中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

和田峠を下る(旧中山道を歩く 142)

2008年07月30日 05時42分07秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(和田峠の下り坂、白い杭が案内役となる)

(下諏訪宿)
古峠を過ぎると、山道は下りに入る。
上り坂が急であれば、下りはもっと急な坂道である。
下諏訪側の道路案内は、白い杭で案内される。
道は人一人入れ違うことさえ難しい狭い道で、
しかも直径二センチ前後の砂利を敷いたような道になる。
一歩踏み降ろすたびに、足はずるずると滑り、歩くことがとても難しい。

山を登るときは、「踵(かかと)で登る」。
つまり、足をシッカリ土に密着させ、ひざを伸ばすことで体を一歩持ち上げる。
そんな歩き方をすると疲れが少なくてすむと、
学生時代登山部にいた友人からアドバイスされた。
そのせいか、登りはさして苦労なくすいすい上がってきた。
しかし、山の下り方については、何のアドバイスも貰っていなかった。
考えてみれば、上りの逆の歩き方をすれば下りは楽なはず、
勝手に決めて「踵(かかと)」で降りる。
ところがどっこい、「踵(かかと)」で降りると砂利でずるずる足が滑っていく。
スキーやスケートと同じで、体重を後ろにかければ滑りやすくなり、
下るのが危険である。
ということは、逆にすれば問題なさそうと、
つま先から着地し、踵が着いたら、ひざに体重を乗せ曲げると、
今度は比較的楽に下りることが出来た。

とは言え一段、いや一歩降りるのが急すぎて、
できれば四つん這いになりたい位である。
上りなら四つん這いも出来るが、下りではそうは行かない。
滑る足元を見ると、靴一足しか置けない路が続く。

夫婦で山登りをして帰り道足を滑らして、
20メートル下の谷に滑落して大怪我をしたと、ニュースなどに報じられるが、
こんな山道でも一歩間違えば、すぐニュースになりそうである。
そんなことをカミサンに話しかけながら、注意して降りていく。


(水のみ場、いつも水が出て湿度が高いのであろう地蔵様にコケが着いている)

いくつか曲がり下ると「水呑場」案内のあるところに出る。
苔むした地蔵様が立っており、その脇に水が流れ出ている。
飲める水であろう。
地蔵様の姿は、大阪の法善寺横丁にある水掛け地蔵を思い出す。

「水呑場」から少し下ると「石小屋跡」にでる。


(石小屋跡の石垣)

石を組んだ形跡がある。
「昔、山道が急で旅人も馬とも疲れ、風雪のときは難儀を極めた。
下原村の名主・勝五郎は避難場所と荷置き場を作ろうと、
郡御奉行所に申し出て、馬士の出金、旅人の援助を仰ぎ、
五十両ほどで石小屋を建てた。
大きさは石垣から庇まで2.3m、長さ55mという大きなものであった。」
(下諏訪教育委員会)

下諏訪側から登れば、降りるのが大変なくらいであるから、
相当急な坂道で難渋であったろうと推察される。


(車道を横断した急な下り)

路は曲折してなおも下るが、途中より道路は水路となり、
水路の両端のどちらかを滑らぬように熊笹に掴まって歩く。
水辺には蚊や虫が発生しており、
汗の体をめがけてブーンと寄ってくる。
虫除けのスプレーをかけているが、襟首などをタオルで叩きながら進む。
何度か舗装道路を横切り下っていく。
一昨年の夏、蓼科に避暑した後で諏訪神社によるために
車で通った道を何度か横断した。

車で走ったときは、
旧街道左の看板を見てこの下はどうなっているのだろうか、
旧街道をいずれ歩くときは、この下の熊笹の中を歩くことになると、
覚悟はしていたが、これほどひどいとは思わなかった。


(朽ちた大木をくぐる)

