○伊三郎の闇討ち、弐
大変な傷害事件であるから、境村名主が領主方に、この一件を報告した
書類が伝えられているが、これは忠治の行状を伝える数少ない
実在資料なので、つぎにあげておきたい。
乍恐以始末書奉中上候
御領分上州新田郡境村名主源次郎奉中上候、当月二日夜、
当村地内ニ手負人相倒罷在、其段御訴奉中上候始末御尋二御座候、
此段当村宇高岡前と唱候山地、前々より酒井市郎右衛門様御知行所、
同郡高岡村与頭藤七所持ノ地所ニ御座候処、当三日ノ朝山主藤七儀地所
見廻り候処、立木生茂り候内ニ、手負人相倒居候旨、同人より
当村役人方注為知参り、驚人不取其堀江罷越、一同立会得と面躰見届ケ、
疵処相改候処、肩先より背注掛ケ壱尺七八寸程、腰の廻り二弐三寸程ノ
疵五ケ所程有之、何レ茂深手ニ而、子細相尋候得共更二請答無之、
九死一生ノ躰二有之、身元取調候処、前言藤七兼面見知り候ものに面、
山本大膳様御代宿所向州佐位郡島村伊三郎ノ由中ニ付、早速先方注為
知遣し候処、同人親類松之助、次郎八と寸輩 両人罷越候間、手負人
見分為致御検使可奉願上と中談候処、左候而ハ却而迷惑いたし候間、
巳後何様ノ儀出来いたし候共、当村江脚難儀掛ケ中間敷候間、
速而引渡呉候様中ニ付、無是非右次第一札取置
引渡遣し候儀ニ御座候処、其後風聞承り候得者、無程相果候建ニ有之、
然処当十三日ニ至り、関東御取締御出役様方より御使ノ由申、
木崎宿問屋軍蔵外弐人罷越中聞候者、右伊三郎殺害致候もの共者、
新田郡国定村無宿忠次郎、同郡三ツ木村無宿文蔵、外ニ同類八人程有之、
右ノもの共儀万一当村江立廻り候義も有之候ハヽ搦捕、御出没先江
御訴可申上、御出役様より当村江可中通皆被仰渡ノ趣ヲ以軍蔵外弐人
より達し有之候ニ付、則別紙写ノ通使中迄請書差出し、昼夜無油断心附
罷在候儀ニ御座候、昼夜無油断心附罷在候儀二御座候前書中上候通、
少茂相違無御座候、以上、
天保五午年七月十九日
御 領 分
新田郡境村
名主 源 次 郎
この書付によれば、伊三郎の重傷しているのを、翌日朝に地主が見付けたと
しているが、それは死体を引き渡してしまったからである。
忠治一党十人にめった切りにされて、九死一生はないわけで、お上も斬殺され
たのは間違いないと見たようで、この後天保九年、三ツ本文蔵が召捕られた時、
境村と高岡村名主に、再び伊三郎殺害の様子書を糾しているが、その時もこの
同文を差出している。殺人事件か、傷害事件であったかの分かれ目である。
役人の検死をうけないと、死体を動かすことは出来ない。そのため
伊三郎の死体を引き渡したとき、まだ生きているとして境村名主は、
後日の証拠のために伊三郎方から引取り証文を受けとっている。
差出中引請一札之事
一、当二日夜伊三郎義、其御地内ニ而、相手何方之ものニ御座候哉、
手負に相成候処、疵口相改候得者、療治等差加へ申候ハヽ快気茂可有之
と存候ニ付、御村役人衆江此段御願中、同人身分之儀者親類方へ引請、
成丈療治仕度候、尤御村方ニ而者御検使願上度旨被仰聞候得共、
再応御願中上引請ニ相成候上者、巳来何様之御尋御座候共、親類引清之
もの共一同罷出中訳ケ仕、其御村方江御苦難相掛ケ中間敷候、
為後日親類一同引請一札差出申処而如件、
天保五午年七月三日
佐位郡島村
伊三郎親類 松 之 助 印
同 次 郎 八 印
境 村
御役人衆中
この伊三郎殺害一件については、すぐさま関八州様が木崎宿に来て、
忠治一党の急手配状が出されており、つぎのような請書が伝えられる。
差上申請書之事
一、当七月二日夜村方地内ニ而、島村無宿伊三郎を及殺害迯去候、
上州新田郡国定村
無 宿 忠 次 郎
同州同郡三ツ木村
無 宿 文 蔵
外同類 八人程之内
右之もの当村方並最寄村方ニ立廻り候ハヽ召捕、御廻村先江可訴出旨
被仰渡之趣、御達し被下承知仕候、依而請書差上申候処相違無御座候、以上
天保五午年七月
林肥後守領分
上州新田郡境村
百姓代 惣 助
与 頭 伴 吉
名 主 源 次 郎
関東向御取締御出役
吉 岡 左五郎 様
河 野 啓 助 様
太 田 平 助 様
小 池 三 助 様
この手配書はわざわざ木崎宿の問屋軍蔵、名主与市右衛門、与頭孝兵衛の
三人が境村に持って来ている。
関八州様が忠治の行状に、常に注意していたことが知られ、
此の度は大手配に御座候とある。今日の特別指名手配である。
普通やくざ者同士の争いには、お上は殆ど手を出さない。
大前田や清水次郎長など、随分やくざ同士で喧嘩をしているが、
お上は決して手を出していないが、無宿者忠治一党にだけは、
断固たる処置を取っている事が判る。
つづく
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