中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

高島秋汎幽囚地(旧中山道を歩く 55)

2005年08月25日 08時58分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(高島秋汎幽囚地入り口の案内)



(深谷宿4)
中山道へ出て歩くとすぐ信号があり、信号の左角に
「高島秋帆幽囚地入り口」の石碑があるので、
信号を左折。すこし行くと右側に同じ石碑があるので右折。
左側の畑の中に石碑と案内がある一角がある。

(高島秋汎幽囚地跡)

高島秋帆は高島流砲術を創始した有名な砲術家であるが、
中傷により当地に幽囚されていた。
砲術の訓練には、江戸 板橋の徳丸が原で訓練し、
西洋流の砲術を紹介した。
後にペリー来航と共に近代兵学の必要性から、赦免になった。

徳丸が原は、昭和48年以前は広大な湿地帯であったが、
周りから埋め立てを行い、現在は東京都板橋区のマンモス団地が
林立して、その名も「高島平」と名づけられている。

中山道に戻り、しばらく行くと、右側に「曹洞宗普濟寺」がある。
ここは岡部六弥太が開いたお寺で、お墓もあるというが、
お墓は見損なってしまった。
案内に拠れば、お墓をいったん出て、
道路を北に行き、畑の中にあるというので見ておきたいものである。

(普済寺の門前)

(岡部六弥太の墓は何処にあるか解らなかったが、墓地にあった岡部家の墓で我慢してください)

やがて岡部駅入り口交差点右脇に「島護産泰神社」がある。
榛沢郡の総鎮守で安産の神様。創建は東国征伐で訪れた
日本武尊と言われる。この手前に岡部藩領岡下村の
高札場があったとされる。

(高札場があったとされる島護産泰神社)

(神社の境内、地方の神社の境内はよく整備されていて、とても奇麗)



史跡平忠度の墓と岡部六弥太(旧中山道を歩く 54)

2005年08月20日 08時56分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(東京駅と見間違うほどのレンガ造りで美しい深谷駅)



(深谷3)
深谷駅はレンガの町らしくレンガ造りで美しい。
東京駅丸の内口を思わせる駅舎である。駅を出たところに
郷土が生んだ偉人 渋沢 栄一の像がある。
駅内ギャラリーで、偶然 渋沢栄一展を催していたので入る。
栄一が親交のあった人たちの書、詩が並んでいた。

(深谷駅前の渋沢栄一像)

渋沢 栄一については、述べるまでもないが、
一時は、激しい尊皇攘夷論者であったが、
パリ博覧会に同行し、近代設備や経済制度について勉強。
その知識を元に、日本初の株式会社を作り、後に
第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京ガス、などを
設立した財界の大御所とされた。
東京の常盤橋御門脇にも渋沢栄一の像がある。

深谷駅から北北西の6km離れたところに、
生家や記念館があるので、ついでがあったら見学しよう。

中山道に出て進むと右側に、飯島印刷所があるが、
元はここに飯島本陣があった。本陣跡の案内看板が立っている。
しばらく古い格子窓のある造り酒屋の家並みを右左に見て進むと、
その先に「上の常夜灯」があり、深谷宿はここで終わる。

(本陣跡の看板と花壇)

(造り酒屋1)

(造り酒屋2)

(上の常夜灯)

さらに進み、「清心寺入り口」の案内があるところで左折。
線路を渡って正面に清心寺がある。正門左手に
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。

(清心寺)

(平忠度の墓)

忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。

・行きくれて 木の下陰を 宿とせば
      花やこよいの主(あるじ)ならまし  忠度


墓の前の案内に拠れば、

岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
                 (深谷上杉顕彰会)

さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。

しばらくすると17号と交差し、その角に「滝宮神社」がある。
これから先が岡部町である。

(滝宮神社ー1498年室町時代のもの上杉憲房の所領)

中山道を行くと、右手に大きな寺院が見えてくる。
「源勝院」である。ここは家康時代の岡部藩主(安部一族)の菩提寺である。
本堂左手に12基の位牌型のお墓が並んでいる。
その左奥に岡部神社が見える。
ここは岡部六弥太が祈願所といわれ、岡部藩主の安部一族は
当社を崇拝し、代々祈願所としたといわれる。