やがて大木が倒れて路を遮断しているところへ出る。
それを潜って、なお進むと少し開けたところへでてくる。
その先に西餅屋跡の草の茂る小さな広場(?)へ出て来る。
これで山道は終わりのはず。

伸び放題の夏草の中に「西餅屋茶屋跡」の碑が、ポツンと建っていて、
芭蕉の句を思い出させる。

 「夏草や つわものどもが 夢のあと」

(急な下り道)


(西餅屋跡)

西餅屋跡は下諏訪町文化財となっており、

説明に
「西餅屋は江戸時代中山道下諏訪と和田宿の
五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬の休憩所)であった。
中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として重要視されていた。
ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、
藩界にあったので、時には穀留番所が置かれた。
幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、現在は、
道の「曲乃手」(直角な曲がり)と茶屋跡が残っている。」
(下諏訪町教育委員会)

なるほど、目の前左右に国道142号線があり、
旧道は西餅屋跡から国道を横断して直進するのであるが、
危険なため通行禁止になっている。
やむを得ず国道を右折して、歩道の無い車道を歩くことにする。

国道は長い上り坂で、大型トラックがエンジン全開の音を立てて走り抜けている。


(53番目の一里塚はこの下にある)

道路わきに立つと道の向こう側に看板があり、
(「中山道の一里塚」この下にあり)の看板が目に入る。
日本橋より53番目の一里塚である。
見るとガードレールの切れ目に通行止めの縄が張ってある。

危険なため国道142号線に沿って歩く。
ボクたちは下りであるが、向こうから来る大型トラックは、
長い上り坂の登坂車線を、アクセル一杯にエンジンがうなりをあげて進んでくる。
歩道の無い道は身に危険を感じるが、
トラックの運転手は心得たもので、
すれ違う手前から車線を中央側に避けながら走って行く。
遠くから来るトラックが併走してくるときは、車は避けようが無いので、
ボクたちが一時止まって、トラックの通過を待つ。
さもないと風圧で、トラックに巻き込まれそうになるからだ。

およそ3kmほど歩道の無い国道を大型貨物車を避けながら歩くと、
左側に「浪人塚左へ0,3km」の案内看板が出てくる。
旧道は左のわき道に入る。
その先で国道142号線をくぐり、出た所に浪人塚のある公園に出る。






古峠(旧中山道を歩く 141)

2008年07月26日 08時51分00秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(水路のトンネルの横を行く旧道)

(和田宿 10)
旧街道を歩くにはそれなりの楽しみがある。
まず、土地の方とのふれあい。
その二、大自然の中をよい空気を吸って緑の中を歩けること。
その三、往時の史跡に出会え、旅人の気持ちに浸れること。

それにしても、今歩いている旧中山道には、案内表示がシッカリしているが、
昔の人は案内表示もなく、
迷わずに中山道をどのように歩いたのであろうか?不思議に思う。
次の一里塚、次の一里塚を目指したのであろうか?


(東餅屋を出てすぐの旧道入り口)

東餅屋を後に国道を少し歩くと、すぐに草の生えた道へ入る
ブルーの案内看板が目に入る。道路をまたいだ向こう側である。
その道に入るや、急坂で登ると下りになり、こんどは道路をくぐるトンネル(?)になる。
トンネルというよりは、水路である。水路を利用した道で、
水路の横に路があるという感じ。

これこそ「百聞は一見にしかず」 写真をご覧ください。


(水路の横にある旧道)


(トンネルの中)


(トンネルの出口付近)

こんな道は昔は無かったに違いない。
水があふれ、道は水浸しになって歩行も困難であったに違いない。
水が上手く抜けるようにトンネルを作り脇に道を造ったのは、
きっと、つい最近のことに違いない。
あるいは、この水路の上に土を盛り、
新しい道路を造ったのかもしれない。

