(倉賀野神社入り口の石碑)
(倉賀野宿4)
中山道を進むと、左側に総鎮守倉賀野神社入口の石碑があるので
左折すると、右側に立派な神社がある。
倉賀野神社である。
(倉賀野神社)
神社は正面に社殿、左側に社務所があるが、今はひっそりとして人の気配は無い。
社務所にはおみくじやお守りなどがガラス越しに陳列してあり、値段を表示してある。
祭礼のときやお正月の初詣のときは、さぞ賑わうのであろうが、
普段は訪ねる人もまばらなのであろう。脇に御用の方はベルを押してくださいと、
紙に墨書してあり呼び鈴のボタンがあった。
神社は、「医薬の神」「縁結びの神」「夫婦和合の神」の御神徳あらたかであると
入り口に神社の由来があった。
欲張りであるが、健康長寿と夫婦和合を狙って、お守りを求めようとベルを押した。
しばらくすると、結婚間もないようなご婦人が現れ、用を聞く。
お守りを一つ求めて、
「ずいぶん立派な神社ですね」というと、いつも聞かれるが、
「どちらからお出でですか?」と質問。
「東京です」と答えると、頼みもしないのに、
「少しお待ちください。今ご案内します」と外に出てきた。
説明をしていただいたが、その場では理解できたが、今はほとんど覚えていない。
記憶に残っているのは、神社が古い建物であること、
周りに残された木彫りの彫刻が立派なこと、
稲荷神社にある玉垣には、当時の遊女が寄進したものがあることなどだ。
神社の由緒記によれば、建長五年(1253)倉賀野氏の始祖
倉賀野三郎高俊が社殿を造営。以後倉賀野の氏神として社殿の
修復がなされてきた。本殿の建築は嘉永六年(1853)四月、
寺社奉行に修復願いを提出、元治二年(1865)三月上棟となったもので、
高崎市指定重要文化財となっている。
(高崎市の重要文化財の本殿)
(社殿を支える飾り床というか、珍しい造り)
倉賀野神社は倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守で旧社名「飯玉大明神」。
明治十年、大国魂大神。明治四十三年 倉賀野神社と改称された。
境内に「冠稲荷」、「北向道祖神」、「飯塚久敏と良寛」の碑など。
算額や飯盛り女の玉垣、もある。
本殿は総ケヤキ造りで木彫が施されており、
日光東照宮の眠り猫に劣らぬその見事さに目を奪われる。
彫物師の一人北村喜代松は
信州鬼無里村に彫刻屋台の名品を残しているという。
(ふくろう)
(羽を広げる鷹)
倉賀野神社の旧社名「飯玉宮」について、飯玉縁起によると、
(光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭群馬大夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれていた。
ところが兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めた。
三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、
兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、
帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、
十六歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。
都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。
頭を振り尾をたたく大蛇に向かい、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。
烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。
これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、
勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。 )
今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴を奏でる彫刻が
見られるのは興味深い。また「夫婦和合」「長寿」をあらわす、
「夫婦亀と鶴」の彫刻もあり、
稲荷神社の玉垣に飯盛り女の名前も見える。
(宗光が琴を弾き大蛇を退散させる彫刻。左側に大蛇が見える)
(夫婦鶴)
(夫婦亀)
(倉賀野宿4)
中山道を進むと、左側に総鎮守倉賀野神社入口の石碑があるので
左折すると、右側に立派な神社がある。
倉賀野神社である。
(倉賀野神社)
神社は正面に社殿、左側に社務所があるが、今はひっそりとして人の気配は無い。
社務所にはおみくじやお守りなどがガラス越しに陳列してあり、値段を表示してある。
祭礼のときやお正月の初詣のときは、さぞ賑わうのであろうが、
普段は訪ねる人もまばらなのであろう。脇に御用の方はベルを押してくださいと、
紙に墨書してあり呼び鈴のボタンがあった。
神社は、「医薬の神」「縁結びの神」「夫婦和合の神」の御神徳あらたかであると
入り口に神社の由来があった。
欲張りであるが、健康長寿と夫婦和合を狙って、お守りを求めようとベルを押した。
しばらくすると、結婚間もないようなご婦人が現れ、用を聞く。
お守りを一つ求めて、
「ずいぶん立派な神社ですね」というと、いつも聞かれるが、
「どちらからお出でですか?」と質問。
「東京です」と答えると、頼みもしないのに、
「少しお待ちください。今ご案内します」と外に出てきた。
説明をしていただいたが、その場では理解できたが、今はほとんど覚えていない。
記憶に残っているのは、神社が古い建物であること、
周りに残された木彫りの彫刻が立派なこと、
稲荷神社にある玉垣には、当時の遊女が寄進したものがあることなどだ。
神社の由緒記によれば、建長五年(1253)倉賀野氏の始祖
倉賀野三郎高俊が社殿を造営。以後倉賀野の氏神として社殿の
修復がなされてきた。本殿の建築は嘉永六年(1853)四月、
寺社奉行に修復願いを提出、元治二年(1865)三月上棟となったもので、
高崎市指定重要文化財となっている。
(高崎市の重要文化財の本殿)
(社殿を支える飾り床というか、珍しい造り)
倉賀野神社は倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守で旧社名「飯玉大明神」。
明治十年、大国魂大神。明治四十三年 倉賀野神社と改称された。
境内に「冠稲荷」、「北向道祖神」、「飯塚久敏と良寛」の碑など。
算額や飯盛り女の玉垣、もある。
本殿は総ケヤキ造りで木彫が施されており、
日光東照宮の眠り猫に劣らぬその見事さに目を奪われる。
彫物師の一人北村喜代松は
信州鬼無里村に彫刻屋台の名品を残しているという。
(ふくろう)
(羽を広げる鷹)
倉賀野神社の旧社名「飯玉宮」について、飯玉縁起によると、
(光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭群馬大夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれていた。
ところが兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めた。
三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、
兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、
帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、
十六歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。
都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。
頭を振り尾をたたく大蛇に向かい、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。
烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。
これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、
勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。 )
今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴を奏でる彫刻が
見られるのは興味深い。また「夫婦和合」「長寿」をあらわす、
「夫婦亀と鶴」の彫刻もあり、
稲荷神社の玉垣に飯盛り女の名前も見える。
(宗光が琴を弾き大蛇を退散させる彫刻。左側に大蛇が見える)
(夫婦鶴)
(夫婦亀)