アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治  其の壱

2013年08月16日 | 近世の歴史の裏側

 

 上州無宿国定忠治を侠客とするものと、無頼の極悪人であるとする説があって、

未だ、 忠治をめぐる論争は絶えるところがない。

私は生まれも、現在の住まいも国定の近く群馬県である、忠治の地元であるから、

早くから忠治の資料には注意していた。

忠治は二十歳のころから数年の間、境町在百々(どうどう)村に居たと思われるが、

関係するところが甚だ多いのである。

ところが資料を集約すると、侠客とするよい面が次々になくなって、

次第に卑怯者、悪人忠治の姿が浮かび上ってくる。

国定村の近く、伊与久村の儒家深町北荘の手記によれば、

北荘には嘉永四年の「博徒忠治伝記」五冊の著述があるが、

これも国定忠治死後の記録である。北荘の筆録は多く散逸して、

この国定忠治伝現在は伝えられないが、もしこの五冊があるならば、

実際にその行状を見聞した地元の手記として、忠治の実状をかなり詳しく

知られたであろうが惜しい限りである。

しかし北荘には他に「国定忠治引」という文章が残されている。

忠治引というのは「忠治のこと」という意味で、その中に忠治が、渡瀬川上で

酒銭をかすめたことや、昼は山にかくれ、夜になると徒卆を引いて通街を侵し、

処女は暴にあって婚義を失い、販婦は節を失って泣く、という行状が記されている。

一人の百姓は、抜刀する数人の無頼の徒に、決してかなうものではなく、

昼間はかくれていて、さながら夜盗山賊の所業である。

斯様に国定一味は日夜非道暴戻を重ねたわけで、付近の百姓町人は

震え上って怖れたのである。

忠治の行状を調べると、その大部分は悪業である。

娘を救ったという、いわゆる信州の山形屋藤蔵一件や、岩鼻の悪代官の、

松井軍兵衛を斬ったというのは、孰れも作り話しである。

そして相手を倒すとき、ほとんど国定忠治自身は手を出していない。

売り物の度胸は一体どこに失ってしまったのであろう。

したがってその行跡は悪業だらけで、悪人忠治が成り立つわけで、

真実を求めようとする立場から、私は国定忠治の名は長岡忠治であるが、

忠次、忠次郎などいろいろに呼ばれているが、忠治というのが正しい。

生まれたのは没年より算すると文化七年で、国定村長岡与五左衛門の次男である。

三人兄弟であったが、長兄の名は知られず、つぎが忠治、その弟に友蔵というのがいて、

この友蔵の子孫が今にある。巷説には父与五左衛門は、村の名主で豪農等とするが、

それを示す資料は全くない。

与五左衛門は文政二年、忠治十歳のとき死んだとされるが、

享年其の外伝えられるところはない。

清水次郎長はこの翌年に生まれている。

羽倉外記「赤城録」によれば、文政九年、忠治十七歳のとき賭場の争いで相手を

殺害したという。そのため村に居ることが出来ず、出奔して川越にいた大前田栄五郎の

ところに身を寄せた。栄五郎は赤城下大前田村の無宿で、やくざ者で召捕られて

佐渡流しされたが、厳重な見張りを破って島抜けして逃げていたのである。

其の為、栄五郎は両手が凍傷で有った。

大前田栄五郎の厄介になって居たが、一年ほどして栄五郎は、もう詮議も

なくなったから、上州に帰れと言い、文政十年に百々の紋次のもとに遣わしたとされ、

既に此処には、三ッ本の文蔵や、境川安五郎などいう、

名うてのならず者が集団していた。

又、先にこの地は、島村一家伊三郎の地盤であったから博徒ではなく、

その筋では、ならず者集団だったわけである。

 

 

 百々(どうどう)

百々は「どうどう」と読むが、語源は、十十(とうとう)であって10×10で百に成る訳である。

地名としては県内旧北甘楽郡にあり、また三河国や下野にもある。

水が流れおちる響をいったもので、物音からとった地名は非常に珍らしい。

 

国定忠治の親分といわれた百々の紋次は百々の羽鳥氏で、経蔵寺墓地に、

絞次の石塔と称するものがあり、村内に絞次屋敷と呼ぶ場所もある。

紋次の戒名は花愉快光居士、花という字は博突打の戒名につける字で、

堅気の人には決してつけない。しかしこの石塔の人物が紋次であるか、

また紋次という侠客が実際にいたかどうかは、いまだにわからない。

 慶応四年伊勢崎藩で百姓の身分格式を書出させたが、

そのとき百々村では、新井平八が御取締支配御家中分格、

羽鳥伝右衛門が帳外苗字御免、岡崎最前が苗字御免で、

この三人が、普通百姓より別格であった。帳外というのは

一般の百姓とともに五人組帳へは記さない別格の待遇をいったものである。

 

 

これは、余談ですが、私の父は江戸屋敷で生まれで学校が大嫌いで、

 学校には行かず、寄席、劇場、撮影所などで青春を過ごしたらしい

幼い時、どうして「どうどう」と言うのか、尋ねたら

昔、あの地域は馬方が多く、いつも馬を引く時に「どうどうと」言っていたからと、

教えてくれた。

万事このような父で、壱百弐歳で帰幽したが、前日まで冗談を言っていた。

父であったが、一様我家系は室町時代から、苗字帯刀を許されていた。

 

 笹沢左保の小説,


 

『木枯し紋次郎』(こがらしもんじろう)は、百々紋次をヒントに

 笹沢左保が名付けたものでフジテレビ系列で

 197211日より放映されたが、舞台は天保年間。

 上州新田郡三日月村と架空の場所になっている。

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (迷道院高崎)
2013-08-16 21:45:38
ほほー、これはなかなか面白い!
その2を楽しみにしています。
返信する
気の向くままに、 (ズボラ小父さん)
2013-08-17 06:08:42
迷道院高崎さん

ズボラゆえ、どんな方向に向かうのか、いつ終わるのか
私本人も解りませんが、お彼岸の頃を目安に
投稿致しますので、宜しくお願い致します。
返信する

コメントを投稿