中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

板鼻本陣と皇女和宮(旧中山道を歩く 87)

2007年03月28日 08時45分09秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

(板鼻宿2)
板鼻公民館裏手に、木嶋家本陣の一部がのこされているが、
皇女和宮降嫁のおり、この本陣を宿舎にされた。公民館の資料によれば、
当時宿泊された部屋だけを大きな本陣家から切り取って現在に残したものであるという。
中を見学する。

(皇女和宮資料館の看板) (皇女和宮資料館)

皇女が宿泊するには、思ったより小さな部屋であった。
その資料館備え付けの資料によれば、
「皇女和宮は孝明天皇(1846~1866)の妹に生まれ、
五歳にして有栖川宮と許嫁となりましたが、徳川家に降嫁する事になり、
その時宿泊した部屋です。
後に有栖川宮は和宮の嫁ぎ先である徳川家の幕府を倒すために、
東征大総督となって江戸攻めを行いました。
政略結婚といいながら、もとの許嫁から攻略を受けなければならなかった皇女和宮を、
悲劇の皇女として語り継がれる所以であります。

この時皇女は17歳。
夫 徳川家茂は結婚五年で死去し、幕府瓦解の折は明治新政府首脳に対して、
徳川家のためにつくされ、32歳の若さでこの世を去られた。
御降嫁に際してのお歌

惜しまじし 国と民とのためならば
             身は武蔵野の露と消ゆとも」

と残された。(安中教育委員会)

この歌だけをみると、なにやら吉田松陰の辞世を思い出す。
松蔭の辞世は
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
と詠んだ。

故郷の京都を離れて、当時の東京はよほど辺鄙なところであったと思われる。

この時の本陣は道路から見て、間口16間、奥行き25間と言うから、
ざっと400坪はあったようだ。本陣の配置図をみると、部屋数30室、
湯殿(お風呂)が4箇所ある。

(皇女和宮資料館の内部)

当時、和宮の京都からのお付の人員は4千人、京都からのお見送り1万人、
江戸からのお迎えが1,5万人であったと記録されている。
都合三万人が宿泊したことになるが、先に述べたように旅籠54軒、家数312軒しかなく、
本陣に50人、旅籠に50人づつ泊まっても2700人、民家に10人づつ泊まって3120人、
都合5870人は屋根の下で寝ることが出来る。

上役はともかく、下っ端の役人の寝泊りは近隣の寺院や住民宅を借りたにせよ、
夜具など不足したであろう。
まして人足等と呼ばれる人たちは、民家の軒下や納屋ならまだ良いほうで、
野宿は当たり前であったに違いない。(*)

とき、文久元年(1861)11月10日。
冬間近かの季節、加えて軽井沢、妙義山が近い板鼻宿では気温も低く
三万人の宿泊は難儀を極めたに違いない。
食事も近隣の四宿場町が総動員して用意したとあるが、食べれば出さねばならず、
三万人のお手洗いはどのようにしたであろうか?
インドで見たように青空トイレであっただろうか?
そうすると周囲の畑という畑は、すべてトイレになったであろうから、
後始末が大変だったろうと想像に難くない。

ずいぶん気になる。

(しかも安中藩では、各郡各村から助っ人の人馬を提供するよう命じている。
吾妻郡19カ村に人足807人、馬74匹、
勢多郡13カ村に人足1396人、
利根郡に人足1536人、馬119匹、
甘楽郡に人足346人、馬13匹、
甘楽・多胡郡に人足1451人、馬107匹。
都合人足5536人、馬313匹。)

総合計三万五千人になる。
小さな宿場町は、お祭り騒ぎと見間違うほどの人出で、ごった返したに違いない。

(*)旧中山道を歩き終えたのちに調べて判ったことであるが、
田畑の畔に、蓆の四隅を柱で支え、その下に何人寝たのか不明であるが、
その下に野宿をしていたことが解った。

板鼻宿と双体道祖神(旧中山道を歩く 86)-

2007年03月25日 20時51分41秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(ダルマ屋さんの軒先にあるダルマ)


(板鼻宿)
小林山達磨寺を出て、碓氷川を渡り国道18号線に出て左折する。
旧中山道は今は18号線に合流している。
道路わきにはダルマ市に出品するダルマ屋さんが散見される。
道路を西に進むと「板鼻宿跡」の信号が見えるので、
国道18号を横断すると、
その歩道上に用水路の上に橋供養の石碑が見える。