(源勝院の入り口)

(安部一族の十二基のお墓。この左手に岡部神社がある)

(岡部六弥太が戦勝祈願したといわれる岡部神社)








童謡「みかんの花咲く丘」(旧中山道を歩く 53)

2005年08月05日 08時55分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(みかんの花咲く丘歌碑)


(深谷宿2)
深谷宿にはみかん畑がないのに、どうして
童謡「みかんの花咲く丘」の誕生地があるのか不思議に思った。
作詞者 加藤省吾歌碑によれば、戦争で疎開してきた作者が、
静岡県の郷里に思いを馳せて創ったとあり、納得した。

(「みかんの花咲く丘」誕生地の標柱)

冨士浅間神社には、深谷城の外堀が残されている。
神社を出て右を見ると、深谷城址の石垣が見える。
「深谷城址公園」であり、隣が深谷市役所である。

(冨士浅間神社)

(深谷城外堀跡)

(深谷城址の石垣が美しい)

深谷城は、上杉房憲が古河公方との戦いで
康正2年(1456)築城し、秀吉の関東攻略により、
天正18年(1590)落城した。
江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、
寛永11年(1634)廃城になった。
(深谷上杉顕彰会による)
城址公園を抜けて、西側の道路をJR熊谷駅のほうに歩くと、
国道17号線にでるが、交差点の手前に
「笛を吹く武者」の像があり、煉瓦の町らしく、
レンガのモニュメントが美しい。

深谷と云えば深谷ネギを思い浮かべる人が多い。
かく言うボクもその一人である。
以前は国道17号を車で走ると、沿道に深谷ネギを沢山並べて販売していた。
時折、購入していたが、四人家族ですき焼きにして、
ネギを沢山入れて、子供たちに嫌われた記憶があるほど、
安くて量が多かった。
しかし、深谷は渋沢栄一を生み、氏が日本初のレンガ工場を設立。
日本を代表するレンガ造りの町であった。

(笛を吹く武者とレンガのモニュメント)

17号を右折して、最初の道を左折しさらに左折すると、
「三高院」(地図などの案内には三光院とある)
という小さなお寺があるが、
ここは浄土宗の名刹で「大翁山浄安寺」という。
徳川家康の甥で25歳の若さで亡くなった深谷城主
松平康直の墓があることで知られる。

(三高院の門前)

(家康甥の康直の墓)

(墓の脇にある説明碑)

康直の墓は本堂の殆ど真裏に設置されているが、
期待するほど立派でないので見落としそうである。

「三高院」を出て、JR深谷駅に向かう。





「見返り松」と「祖英塚」(旧中山道を歩く 52)

2005年08月01日 08時53分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(見返り松の碑)



日本橋をスタートして11日目(‘04.11.06.)

(深谷宿)
熊野神社を過ぎて、中山道を歩くと道は幹の太い
ずんぐりむっくりのイチョウ並木が続く。

銀杏並木やところどころにある松並木を見上げて、
昔を思い浮かべながら歩くと、国道17号線と交差する。

交差点手前角に一本の松ノ木と石碑があり、石碑には
「見返りの松」とある。往時はここで旅人が深谷宿の女郎と
別れたところと言われ、この松のある辺りで見返り見返り、
別れを惜しんだとされる。

(銀杏並木)

(松並木)

(右側の松が見返りの松で根元に、表題の「見返りの松」の石碑がある。)

(見返り松の碑)


17号線を左折して数百メートル左手に、国済寺がある。
ここは臨済宗南禅寺派の寺院で、康応2年(1390)に
深谷城主上杉憲英が創建し、当時は8万坪の広さを誇った。
今でも境内は鬱蒼とした木に囲まれ、その中に本堂はある。
ボクが訪ねた時は、残念ながら本堂は改装中で全貌を見ることは出来なかった。
なお、黒門は市の文化財になっている。

(上杉憲英が創建の国済寺)

(深谷市指定文化財の黒門)

見返りの松まで戻り、信号を左折、中山道を行くと、
銀杏並木が途切れる頃、右側に常夜灯がある。
高さ4メートルの常夜灯は深谷宿 東入り口の目印。
京都方向から見れば深谷宿の終わりの印となる。
(白い棒が目立つが、その後ろにある常夜灯)