トンネルを出ると急な登りで、また下ると道路の斜め向こう側に
旧街道の案内のブルーの看板が見える。
また上り下りして、ビーナスラインを二回横断した後に、
今まで登ってきた道筋のわかりやすい地図がある。
その先でまたいだビーナスラインが最後で急な階段を上がり、
急な坂を上りきると峠に到着する。
一気に書いたが上り勾配が急なこと、最後のひと踏ん張りが必要である。


(道路を横断して向こう側にある旧道入り口)


(旧道入り口2)


(旧道入り口3)


(今まで来た旧道の地図)

峠には、お地蔵様や本尊大日大聖不動明王、御嶽山坐王大権現、
馬頭観音などの碑が建立されており正面が開けている。
天候に恵まれれば、御嶽山が見えるはずであるが、
残念ながら曇り空で眺めることが出来なかった。
左側は小高い山になっており、
その山の上に御嶽山遥拝所があるというが、
今までの急坂でこれ以上登る勇気も持ち合わさなかった。
何より曇り空で、上まで登っても回りに見えるのは雲ばかりと予想が付いて登る気にならなかった。


(峠の地蔵様)


(御嶽山大権現の碑)


(大日大聖不動明王の碑)

ここを古峠という。

説明によれば、
「中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や、
一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の行き来などで賑わいを見せた峠である。
頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。
冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、
冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
 明治九年(1876)東餅屋から
旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る
紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、
古峠の名を残すのみとなった。」(文化庁 長野県 和田村)

「和田宿は江戸板橋宿から28番目の宿場である。
宿成立以前から人家のあった中町・下町を中心に上町が、
さらに周辺の雨原・細尾・鍛冶足・久保などから人を集めて宿を形成し、
さらに・・・以下中略。
宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、
参勤交代で中山道を通行する34家の大名や、
一般旅行者が休泊する場所でもあった。」(文化庁  長野県 和田村)

和田宿から下諏訪宿まで中山道随一の長丁場で、
しかも登り2里半、下り二里半という和田峠の難所を控え
宿場の苦労は並大抵ではなかったようである。
(同じような立地にある馬篭宿について島崎藤村の
「夜明け前」に詳しく記されている。)

この古峠からは下諏訪宿となり、山道は下りとなる。


(古峠に咲いていた桜に似た花、名前がわからない)


(古峠からすぐの下り道路)




東餅屋と和田峠(旧中山道を歩く 140)

2008年07月22日 08時23分38秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(ずいぶんお世話になったブルーの道案内)

(和田宿 9)

その先のカーブを曲がると、東餅屋のドライブインに到着する。

山を登って疲れた体にエネルギーを補給するのは今も昔も変わらない。
東餅屋の力餅には期待していた。

以前碓氷峠を歩いた折も、峠の熊野神社の前には、
元祖力餅屋があって、そこでいただいた餅の味が忘れられない。
入り口から中を覗くと、お客様は誰もいない。
夫婦で中に入ると結構年配の頑固そうなオッチャンがいる。


(東餅屋ドライブイン)

「ここで食べられる力持ちはどれですか?」
碓氷峠では小さい餅が六個ほど出てきたように思う。
それでもやや多めであったので聞くと、おじさん指差して言う。

「見本がここにあるよ」
見ると大福もちの大きさの餅が二個と
高菜漬けが一山ついて 350円。
それにコーヒーが付くと 500円。

力餅だけ頼む。
食べた餅はずいぶん柔らかくて、
餡もそれほど甘くなくちょうど良い加減の甘さ。
高菜漬が塩分含んでいてピッタリのおやつ。


(店内の状景)

それでもやはり液体がほしくなり、コーヒーを追加する。
これには少し時間が掛かって出てきたコーヒーも山の中の割には美味しかった。

おっちゃんいわく、
「これから先、峠までが急で少し大変ですよ。今日はどこから来ました?」
「和田宿から」というと
「本亭旅館に泊まった?」
「お客さんはたくさんいましたか?」と矢継ぎ早の質問。
「いえ、もう一組いらっしゃったようですが、
私たちより先に朝食もとらずに和田峠へ出かけられました」
(おっちゃんは今日の和田宿方面からのお客はこれで終わり)と判断したようである。