(板鼻宿跡の案内標識)

(橋供養塔)

説明によれば、
大田蜀山人が中山道を旅したとき、
「板鼻川の橋を渡れば、板鼻宿はずいぶん近い。
その石橋は麦畑の中にあり、
本陣家の木嶋七郎左衛門が享和二年(1802)石橋の改修時に建てた供養塔というが、
石仏を作るより功徳は勝っている」と褒めたという。

(板鼻下町の信号、ここから見ると道路は二股にしか見えない)

国道18号を西に進むと、「板鼻下町」という大きな交差点に出る。
説明書によれば、旧中山道は左側の道をとるとなっているが、
どう見ても左側の道は、自動車道路である。
やむを得ず右側の道を行くと、少し先に左へ入る道が見えてきた。
旧中山道らしきせまい道である。
つまり「板鼻下町」の信号から見れば真ん中の道である。
(どう見てもこの信号からはY字路にしか見えないが、
真ん中にもう一つ道がある。そこが旧中山道である。)


(旧中山道は右側の道をすこし歩いた先の左へ入る道)


(旧中山道の案内標柱)


(板鼻川橋)

やっと見つけた旧中山道は約6メートル幅の片側一車線の道路で、その道路に入るとすぐ、
「中山道 左板鼻宿 0,5km 右高崎宿 5,6km」の標柱が見え、
ホッと安心する。
道路標識に従って歩き、板鼻川橋を渡るが、
これが前述の大田蜀山人がほめた橋なのだろうかと首をかしげながら歩く。
道路の右側に可愛らしい双体道祖神がある。

男女がお酒を酌み交わす瓢箪と盃を持った像
(祝言像というらしい)が描かれ、享保21年(1736)と刻まれている。


(道祖神)


(双体道祖神)

すこし歩くと信越線の踏切を渡るが、渡った先に「板鼻二丁目」の信号があり、
交差点手前の右側に道しるべとなる石柱が立っている。

石柱には、正面に「やはたみち」とあり、


(道しるべ)

右面には「はるな、くさ津、いかほ、河原湯、 かねこ、沢たり、 しぶ川、みち」とある。
この信号を右折すると、国道が上にと立体交差するが、

国道の手前下に道祖神など石像群がある。

一番左側にある南無阿弥陀仏の石には安永五年(1776)

「右 やまはみち、左 はるなみち」とある。
真ん中には、先ほど見た酒を酌み交わす祝言像がある。
信州には良く見られる祝言像であるらしい。


(国道との立体交差、手前右側の木立の下に石像群がある)


(その道祖神石像群)


(酒を酌み交わす、ほほえましい祝言像)

このあと碓氷峠を越えると信州に入るので、今後注意して歩きたい。
見つけ次第また紹介しよう。

板鼻宿は碓氷川の渡しがあったところで、

川が増水すると川留めになったこともあり、
旅人が沢山逗留して賑わった。

天保14年(1843)で人口1422人、家数312軒、本陣1、脇本陣2、旅篭54軒あったとされる。
中山道を進むと右側に板鼻公民館があるが、
ここが木嶋本陣跡で、公民館の裏手に本陣の一部が残されている。


(板鼻公民館の案内)



小林山だるま寺(旧中山道を歩く 85)

2007年03月19日 08時11分41秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10



(小林山達磨寺の山門)

(高崎宿6)
藤塚の一里塚がある場所から碓氷川を挟んで対岸に、
ダルマ市で知られる黄檗宗 小林山達磨寺がある。
道は碓氷川の土手沿いに歩くと、鼻高橋に出るのでこれを渡る。橋の歩道は右側にある。
渡り終えたところに信号があるので左折すると右側に目当てのダルマ寺がある。
山門は立派であるがどこか中華風に見える。
ダルマ市の立つときは混雑するであろうが、ボクが訪ねたときは平日であったので閑散としていた。

(小林山入り口の信号)

(鼻高橋の欄干の可愛い達磨)

(達磨寺の山門、足に自信のない人は、右側の白雲関の門を行くとよい)

(200段もある階段)

門を潜り抜けると、見上げるような階段が繋がっており、思わずたじろぐ。
門の外に戻ってみると右脇にくぐり戸があり、足に自信のない方用に、なだらかな坂道が用意されている。
今日は高崎駅から歩いてきたので、足も疲れおり、なだらかな坂道を選ぶ。
その坂道は階段の途中を横切りさらに登るが、階段よりは楽である。
そろそろ頂上と思われるところに、小さな家が一軒在る。