(常夜灯)

さらに進むと「大政(だいまさ)」と言う古い米屋さんの
前を通る。並びには大きな蔵があり、往時には
かなり手広く米屋を営んでいたことを物語っている。

(古くからのお米屋さんの「だいまさ」隣に続く土蔵群がものをいう)

(だいまさの土蔵)

その先にすぐ唐沢川を渡るが、懸かっている橋を行人橋といい、
石碑に拠れば、元禄2年(1689)に通行が激しくなったので
架けたという。
次の信号を右折すると左側に東源寺があるが、
門前向かって右側に「祖英塚」と書いた石がある。

この碑は、文化二年(1805)にでた「木曽路名所図絵」に
「観音堂 深谷にあり、一本の柳のもとに菊図坊(きくとぼう)の
碑あり、その銘に曰く、我れ、仏法に入りて風雅をさとり、風雅を悟りて仏法を悟る。

・死ぬことを 知って死ぬ日や としのくれ  菊図坊」

と記されている。

菊図坊は加賀の国出身の俳人である。
江戸時代の中ごろ、深谷宿中町の脇本陣杉田家に四五年滞在し、
近隣の俳人を指導したとある。
(深谷上杉顕彰会による)

(行人橋)

(東源寺。門の右側に祖英塚はある)

(菊図坊の祖英塚)

この東源寺を出て、塀に沿って右折ししばらく行くと、
童謡「みかんの花咲く丘」誕生地は右、
の案内標があるので、右に行く、線路のガードをくぐっていくと、
「冨士浅間神社」に出る。




一里塚のケヤキ(旧中山道を歩く 51)

2005年07月27日 08時50分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65


(一里塚のケヤキ)

(熊谷宿3)

八木橋デパートを右に見て左折すると、すぐY字路になるので
右側の道をとる。旧中山道である。途中旧街道らしく古びた
神社を右に見て、17号に合流する。


(古びた神社 八坂神社 謂れがありそうだが素通りする)

しばらく17号と平行に歩く。石原一丁目交差点に新しく
歩道橋が出来ている。歩道橋を渡り終えて前を見ると、
公園らしきものが見えるので進む。
公園に入ったところに、
「秩父道しるべ」
「秩父観音巡礼道」
「寶登山道」
など三点が建っている。
室町時代に始まった秩父観音信仰は、
江戸時代に入ると盛んになり。順路としてこの地
石原村で中山道から別れるので「道しるべ」が出来た。

以前は信号の左下にあったが、歩道橋新設により、
この公園内に移設された。

(三つの道しるべ)


(ちちぶ道)


(観音巡礼道と宝登山道)

建設世話人の中に血洗島 渋沢宗助なる名前があるが、
明治になって西欧の株式会社の仕組みを取り入れた
渋沢栄一の縁者と思われる。

中山道を17号に沿って進むと、道は二手に分かれる。
左の道をとると、すぐ右側に高さ12メートル、樹齢
300年に及ぶと言うケヤキの木がある。

ここは一里塚跡で慶長9年(1604)五街道が設置された時、
日本橋から一里(4キロ)ごとに設けたもの。
宝暦6年6年(1756)の道中絵図には、榎木二本ずつとあるが、
現存する大木は不思議なことにケヤキの木である。
考えるにケヤキと榎木は葉の形も似ており、
植えたときに職人が間違えて植えたのではなかろうか・・・
(表題の写真がその大木)

すぐ左側に「忍領石碑」が建っている。安永9年(1780)
忍城主が他藩との境界争いを避けるために、領地の境界を示そうと
建てた石碑「ここより南 忍領」の文字が見える。


(忍領の石碑)

しばらく進むとまた17号と交差する。土手に上るような感じで
17号線を渡ると、中山道はすぐまた右に分かれる。
中山道をどんどん進むと、左に深谷幡羅郵便局、その右側に
石作りの鳥居があり熊野神社に出る。奥まったところにある
この神社の参道はよく整備されており、美しい。

もう深谷である。


(熊野神社の二の鳥居)

(熊野神社の三の鳥居と本殿)










星溪園(旧中山道を歩く 50)