おっちゃんの話では、(今日は6月11日)
6月17日と23日には団体の予約があるという。
旅行社のツアー客を、和田宿からバスで草の茂る道まで来て降ろし、
そこから山道を歩かせ、国道に出たところでバスに乗せ、
草道でまた歩かせ、ここのドライブインでバスは待ち受けて、
休憩をとったら、また歩く。(これ以上歩けない人はここでバスに乗る。)
元気な人は、峠から西餅屋まで歩いて、
その先でバスが拾い下諏訪までバスで行って温泉で泊まる。コースらしい。

22kmの山道全部を歩くとなるとかなりの疲労になるし、
歩道の無い自動車道を歩くのは危険極まりない。
カミサン連れではこの方がよかったかと今更ながら悔やまれる。
これだけ登ってきて、さらにこれからが急坂で大変と思うと、
場所によってはバスで行ったほうが良かったかと泣きが入る。

東餅屋を後に国道に沿って歩くと、草の旧街道が見える。


(旧街道が口を開けて待っている)






接待茶屋「永代人馬施行所」(旧中山道を歩く 139)

2008年07月19日 08時32分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(和田峠への草深い入り口)

(和田宿 8)
中山道の案内通り進んで、和田峠へ道がつながっているのかと疑わしく思えるが、
すこし進むと、休憩所がありその先に「三十三体観音」の石仏群に出会う。
説明看板の中央に、大きく「中山道」とあるので間違いが無さそう。


(休憩所とその先に三十三体観音の石造群が見える)

「かって、この山中にあった熊野権現社の前に並んでいた石造である。
旧道の退廃とともに荒れるに任せていたが、
昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認され、
ここ旧道沿いに安置された。
内訳は千手観音13体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、
二体は何観音か不明で、都合29体。残り4体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を願って祀ったものであろうか。」(文化庁、長野県、和田村)


(三十三の内29体の石像が建っている)

その先、急な坂道を青息吐息で登ると、
前面が急に開け「峠にきたか」と思うがそれほど甘くは無い。
国道に合流して道路は更にのぼっている。
右角にわらぶきの家があり、左手に小型軽トラックが止まっており、
荷台に2リットル入りのペットボトルを沢山積んでいる。
脇を見ると運転手さんらしき人が、ペットボトルに水を詰めている。


(接待茶屋:永代人馬施行所)

わらぶき家は接待茶屋跡で、
「ここに流れる清水は美味しいこと天下一品である」と、
宿の主人に聞いてきたその水である。
「ここでペットボトルの水を汲んで峠越えをされるとよろしいですよ」といわれていた。
時間は10時半。そろそろお腹も空いたので、
旅館で作ってもらった弁当をいただくことにした。

接待茶屋は両側が開いており、中に入ると4~50坪の土間になっている。
囲炉裏ともう一方にかまどが二つあり、
壁に沿って、ずらりとベンチといおうか縁台と言おうか、が並んでいる。
一度に50人以上が腰を下ろせそうである。

ボクたちもここに腰を下ろして弁当をひろげた。
弁当の包みにはコンビニで買うおにぎりの
1.5倍もありそうなおむすびが二個と沢庵十切れ、
それにきゃら蕗(蕗の佃煮?)が入っていた。

これで一人前である。
年配の二人には、一度に二つのおにぎりは食べきれないので、
一つずつ食べることにして、
ひとり分はリュックに入れなおして午後食べることにした。
それにしても水も美味しかったが、このおむすびの美味しかったこと。
塩味が少し多めで、汗をかいて山登りする人に
塩分補給を考えて作ったもののようである。
ペットボトルの水はほとんど空になっていたので、
ほとばしる清水を汲んでボトルに詰め出発した。

