版を底本とした復刻版(中味は朝日新聞社版と寸分違わない)が出たので、表題を含め復刻版によって話を進めて行く事にしたい。
ただ、その前にもう少し、三角について触れておく必要がある。
三角と妻よしいとのあいだの1人娘であった三浦寛子が書いた『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』に
よると、三角が生まれたのは現在の大分県竹田市郊外(旧直入郡馬龍村)で、阿蘇山が真っ正面に、
見える山また山の中だった。十二歳のとき近村の最乗寺に預けられ、寺から高等小学校へ通った。
住職の大原寂雲に四書五経や経典の教義を学んだというから、この時代の僻村の子供としては、
たいへん恵まれた文字教育を受けたと言って良いだろう。
最乗寺で五年ほど過ごした三角は、十七歳のある日、突然、無断で寺を飛び出してしまう。
それから大正十五年二月に朝日新聞へ入社するまでの五年前後については、どこで何をしていたのか
「まったくと言っていいほど解らない」らしい。したがって三角があちこちに記している
「日本大学法科卒」の学歴も「どうも可笑しい」という事になる。
三角寛は朝日新聞在職中に小説を書きはじめる。『山窩物語』(昭和四十一年、読売新聞社)の著者
紹介欄によれば、文語音杖柱の永井龍男のすすめで小説の執筆に手をそめ、同社の『婦人サロン』
に連載した「昭和毒婦伝」で文壇にデビューしたとなっている。 つづく
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