2005年07月22日 08時49分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65


(星渓園の庭の池。落ち着いた佇まいを感じる。)

(熊谷2)
中山道に戻り進むと、本石二丁目交差点に出る。
ここを左折し進むと左手に「星溪園」がある。
数奇屋風の門があり無料であるから入ってみよう。
池を中心にした庭園になっており、右手に茶室、
左手が母屋になっている。何処からも池を挟む庭が見え、
文京区の「六義園」を小ぶりにしたような庭園である。

(星渓園の数奇屋門)

(池に中の島の上にある東屋)

(表題の池、もう一つの顔)

説明によれば、
星溪園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業を成した
竹井澹如(たんじょ)翁によって造られた。
元和9年(1633)荒川の洪水により園の西方にあった
土手(北条堤)が切れて、池が出来た。池からは清らかな
水が湧き出て「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が星川の
源流となる。
澹如翁がここに別邸を建て、玉の池の回りに木竹を植え、
名石を集めて庭園とした。
明治17年時の皇后がお立ち寄りになり、大正10年には
秩父宮がお泊りになるなど、知名人の来遊が多く見られました。
昭和29年熊谷市が譲り受けた。(熊谷市教育委員会)

なお、竹井澹如翁は本陣家の跡取りである。
再び、本石2丁目交差点に戻る。17号を渡り右に
八木橋デパートの入口を見て左折する。
デパートの入り口横に「旧中仙道」の石碑が見える。
後で地元の人に聞いて知ったが、
旧中山道はこの八木橋デパートの中を通り抜け、
ここの石碑の後ろに出てくるそうだ。


(デパート脇の中山道の石碑)



熊谷次郎直実(旧中山道を歩く 49)

2005年07月19日 08時46分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(熊谷次郎直実の雄姿)



日本橋をスタートして10日目(10月29日)

(熊谷宿)
熊谷はその名が示すように、鎌倉武士として歴史に名を残す
武将 熊谷次郎直実の出身地であり、熊谷市では
武将の熊谷次郎直実が一番の著名人であることは言うまでもない。

JR熊谷駅前には、熊谷次郎直実が馬にまたがる
勇壮な銅像が建っている。
そして熊谷宿には熊谷次郎直実に関係する
史跡がいたるところで見られる。

「熊谷」は土地の名前になると読み方が(くまがや)で、
苗字になると(くまがい)と言う。こんなことは埼玉県では他にもある。
埼玉県入間郡(いるまぐん)で埼玉県入間市(いりまし)となり、
ボクの友人の苗字は(いりま)と呼ぶ。

中山道へ出て、すぐ右側に高城神社の石の鳥居が見えるので
右折する。神社正面あるもう一つの鳥居をくぐると、
すぐ右側に青銅製の見上げるばかりの常夜灯がある。

(高城神社の鳥居)

熊谷市指定有形民俗文化財で説明によれば、
(この燈籠は高さ275センチで青銅製の大きなもので、
天保12年(1841)に建てられた。台座には、
県内はもとより、江戸、川崎、桐生、高崎、京都など、
広範囲に及ぶ150名の紺屋(藍染業者)の名前が
奉納者として刻まれている。
このうち熊谷の奉納者は40名に及ぶ。
この常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を
受けた事実を物語る資料として、また熊谷の地の
藍染業の盛況を知る記念碑とも言える。)
(熊谷市教育委員会)

(青銅製の常夜灯)

また神社入り口に熊野神社が合祀されており、
熊谷の地名の由緒が記されている。

(永治年間この付近一帯に猛熊が往来し、
庶民生活脅かした。熊谷次郎直実の父
直貞がこの猛熊を退治して熊野権現堂を築いたと
伝えられる。明治維新後は熊野神社と称し、
その御祭神 伊邪那岐命を祭り明治40年
当高城神社境内に遷し祭られた。
この熊野神社と千形神社そして円照寺の関係は深く、
直貞によって築かれ、熊谷の地名を生んだとも伝えられる。)
とある。

熊谷の地名の由来である。

(左手にある熊谷神社)