この接待茶屋は、「永代人馬施行所」といい、

説明では、
「江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が、
中山道旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。
その金の利子百両を二分して、
碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下げ渡し、
文政11年(1828)に設置された施行所である。
11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚き火を、
牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
その後山抜けにより流出したが、
嘉永五年(1851)現在地に再建され明治三年まで続けられた。」
(文化庁、長野県、和田村)

その後千両はどうなったのか知らないが、
明治政府が頂戴してしまったのか、貧乏人には気になるところではある。
なんといっても
千両寄付した人は「永代」の施行所にしたかったはずであるから・・・
(その後も「永代」の文字通り続いていれば、
今日おかゆをご馳走になれた(?)かもしれないのだ。)

それにしても、47年間よくも続けることが出来たと感心する。
ほとんど半世紀も続けられたのです。


(途中にあった文字の馬頭観音)


(入り口にあるブルーの案内)


(登り道)


(石畳の道)


(丸太を組んだ橋)


(流れ落ちる滝)


(滝2)

「永代人馬施行所」の前を登っていくと、
すぐまた草の道になり、入り口にはブルーの案内が表示されている。
山道は急な登り坂が続くと思えば緩やかになり、
緩急繰り返しながら進む。
途中石畳や橋を渡り、綺麗な清水の滝などにも出会いながら進むが、
観賞している余裕は無い。
苔むした石に足をとられまいとしたり、
架けてある橋の丸太に躓いて転ばぬように注意したり、
気を抜くことが出来ない。
しかし道を間違えそうなところにくると、
必ずブルーの案内板があるので安心である。

やがて次の一里塚に到着する。
「広原の一里塚」。江戸より52番目の一里塚である。
先ほどの一里塚からもう四キロも歩いたことになる。


(広原の一里塚)

「広原の示す文字通り、昔は笹や萱の生い茂った原であった。
冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で
一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、
五間(9m)四方のこの塚は旅人の道しるべになった。」
(文化庁、長野県、和田村)とある通り、


(キャンプ場の水場)


(キャンプ場の広原)

一里塚の先左側は、一面の広場で、キャンプ場になって、
お手洗い、炊事の用意が出来る設備が整っている。
その先で国道と合流するが、合流したすぐ左側に

運輸省認定
「八ヶ岳中信高原国定公園 和田峠 和田村青少年旅行村」
の看板があり、その奥に宿泊設備があるのか洒落た建物があるが、
今は無人のようだ。


(国定公園の看板)


(しゃれた建物、これも道路財源で出来たものか?今は空き家)

このあたりは、旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石の産地で、
和田峠のこの辺りで多く算出されている。
キャンプ場から一里塚にかけて、
その脇の湿原のあたりに沢山の遺跡が集中しているとのこと。
なお、発掘された石器は、和田宿の黒曜石石器資料館に保管されているという。
(長和町教育委員会)

返す返すも、黒曜石石器資料館が
四時過ぎで閉館していたことを残念に思う。



唐沢の一里塚(旧中山道を歩く 138)

2008年07月15日 07時51分23秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(旅館を出てすぐの道路)

(和田宿 7)
翌朝、6月11日、AM7:30出発。
ポットントイレが気になったカミサンが、
向かいにあるバスターミナル?の水洗トイレに駆け込んだ。
ボクは田舎に疎開した経験から、
肥溜めに渡した板の上から用を足した経験もあり、
まったく気にならなかったが、戦後も上等な(?)生活をしたらしいカミサンには、
ポットントイレは都合が悪いらしい。


(お隣のお店の「うだつ」)

十数分して朝の澄み渡った空気の中を歩き始める。
隣の駄菓子屋さんは屋根瓦の工事か、
前面にブルーシートをかけているが、
二階から「うだつ」が揚がっている。
隣の古ぼけた庄屋との境の防火が気になったのか、
戦後相当な稼ぎでもあったのであろうか。


(「和田鍛冶足」の信号)


(一里塚の碑)


(道しるべ)