(先心亭の標柱)

(先心亭)

(先心亭2)

「洗心亭」といい、案内によると建築家ブルーノ・タウト氏の住まいである。

「ブルーノ・タウト氏は1880年ドイツのケーニヒスブルグに生まれた
世界的大建築工芸家で、ナチ政権を逃れて昭和8年5月敦賀に上陸し、京都、仙台に遊び、
9年8月より11年10月まで2年3ヶ月間をここ洗心亭に居を構えていました。
日本における彼の著書の大部分はここで執筆されました。」(環境庁・群馬県)

住まいを覗いてみたが、六畳間に床の間があり、その奥に三畳程度の部屋がある程度の小さな間取りであった。

この部屋を見て、何時だったか訪ねた茨城県の常陸太田市にある西山荘を思い出す。
ご承知のように水戸の黄門様は、晩年大日本正史の編纂に尽力されたが、
この大日本正史の製作にあたった場所がこの西山荘であった。
住居はブルーノ・タウトの住まいに似て、六畳間二つ程度の狭い住まいで、
家来二人と下僕(下僕はすぐ隣に家を持って居り、黄門様の住まいより大きかった)の
四人での作業であったようだ。

(達磨寺の本堂)

(本堂の大願成就したダルマたち)

(世の中にはずいぶん沢山願いが叶った人が居るものだ)

(溢れるばかりのダルマたち)

さて、道路は右に折れてさらに登りダルマ寺の本堂に出る。
本堂の外側の廊下には、祈願成就した両目に墨の入ったダルマが山と置かれており、
沢山の人がご利益に預かった様子が良くわかる。
本堂の隣には、ダルマ博物館があり、いろんな種類のダルマが陳列してあった。

(ダルマ博物館のダルマ)

(博物館のダルマ2)

帰りには来るときは敬遠した階段を降りる。二百段もありかなり急勾配で、
急がないご婦人やお年よりは、ゆっくりなだらかな坂道を登るに限る。

いつの間にかボクも年寄りの仲間入りしたことを実感させる急勾配の階段であった。


万日堂と藤塚の一里塚(旧中山道を歩く 84)

2007年03月13日 10時23分43秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10



(君が代橋から見える阿弥陀堂)

(高崎宿6)
左側に烏川に架かる君が代橋が見える。
橋は両側に歩行者用の通路があるが、右側を歩こう。
川を渡り終えたところから土手の向こう側に阿弥陀堂が見える。
万日堂である。

(万日堂)

阿弥陀伝説によれば、
[万日堂に安置されている本尊仏を見返り阿弥陀という。
昔、永観律師が不断念仏を思い立ち、本尊をめぐって行道念仏中に
つい眠くなって立ち止まっていたところ、本尊が「永観遅いぞ」と後ろを振り向いて声を掛けられたという。
みかえり阿弥陀尊はその故事によってつくられた。京都禅林寺にあるものは国の重要文化財になっている。
ここの阿弥陀尊はそれらより時代は下るが、それでも室町時代と推定される。
関東では唯一のみかえり阿弥陀であろう。
この像を明治時代に盗み出して売り払おうとした男があったが、
君が代橋を渡る途中急死してしまい仏像は事なきを得た。
大正時代にもう一度盗まれたが、この男も君が代橋で大雷雨に遭い、
男は感電死したが、仏像は無事であったという。

この阿弥陀堂の前に句碑が立っており、これを涅槃句塚と呼び、
 路柱庵馬酔居士による俳句がある。

 ・おもしろひ ゆめみる かおや 涅槃像

このみかえり阿弥陀は全国で五体しかなく、関東ではこの一体だけしか見当たらない。]
                       (高崎市教育委員会)
「みかえり阿弥陀」について高崎市のHPをご覧ください


(馬酔居士の句碑)

この句碑を見て、
みかえり阿弥陀とはどんな姿をしているのかと好奇心が湧く。
幸い万日堂の一部から中を覗けるようになっているので覗いてみる。
その阿弥陀様が首をすこし左向きにして立っている。
その姿がお釈迦様の涅槃像立たせた姿に似ている。
なるほど句碑で涅槃像と呼んだことに納得がいく。