中山道を進むと、「市駐車場入口」交差点左側
歩道上に「札の辻」の石碑がある。
埼玉県の指定史跡でもと「高札場」のあったところだ。

(熊谷宿の高札場は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり、
木柵で囲まれ屋根が描かれており、この説明板付近に
あったと思われる。
高さ 約 3,3メートル
長さ 約 5、0メートル
横  約 2、0メートル
とある。
高札は本陣であった竹井家に14枚が残っている。)
(熊谷市教育委員会)

その先バス停脇に「本陣跡」の石碑がたつ。
竹井本陣跡の碑である。本陣は明治17年(1884)の
火災と昭和20年の戦災で焼失した。

(札の辻跡の石碑)

(本陣跡の石碑)

右前方に八木橋デパートがあり、その奥にお寺が見える。
それが熊谷寺(ゆうこくじ)である。
出家した熊谷次郎直実が住んだところで、直実の墓と
伝えられる宝篋印塔があるとされるが、あいにく
境内は閉じられており境内に入場できるのは、
日曜日だけに限られているので、入場希望のかたは
曜日を選んで訪問されることをお勧めする。

(山門のうしろに見える本堂、山のような屋根から本堂の大きさが伺える)






権八ものいい地蔵(旧中山道を歩く 48)

2005年07月13日 08時28分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65


(鴻巣宿6)
「権八延命地蔵堂」の裏手を荒川土手へと上がる。
これが熊谷堤で約2km歩く。
昔は1000本に及ぶ桜並木があったというが、
今は一本もない。

(1000本もあったという桜の昔を偲ばせる熊谷堤の名残り)

のどかな河川敷を歩く。やがて荒川「決壊の碑」と
桜の木があり、すこし進むと土手の右下にマンションが
三棟並んでいる。
二棟目と土手の間に、一里塚跡の小さな神社が見えてくる。
熊谷教育委員会の案内があり、一里塚のいわれが説明書きしてある。
その先に天保12年2月の記銘がある、「馬頭観音」の石碑がある。

(「決壊の碑」と桜)

(一里塚の神社)

(土手にポツンとある馬頭観音の碑、天保12年2月とある)

二棟目と三棟目の間の向こう側に久下第一公園が見える。
荒川土手に上がりすこし進むと、四棟目のマンションがある。
土手の左側には、「海まで72km」の案内標識が立っている。

その先を右に土手の坂を降りていくと、「輪型の碑」の石碑がある。

説明によれば、

この坂は、昔、荷物を積んだ大八車の行き来で、
輪型の跡が出来たほど往来が激しかった、という。

(すこしくどくなったが、右に折れる道が分からず、
土手を真っすぐ歩き、かなり歩いた後、右折する
場所がないことに気付き、同じ道を戻った経験を
読者の方に理解していただくため、細かく記入した。)

坂を下って左に公民館を見て進むと右に行くT字路があるが、
ここを直進すると久下神社(村の鎮守)がある。
そのまま左側の荒川土手と平行して、かなりの距離を進むと、
また荒川土手に突き当たる。

その手前に、もう一つの
「権八延命地蔵堂」がある。

(権八ものいい地蔵)

遊女小紫に逢うための金欲しさに、辻斬りしたのを
地蔵に見られ、
「このことは誰にも言うな」と地蔵に言ったところ、
「わしは言わぬが、お前も言うな」と答えたので、
この地蔵を「権八ものいい地蔵」と言う。
と、こちらにはそのように案内板が出ている。

その「権八延命地蔵」の手前右側の民家の門前に、
小振りの石灯籠が置かれており、
正面に

「ここは久下上宿、右 吹上宿、左 熊谷宿」

右側に

「?(丸一の屋号)治承4年(1180)久下直光公より
大鍛冶屋小沢 先祖刀工へ御免刻印也」

と書かれている。

(久下上宿と書かれた石灯篭)

(先祖刀工へ御免刻印)

門前の表札には「小澤」とあり、1180年代の先祖が
屋号を許されたことを誇っていた。
なお、その横に?の屋号の入った瓦二枚が鉄の鎖につながれて
置いてあった。

(?(丸一の屋根瓦)

元に戻って、「権八延命地蔵」の裏手の荒川土手に上ると、
ここには昔、木橋が掛かっており「久下橋」といった。
2004年まであった木造の久下橋の跡の石碑がある。
以前はここに木橋があって、風情をとどめていたが、
老朽化して新しいコンクリート製の橋が下流に出来たので
取り壊したらしい。