道路を南下すると、まもなく町並みが消え左側が開けて山が見え信号にぶつかる。
「和田鍛冶足」の信号の先 右側に一里塚跡の碑がある。
江戸から五十番目の一里塚、日本橋から約200kmの地点になる。
一里塚跡に、「右諏訪街道、左松沢歩道」と道標がある。
和田から下諏訪に抜けるので、右に折れる。
京都方面から来たお客様にわかるようにであろう
「本亭旅館」の看板が大きく出ている。
和田宿で唯一の旅館である。


(本亭旅館の看板)


(「大出」のバス停)


(右に見えるバス停の前を左に入る)

右折してすぐ右側に茅葺の「大出」のバス停があり、
その前で旧中山道は左に分かれる。
ブルーの「中山道」と書いた案内板があるので解りやすい。
この案内板は和田峠を越えるまで続き、間違えることがないので、
この案内を探し探し進むのが安全である。
バス停を左に分かれるとすぐ清らかなせせらぎの川が左側にある。


(左側に清らかな川を見て進む)


(注連縄(しめなわ)のある道祖神)

まもなく国道142号線に合流し、
途中左手にドライブインがあったりパーライト工場があったり、
道祖神があったり、すこし曲がりくねって牛宿地区を抜けると、
右側に作業所なのか民家なのか解らないが、
集落があって、大きな灯篭が見える。
(案内書ではこのあたりに茶屋本陣跡があることになっているが見当たらない。)

この灯篭を見たら、国道の左脇に草が生い茂る土の道があり、
入り口に和田峠5.3kmの案内看板があるので草の道に入る。


(少し変わった形の石灯篭)


(左脇に入る草道)


(急坂の草道)


(案内表示)

いよいよ峠に通じる山道と気合を入れて進む。
途中ブルーの案内板に助けられながら進むが、
案内は江戸方面からと京都方面からとの、
二つの案内が重なっているので注意が必要だ。
草の道は、橋を二回ほど渡って登り坂を行く。


(ブルーの案内)


(草道2)


(草道3)


(唐沢の一里塚)


(左右に格好よく並んだ一里塚2)

ここらで一休みしたいと思うところに一里塚があり、
木陰で風があり休憩にはもってこいの場所に出る。
唐沢の一里塚で道の両側に小山が並んでいる。
幅約9m、高さ3mが一里塚の基準であるが、
忠実に守られているように思える。
さて中山道であるが、この一里塚に手前に道路は右方面に下る
自動車のわだち跡があるが惑わされないように、
この一里塚の間を抜けて直進する。

その後、道は下り坂になり国道に合流する。
振り返ると、「中山道 唐沢の一里塚」の案内看板が、
右矢印と共にでかでかと掲げてある。いつも思うのであるが、
案内表示は京都側からのほうがシッカリしている。


(京都側から見た一里塚の案内表示)

国道に合流するとすぐに(旧街道を思わせる)左折できそうな砂利道があるが、
ここは無視して国道を歩くとY字路に出る。
Y字路の真ん中に案内看板があり、
「右美ヶ原高原、霧が峰高原」とあるので右奥を覗くと、

中山道のブルーの案内看板があるように見えるので、そちらへ進む。
道は突き当たるような形で、さらに右に曲がっているが、
突き当たりに中山道の案内がある。

ボクは案内に助けられて道路を歩いているが、
昔の人にも案内があったのであろうか?
案内がなければ、この曲がりくねった山道を旅することは出来ない。

聞くところによれば、中山道第一の宿場――板橋宿――で、
旅する人と見送る人は、今生の別れのような宴席を持ったというが、
中山道を京都まで行くとなると命がけになったことがよく判る。


(「右美ヶ原高原、霧が峰高原」の看板のあるY字路、奥にブルーの案内がかすかに見える)


(ブルーの中山道の案内)






旅館の食堂(旧中山道を歩く 137)

2008年07月10日 05時35分38秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(座敷(食堂)の鴨居にかけられた長柄の槍と提灯、笠など入れた箱)