この万日堂の左側が旧中山道であるが、すぐ突き当たり、君が代橋から来た国道18号線に合流する。
君が代橋をわたり終えたところに
「君が代橋西」の信号があり、向こう側はファミリーレストランになっているが、
そのファミリーレストランを左に見て、旧中山道は右へ道をとる。
すこし進むと県道26号線の、左 安中の案内看板があり
「下豊岡町西」の信号があるので左折する。
すこし歩くと左側に阿弥陀堂らしい建物の裏側が見えてくる。

(君が代橋西の信号)

(直進国道18号、ここを右折)

(「下豊岡町西」の信号を左折)

(千日堂)

万日堂に対して千日堂で、享保四年(1719)の地蔵尊がある。
旅の無事を祈願して先にしばらく進むと、また国道18号線にぶつかるが、
信号の手前右側に道祖神を祀った不動尊(金ヶ崎の不動尊)がある。
その先の「上豊岡町」の信号が国道18号になっており、18号線の向こう側の土手には碓氷川がある。
土手に沿って先を見ると一里塚らしい大きな木が見えてくる。
国道18号をはさんで、向こう側には赤鳥居の浅間社がみえるが、
昔はここに対になった一里塚があった場所である。
この一里塚を藤塚の一里塚といい、群馬県下に唯一残る一里塚で、
お江戸日本橋から28里(112キロ)である。

(道祖神)

(金ヶ崎の不動尊)

(上豊岡町)

(上豊岡町の交差点、右側から来て信号を渡ったところ左側は見えないが碓氷川)

(一里塚)


(浅間社)


地名「高崎」の由来と長松寺(旧中山道を歩く 83)

2007年03月08日 20時14分30秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(恵徳禅寺)


(高崎宿5)
高崎神社のすぐ隣に曹洞宗 恵徳禅寺がある。

由緒によれば、
[この寺は井伊直政の伯母である恵徳院宗貞尼菩提のため、
箕輪日向峰に一宇を創立松隆山恵徳院と号した。
慶長三年(1598)井伊直政公が高崎城入城の折、
この寺を城北榎森に移し、松隆山東向院恵徳寺と改めた当時、
寺領20石五斗の御朱印地であった。
――中略――この寺の禅師は井伊直政公の信任厚く
「和田の名称を松崎に変えたいが」の問いに、
禅師は「松は枯れることがあるが高さには限りがないその意をとって高崎はいかが」と進言したところ、
直政公大いに喜び「高崎」と命名した]という。

高崎の地名の由来が碑文となっている。

(長松寺)

(長松寺の本堂)

さらに中山道を先に進むと、右側に「長松寺」があるので寄ってみよう。
長松寺には高崎市指定重要文化財になる狩野派の天井絵と涅槃画像があるので、見学させてもらおう。
天井絵の「天女」は寛政元年(1789)の作で、岩絵具、古粉、金泥で彩色された天女絵で、
そのふくよかな肢体、しなやかな衣裳、畢生は力強い。狩野探雲作とされる。
また、大間天井絵の「龍」は寛政三年(1791)天井に墨画された龍で力強い筆勢で躍動感がある。
狩野探雲は現富岡市の出身で文化九年(1812)八十八歳没。
狩野派主流の画家で後に七日市藩の御用絵師になり、
絵師としては最高位の法眼を与えられ「上野探雲」とも呼ばれた画家である。

さて、旧中山道は長松寺の門前を通り直進する。
道はやや下り坂になっているが、坂の終わり頃左手に古い煙突が見えてくるがここは醤油屋さんで、
この醤油屋さんの先の「常磐町」信号を右折する。
信号の右角に「旧中山道」の看板があり分かりやい。
先に進むと道路上に「旧中山道」の案内看板があり、安心して進む。
すぐ道路巾が広くなって突き当たる。
突き当たった場所に君が代橋の親柱の記念碑が残っている。
現在の橋に架け替えられる前の橋脚である。

(しょうゆ屋さんの煙突)

(常盤町の信号と旧中山道の案内標柱)

(案内看板で道を間違えていない事が解って安心)

(先代の君が代橋の親柱)











大信寺と高崎神社(旧中山道を歩く 82)

2007年03月02日 08時58分36秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(高崎駅西口から見た高崎市役所)

(高崎宿4)
日本橋を出発してから16日目になるが、暦の上では出発したのが
2004年3月であるから、もう三年も経過している。
この先に軽井沢があり、軽井沢に至るまでに碓氷峠があり、
峠道で迷って遭難したなどということになると、
良い歳のおっさんが準備もなく山に入るからだと非難されるのがいやで、
準備にかなりの時間を費やし、高崎から一歩も進むことがかなわなかった。