(木造の久下橋「冠水橋」の碑)

すぐ土手を下って「みかりや跡」の案内板が民家の塀の中に
立てられている。昔は旅人が休憩する茶店であったと言う。

英泉が描いた「木曽道中 熊谷宿 八丁堤の景」に出てくる
茶屋はここという。
茶屋を「みかりや」と云ったのは、
(中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」
の言葉があるとおり、「柚餅子(ゆべし)」が名物であった。
忍藩(今の行田)の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので
「御狩屋(みかりや)」と呼ばれたという。)
(熊谷市教育委員会)

(みかりやの案内)

(英泉の浮世絵「熊谷宿」左側の茶店が「みかりや」)

進むと左に「東竹院」があり、ここは久下村領主の
久下直光が開いた寺で一族の墓がある という。

しばらく歩くと「曙万平自治会館」が見える。
八丁の一里塚の案内もある。

(東竹院)

(八丁の一里塚跡)

やがて秩父鉄道、JR高崎線、新幹線の高架をくぐり、
国道17号に合流する。「銀座一丁目」の信号を左折し
熊谷駅に向かう。熊谷宿である。

(熊谷駅に向かう途中の道)

史跡を見て歩いたせいもあるが、なんと27km歩いた。
熊谷駅についた頃には暗くなっていた。

本当のところは、地図を持っていたのに、道を間違えて
コースを踏み外して、二回歩いた。
一回目は道に迷い30キロ以上歩いたと思う。
二回目は、道々、小学生や中学生、土地のかたがたに、
道を聞きながら歩いたが、それでも27キロあったと思う。

もともと、鴻巣から熊谷までは、寄り道しなくても16キロ強ある。




「お若けえの お待ちなせいやし」(旧中山道を歩く 47)

2005年07月08日 08時23分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65


(鴻巣 5)
中山道を進み、武蔵水路のかかる仲宿橋を渡ると、
まもなく箕田追分に出る。この追分にある案内板に、
箕田源氏の由来について国立博物館蔵
「中山道分間延絵図」からの抜粋があり、
判り易く説明している。

(武蔵放水路の仲宿橋)

(追分のバス停)

(追分の跡碑)

(追分の跡碑2)

(箕田源氏ゆかりの地の案内)

追分の案内には、
(朝、日本橋を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、
旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。
鴻巣宿からほぼ一里ほど行くと、箕田村の追分辺りに着き、一休みすることもあります。
追分からは、北に向かって三ツ木・川面を経て忍(おし、今の行田市)や
館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、
ここを箕田村追分と云うようになりました。)
(東京国立博物館蔵「中山道分間絵図」より)

道路は二つに分かれるので
左の道を行く。まもなく消防団の小屋の前道路の左側に、
こじんまりと一里塚の標識に出会う。

(一里塚の標柱)

そのまま進むと、吹上町の「前砂」の信号で、
またY字路に出るので右側を行く。
すぐの歩道上に中山道道案内の看板が建っているので参考にする。
高崎線を右に見ながらしばらく歩き、踏み切りの向こう側に
NTTの電波塔が見えたら、高崎線の「第四中山道踏み切り」を
渡りすぐ左折する。

(前砂の信号)

(中山道道案内の看板)

「妙見地蔵堂」を左に見て進むと吹上の市街地である。
JR吹上駅を左に見ながら、本町交差点まで進み左折すると
右側に「いぼ地蔵尊入り口」の石碑があるので立ち寄る。

(妙見地蔵)

(いぼ地蔵入り口)

(いぼ地蔵)

いぼ地蔵尊の裏手が墓地になっており、入ると「東曜寺」である。
古い宝篋印塔のある墓地を左折して中山道に出ると、
道は右に急カーブしており、カーブが終わったところに吹上神社がある。
吹上地区の鎮守。山王、氷川、稲荷の三社が合祀されている。
100メートルもいくと、高崎線の歩道橋があり、
その下に「中山道間の宿」の石碑がある。
(東曜寺)

(吹上神社)

(間の宿)