(和田宿 6)
風呂は一度に十人くらい入れるほど大きい。
長さ二メートル幅三十センチ厚さ5センチもあるような
木の厚い板で蓋がしてある。
蓋を取ろうとしたら、なんとその重いこと。
端を持ち上げようとしても持ち上がらない。
板の中ほどに手をかけて、隣の板の上に重ねる。
お湯に手を入れると熱くて手が真っ赤になるほどである。
ぬるくて風邪を引くようでも困るが、
十人も入れる大きな湯船に水を入れてぬるくするのも容易ではない。

水道の蛇口をいっぱいひねって最大に流しながら、
水を半分入れるようにして桶にお湯を入れ、体を流し、頭を洗う。
しばらくして手を入れるもまだ熱い。
温泉場の湯揉みよろしく、風呂板をお湯の中にいれ、お湯をかき回す。
お風呂の中とはいえ素っ裸で
重い風呂板で湯揉みをする姿を思い起こしてほしい。

ふんどしも着けず舟で櫂を操る男という感じ。
しかも海の男のように体格隆々ならいざ知らず、
貧相な70男がやっとの思いで、
櫂を操る図なんて落語家だって種にしない。

それでもしばらくしてやっと入ることができる温度になったように思う。
大体普段は、ボクはぬるい湯が好きだが、
カミサンは熱いのが好きだし、
第一、旅館のご家族の方も入るに違いない。
そう思うとうかつにお湯をぬるくするわけに行かない。
我慢して我慢して、熱いお湯にさっと入って出た。
体が真っ赤になるほどであった。


(高札)


(高札2)

次が食堂。
食堂に入ったら鴨居に長槍だの高張り提灯を入れる箱、笠(陣笠?)を入れる箱、
何かわからないが「御用」の箱など大小合わせて九個並んでいる。
また入り口には、正徳年代(1711)の高札の本物が五枚もかけられている。
木のふすまの鳥や木の絵、さらに後方の襖には、
松尾芭蕉とその弟子たちの絵と俳句が鮮やかに描かれている。


(襖に描かれた芭蕉とその弟子たち)


(中央の上、宗匠頭巾が芭蕉のようだ)

どこかの古美術館に入ったようである。
座敷の真ん中に座卓が二組用意されており、
別に一組お客様が来るようである。急な予約があったようだ。
その一方の食卓に就き、私たちは食事をいただくことになった。

浴衣がけで座るのが憚られる思いの豪華な食堂である。
本来なら裃つけて袴姿でなければ入れない部屋のように感じる。

食事は山家の野菜などふんだんに入った、
私たちにとっては山菜の珍味ばかり、
鮎か、いわなか、山女魚か、ボクには分からないが、
動物性のものはその唐揚げの他に茶碗蒸しだけであった。
少しのお酒で舌鼓を打って食事を終わらせた。


(食堂の襖)


(寝室の襖)


(寝室の襖2)

まず問題は階段、現存するお城、松本城、彦根城、丸岡城の階段のように、
一段一段の間隔が高く急で、手摺り無しでは登れない。
お城などの階段の一段が高いのは、万一敵が侵入してきたとき、
一気に駆け上がれないようにという配慮があってのことと思われるが、
庄屋の場合はどうして一段の間隔が高いのか理解できない。

そうそう、忘れてはいけない。
宿の方の姿が見えなくても挨拶だけはきちんとしましょう。
(挨拶は紳士淑女の第一番目の要件です)

風呂を出たら、
「お先にいただきました。」
食事を始めるときは
「いただきます」当たり前だが終わったら
「ごちそうさまでした」

帰り際に清算するときは、「お世話になりました」と声をかけると
宿の主人が出てきて、請求書をくれる。

ずいぶん世話になったのに、
チップを置いてくることを忘れたことが悔やまれる。
外国にいると忘れないのに、習慣とは恐ろしいものだ。
日本に居ると忘れてしまう。
お昼のお弁当まで(おにぎり)作ってもらって、
ひとり7650円であった。(お酒は別勘定で)