しかし、友人などのアドバイスを得て、国土交通省国土地理院の地図も手に入れ、
地図上の何処に自分が居るのかが判るように、GPSナビが付いた携帯電話に交換した。
これなら山の中を迷わずに歩けそうだと、山道を歩きとおす自信が出来たので、
高崎から歩を進めることにした。

今日は2006年10月17日AM10:00. 曇りのち晴れ。
高崎駅西口に出ると、正面にランドマークよろしく、立派な高崎市役所が見える。
市役所を目当てに通りを進むと、「あら町」の信号に出る。
信号を右折すると、これが旧中山道である。まっすぐ行けば
前回(旧中山道をあるく 82)記述した頼政神社の裏手に出る。

(大信寺参道)

高崎市の中心街を歩いて、連雀町の信号を右折して、JR高崎駅のほうへ向かうと
左手の奥まったところに大信寺がある。
幼稚園を併設しているが、この寺の参道入り口に、駿河大納言の墓があることを説明した、
次のように看板が出ている。(民家のつながる民家の間にあって、始めて訪ねる人には分りにくい。)

[駿河大納言の墓  徳川忠長(幼名国松)二代将軍秀忠の
第三子として生まれ、父母に愛され世子に擬せられたが、
春日局の運動が功を奏し、兄家光が三代将軍となった。
忠長は甲・信・駿・遠 55万石に封ぜられ駿府城に入封した。
後 寛永9年高崎城に幽閉され、翌寛永10年(1133)12月6日28歳に自刃した。
戒名は
「峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士」](高崎教育委員会)

(大信寺)

墓地には、忠長のお墓があるというが、門が閉まっており中に入ることが叶わなかった。
高崎教育委員会の説明では、なぜ忠長が自刃したか記入されていないが、
史実によれば、忠長は辻斬りや家臣の手打ち、神社で狩りをするなど素行が悪く、
将軍家光や大御所の父秀忠より注意を受けるも、
行状が改善されず、上述の高崎城に幽閉されることになったという。
これだけのことが高崎教育委員会の説明不足である。
でも、素行、行状が悪く記載するのに、高崎市民の心象を悪くするから、
あえて記載しなかったのかもしれない。
忠長は今のイラクのフセイン元大統領のような立場だったのであろうか?

(本町三丁目の信号)

(旧家の趣の商店1)

(旧家の趣の商店2)

旧中山道に戻って、西へ進むと「本町三丁目」の信号に出る。
旧中山道はこの信号を左折する。信号手前や左折後に古い商店が点在し、旧中山道の面影を忍ばせる。
さらに進むと「本町一丁目」の信号に出る。案内看板によれば右折すれば安中とあるが、
旧中山道は直進する。

(本町一丁目の信号) 「本町一丁目」の信号を渡ったすぐ左側に駐車場があり、その奥に高崎神社がある。
ここは高崎総鎮守で元は熊野神社であった。
また、ここには高崎市指定の文化財として「高崎神社の鰐口」がある。
(高崎神社入り口)

(高崎神社)

「高崎神社の鰐口」
[鰐口とは、寺社の軒先につるし、参拝者が綱を振り打ち鳴らす、金属製の道具。
下辺の大きく口を開けた形からこの名が出た。
(最近の神社には大きな鈴のようなものがぶら下がっており、綱を振ると
「じゃらじゃら」と鳴る、その鈴のようなものを指す)
この高崎神社の鰐口は鋳金した後黒漆を塗り、銘文を刻している。
直径17,5センチ、厚さ1,8センチの円盤状。周縁に48文字の銘文がある。
「更埴高崎旧事記」によるとこの鰐口は旧高崎城内榎廓の二ノ宮大明神社殿にかけられていた。
銘文によると武州秩父郡の住人荒船和泉守善慶が同郡小坂下村菊水寺に
天文三年(1534)奉納したものである。
しかし、菊水寺から二ノ宮大明神社殿に移された経緯は不明である。

鰐口は仏像などと異なり信仰の対象としてあまり珍重されず名品も少ないが
中世の銘文が刻まれていることはきわめて貴重である。] とある。
(高崎市教育委員会)
珍しいものなので、拝見させて欲しいと宮司さんにお願いしたが、
丁重に断られた。大切に保管されているらしい。