(鴻巣宿6)
「権八延命地蔵堂」の裏手を荒川土手へと上がる。
これが熊谷堤で約2km歩く。
昔は1000本に及ぶ桜並木があったというが、
今は一本もない。
(1000本もあったという桜の昔を偲ばせる熊谷堤の名残り)
のどかな河川敷を歩く。やがて荒川「決壊の碑」と
桜の木があり、すこし進むと土手の右下にマンションが
三棟並んでいる。
二棟目と土手の間に、一里塚跡の小さな神社が見えてくる。
熊谷教育委員会の案内があり、一里塚のいわれが説明書きしてある。
その先に天保12年2月の記銘がある、「馬頭観音」の石碑がある。
(「決壊の碑」と桜)
(一里塚の神社)
(土手にポツンとある馬頭観音の碑、天保12年2月とある)
二棟目と三棟目の間の向こう側に久下第一公園が見える。
荒川土手に上がりすこし進むと、四棟目のマンションがある。
土手の左側には、「海まで72km」の案内標識が立っている。
その先を右に土手の坂を降りていくと、「輪型の碑」の石碑がある。
説明によれば、
この坂は、昔、荷物を積んだ大八車の行き来で、
輪型の跡が出来たほど往来が激しかった、という。
(すこしくどくなったが、右に折れる道が分からず、
土手を真っすぐ歩き、かなり歩いた後、右折する
場所がないことに気付き、同じ道を戻った経験を
読者の方に理解していただくため、細かく記入した。)
坂を下って左に公民館を見て進むと右に行くT字路があるが、
ここを直進すると久下神社(村の鎮守)がある。
そのまま左側の荒川土手と平行して、かなりの距離を進むと、
また荒川土手に突き当たる。
その手前に、もう一つの
「権八延命地蔵堂」がある。
(権八ものいい地蔵)
遊女小紫に逢うための金欲しさに、辻斬りしたのを
地蔵に見られ、
「このことは誰にも言うな」と地蔵に言ったところ、
「わしは言わぬが、お前も言うな」と答えたので、
この地蔵を「権八ものいい地蔵」と言う。
と、こちらにはそのように案内板が出ている。
その「権八延命地蔵」の手前右側の民家の門前に、
小振りの石灯籠が置かれており、
正面に
「ここは久下上宿、右 吹上宿、左 熊谷宿」
右側に
「?(丸一の屋号)治承4年(1180)久下直光公より
大鍛冶屋小沢 先祖刀工へ御免刻印也」
と書かれている。
(久下上宿と書かれた石灯篭)
(先祖刀工へ御免刻印)
門前の表札には「小澤」とあり、1180年代の先祖が
屋号を許されたことを誇っていた。
なお、その横に?の屋号の入った瓦二枚が鉄の鎖につながれて
置いてあった。
(?(丸一の屋根瓦)
元に戻って、「権八延命地蔵」の裏手の荒川土手に上ると、
ここには昔、木橋が掛かっており「久下橋」といった。
2004年まであった木造の久下橋の跡の石碑がある。
以前はここに木橋があって、風情をとどめていたが、
老朽化して新しいコンクリート製の橋が下流に出来たので
取り壊したらしい。
(木造の久下橋「冠水橋」の碑)
すぐ土手を下って「みかりや跡」の案内板が民家の塀の中に
立てられている。昔は旅人が休憩する茶店であったと言う。
英泉が描いた「木曽道中 熊谷宿 八丁堤の景」に出てくる
茶屋はここという。
茶屋を「みかりや」と云ったのは、
(中山道を往来する旅人相手の茶店で「しがらぎごぼうに久下ゆべし」
の言葉があるとおり、「柚餅子(ゆべし)」が名物であった。
忍藩(今の行田)の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので
「御狩屋(みかりや)」と呼ばれたという。)
(熊谷市教育委員会)
(みかりやの案内)
(英泉の浮世絵「熊谷宿」左側の茶店が「みかりや」)
進むと左に「東竹院」があり、ここは久下村領主の
久下直光が開いた寺で一族の墓がある という。
しばらく歩くと「曙万平自治会館」が見える。
八丁の一里塚の案内もある。
(東竹院)
(八丁の一里塚跡)
やがて秩父鉄道、JR高崎線、新幹線の高架をくぐり、
国道17号に合流する。「銀座一丁目」の信号を左折し
熊谷駅に向かう。熊谷宿である。
(熊谷駅に向かう途中の道)
史跡を見て歩いたせいもあるが、なんと27km歩いた。
熊谷駅についた頃には暗くなっていた。
本当のところは、地図を持っていたのに、道を間違えて
コースを踏み外して、二回歩いた。
一回目は道に迷い30キロ以上歩いたと思う。
二回目は、道々、小学生や中学生、土地のかたがたに、
道を聞きながら歩いたが、それでも27キロあったと思う。
もともと、鴻巣から熊谷までは、寄り道しなくても16キロ強ある。