○浅次郎、勘助の首を忠治の元へ
天保十三年九月二十日の夜明けに、浅次郎が勘助の首をもって、
赤城山の紫藤洞というホラ穴にいた忠治の前にこれを差し出した。
忠治は熊の皮の上に座って首実検をした。左右には、子分達がズラッと
列んで威粛なものであったという、浅次郎には金二分、八入の子分には
金一両ずつを褒美として与えたと云われているが。金壱拾両を出して
「浅次郎には金二両、八入の子分には金一両ずつ渡したとの説もある。」
私憤やる方なく、ついにこのような、筋の通らない事をしなければならな
かったのは、忠治自身への圧迫が、つよまり、危機感がヒシヒシと強まって
きたためかも知れない。事実、天保十三年以降、幕府側の忠治迫究は
にわかに強力になってくる。
この事は次回に、記載致したい。
なを、忠治の菩提寺、養寿寺境内にある。遺品資料館の資料では、
首実検をした後、直ちに草鞋を東奥州(会津周辺)に向けたとある。
つづく
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