中山道はそのまま線路に沿って歩くと、線路の左向こうに
斜めに進む道路が見え、これが中山道であるが、
線路があって進めないので、先の踏切まで行って線路を渡る。

(踏み切りの案内看板)

しばらく歩くと、荒川土手に突き当たり、土手の手前に
「権八延命地蔵堂」がある。鴻巣宿に入る手前の
「勝願寺」境内にも「権八地蔵」があった。

(権八延命地蔵)

子供の頃、芝居で
「お若けえの お待ちなせいやし」
「待てとおとどめなされしは、あっしのことでござんすか」
のセリフが恰好よくて、ふざけて遊んだ記憶がある。
「待て」と止めたのが侠気の塊のような
幡随院の長兵衛であったからだ。

このセリフが白井権八と遊女の小紫の芝居であったのは、
成人してから知ったが
ずいぶん昔を思い出させてくれる。




「伝源経基館跡」と箕田源氏(旧中山道を歩く 46)

2005年07月05日 08時22分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(クレムリン 2005.May.18.撮影)



(鴻巣宿4)
鴻巣はまた中世武士団の発生に縁の深い場所でもあるようです。

鴻神社を出ると、道路を挟んで向かい側に古い感じが良く出ている旧家がある。
この辺りには、土蔵つくりの民家・商家が
数件残されており今も営業を続けている。

(古い家並み)

(昔ながらの看板)

中山道を進む。次の信号、小室クリーニングの看板を左折、
高崎線を越えていくと、県立鴻巣高校の正面に出る。
校門前を左折し、学校のグラウンドの金網に沿って歩く。
校舎から見ればグラウンドの南端にヒノキ林がある。

(伝源経基館跡)

グラウンドの金網の端に「伝源経基館跡」の標識がある。
埼玉県指定史跡になっているところである。
ヒノキ林に入って見ると、中央は平らになっており、
周りは土塁を積み上げたように高く、土塁には外堀があった形跡がある。
いかにも往時には館があったと思われる場所であった。
ただ、館にしては、ずいぶん敷地面積が小さく感じられた。

(外堀と思われるくぼ地、左側の土塁の内側に館があった)

往時は水があったと思われる外堀様の場所に、
今は沢山の落ち葉が重なり、足を踏み入れるとふかふかして、
足が沈みこんだ。
ボクのような物好き以外は訪ねる人も無く、街の人たちにも
忘れられた場所のようである。

経基は清和天皇第六皇子の長子で、のちに武蔵守となり、
清和源氏の祖とされた。源頼朝に始まる鎌倉幕府、
次の足利氏の室町幕府、さらに徳川氏による江戸幕府は、
いずれも清和源氏の流れを汲むものとされている。

中山道に戻り進むと、道路はY字路となり、中山道は左へ行く。
高崎線の踏切を渡り、かなり歩くと右手に箕田(みだ)観音堂があり、
さらに進むと箕田氷川八幡神社がある。

(箕田観音堂の全景)

(箕田観音堂)

(箕田氷川八幡神社)

箕田観音堂は源頼光の四天王の一人渡辺綱の守り本尊と
伝えられる。渡辺綱(わたなべのつな)は、
羅生門で妖怪女の腕を切り落とした剛の者として有名である。

源経基の孫が源頼光である。

頼光の四天王と言っても、知らない人も多いだろうが、

♪足柄山の山奥で、熊にまたがりお馬の稽古
ハイシドウドウ ハイドウドウ ・・・♪

と言う童謡に出てくる、足柄山の金太郎(坂田金時)も
同じ四天王の一人である。

さて、箕田氷川八幡神社には、箕田源氏の由来を書いた
「箕田碑」が建っている。
「箕田碑」によれば、箕田源氏は清和源氏でなく、
嵯峨天皇の皇子源融から出て、孫に当たる嵯峨源氏の
仕(つかう)がここ箕田に住み着いて箕田源氏を名乗ったという。
渡辺綱は源仕(みなもとのつかう)の孫に当たり、
三代に渡ってこの地を拠点に活動した、という。
(鴻巣市教育委員会)
この裏手にある宝持寺は渡辺綱が開いた寺といわれ、
彼が所持した刀と位牌が伝えられる。

(宝持寺の山門)

(宝持寺の本堂)