元和九亥年御上洛之砺、御国安中城主井伊兵部少舗吉戸村御国右之家中、
迎山久兵衛殿数人二面御国被成候。其節拙者先規四人二被仰付(中略)
其以後寛永七午年御間為御見立、 小幡孫次郎様
塚原治左衛門様御吟味御大戸村に御関所之場所御見立、翌来年御関所御立番人之儀
右を筋目、御吟味之上先規四人二被仰付云々
関所番人 大戸関所の定番は、次の四名である。
大戸村 一場五郎左衛門
加部 小右衛門
本宿村 堀口 利右衛門
萩生村 田中四郎左衛門
○ 関所の構造
大戸関所は、掘の内川にかかる板橋から北の御門までの敷地内に番屋、内御門、
外御門、御高札、牢屋、塀、柵の建造物があった。
○ 番屋
番屋は、間口六間、奥行三間の平屋造りの茅葺で、間取は、入側・面番所・休息所の三
個所に区切られており、三方は板縁である。畳の部屋は、上の間四畳・中の間ハ畳は近江表
縁付、下の間拾畳は琉球表縁なしの畳合二十二畳である。
関所は寛永八年(一六三一)創設され、明治二年(一八六九)の廃関までの約弐百四拾年間
修復された資料からみると、正徳元年(一七一一)、寛政二年(一七九〇)の二回建替えを
している。また二回の建替のほか、茅葺のため破損が多く、延享二年(一七四五)、宝暦十二年
(一七六二)、安永四年(一七七五)、文政三年(一八二〇)、弘化四年二八四七)、
文久三年(一八六三)の六回の屋根葺替がなされている。屋根坪は四拾弐坪。
○ 門
大戸宿から橋を渡った(以前)ところの門は内御門、品川に面した北側を外御門という。
内御門は、屋根の長さ二間の板葺であったが、天保十一年(一八四〇)に藤岡瓦千枚を
買い入れて、瓦屋根にした。おそらく当地に大戸村は初めての瓦屋根であった。
瓦千枚
此永四貫文 但百枚二付永四百文
右瓦十五駄 此賃永二貫六百三十二文五分
是は藤岡町より大戸迄里数十三里
壱駄二付賃永十三文五分宛之積
瓦代金は百枚につき四百文であるから、千枚で四貫文、また藤岡町より大戸までの道のり
およそ十三里という遠方と品物が破損するもの割高につき瓦十五駄、ニ貫六三〇文分となる。
瓦屋根にしてみたが西側に山があり、そのために冬期間は特に日照時間が少なく、
その上,川風が吹き上げ寒気厳しく、折角取寄せた瓦が凍割れしてしまう状態になった。
それ故に弘化四年再び板葺に戻ってしまう。
つづく
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