アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の36 サンカの事情と特徴

2015年11月01日 | 近世の歴史の裏側

昭和二十五年ごろから埼玉県嵐山町菅谷の都幾川縁を拠点に集団生活を送っていた五組の

夫婦のうち もともとミナオシ社会に生まれ 育った者は男性の方が久保田辰三郎 梅田留吉の

二人 女性は梅田の妻 川田イシを除く四人であった 残りの夫三人 妻一人は いずれも外部社

会からの流入者である 

 出自を異にする両者には それぞれどんな特徴があったのか その共同生活はどのようなもの

であったのかを見るために ここでは伊藤昇を取り上げることにしたい 

 伊藤は昭和五年(1930)五月 神奈川県横浜市南区高根町で生まれている 父は現在の山

梨県市川三郷町 母は静岡県湖西市の出身であった 昇には弟が一人いた 

 両親は昇が少年のころ相次いで病死している 父は脳溢血のため自宅の便所で倒れ 母は弟を

産んだあと体調を悪化させたのだという 二人の兄弟は 静岡県新居町(現湖西市)で洋服の仕

立て業をしていた母方の叔父のもとへあずけられた 昇が小学校三年生くらいのときである 同

地で初等料の六年を卒業すると 敗戦までの二年余り学徒動員のような形で鷲津町(現湖西市)の

工場で働いた。 戦後 伊藤は静岡県浜松市にあつた国鉄の浜松工機部へ就職する しかし、

そこでの動めは一年もつづかなかかったのだ 本人は「団体生活になじめなくて辞めた」と話していた そうして昭和二十一年の夏ごろ 当てのない放浪の旅へ出る。一六歳であった、 

 彼は「人と顔を合わすのが嫌で」山中ばかりを転々とする それは生やさしい日々ではなか

った ヤマメなどの川魚を平づかみで捕り キノコを採取した 蛇をつかまえ 皮をはいでから

焼いて食べたこともある 調味料などは いっさい使わない 口の中に雪を押し込んで空腹をご

まかしたこともあった ときには人がいない農家へ忍び込んで とくに食い物を失敬した 雨が

降ると一晩中 眠らないときもあった もちろん地図など持っていないので、

どこをどう歩いたかは判らない。

                           つづく

       



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