安いか高いかはサービスを受ける人の価値観と興味の持ちようによる。



元庄屋のお屋敷・本亭旅館(旧中山道を歩く 136)

2008年07月02日 16時00分04秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物)

(和田宿5)
和田宿本陣が宿場の中心地であろう。
本陣を通り過ぎると時代を思わせる建物が続く。
やがて左側に「本亭旅館」の看板がぶら下がっているのが見える。
今日の宿泊旅館である。電話で予約したとき、
「古い建物の旅館です」と言われたが、
本当にこれが旅館?と思われる建物であった。
案内書によれば、もと庄屋の家を誰かが買い取って
旅館を営んでいるとあった。

武家政治の下請けとして村や町の代表者であった庄屋・名主の役割は、
村民町民の法令遵守・上意下達・人別支配・
土地の管理などの支配に関わる業務を下請けした。


(本亭旅館、年代ものの松、崩れかかった屋根)


(本亭旅館の屋根付段違いの黒板塀)

そのお屋敷は、予想はしていたが予想以上に古い建物であった。
いにしえの趣は玄関先の年代ものの松や、
その隣にある屋根が崩れかかった門、
それに続く屋根付の段違いの黒塀で十分感じられる。


(旅館のお向かいの脇本陣)

道路を挟んで正面がバス停と脇本陣になっているが、
その両方ともよく手入れされ真新しく感じるのとは好対照の古さである。


(車の後ろが本亭旅館入り口)

玄関の引き戸を開けて、案内を乞う。
昔ながらの高い上がりかまちの先が畳の部屋で、
左側の部屋の先に階段があり、
その奥に座敷が見える、ご主人と思しき人が出迎え
「いらっしゃいませ」。

右側にも部屋があり、板の襖?がその部屋の出入り口になっているようだ。
右奥はどうやら通路になっていそう。
正面奥の部屋の前にはよしずが架かっており、奥を遮断している。

昔とった杵柄で、玄関に入るなりそこまで観察した。
もちろん人を見る目は誰よりも鋭い。
宿の主人は温厚そうであるが、それでも客の足元をしっかり見る。
これも仕事のうちだからしょうがない。
変なお客にでも泊まられたら、宿泊代を頂くことはおろか、
挙句の果てにお金を添えなければならない時だってあるのだ。
それどころか心中でもされたら、お店の評判にもかかわる。

「電話で予約したH.B.ですが、今夜一晩お世話になります。」と言うと、
亭主よく観察したらしく、にこやかに安心したように、
「いらっしゃいませ、どうぞお上がりください」という。
もう夕方の5時近い。長久保宿から歩いて約8kmであるから、
普通の人は90分くらいで歩いてくるらしい。ボクも普段の散歩なら、
そのくらいの時間で歩くのである。
その道のりをボクたちは二人は倍の180分掛かって到着した。

「ずいぶんごゆっくりでしたね」と宿の亭主。
「史跡を見ながら、考えながら歩くものですから、
通り過ぎたところへまた戻ったりして時間が掛かりました。」とボク。

「長久保からの道のりは判りにくいですね。
どれが旧中山道かわからないところがありますね」
「案内は きちんとなっているはずですが」という。

きっと最新の案内は、薄いブルーの矢印で出来ているのだろうが、
古い案内板がそのまま残っているので、どちらを採ったらよいか判断に苦しむ。

「案内書に寄れば、和田峠もわかりにくそうですね」というと、
「お客様に聞くと、案内表示はきちんと出来ていると聞きます。
下諏訪宿まで5時間ほどで歩けるようですよ」と宿の亭主。
しかし22kmの山道を五時間で踏破できるとは、ボクの足ではおぼつかない。
第一標高差800mある山道だ。
碓氷峠の経験からどんなに早くても7時間は最低必要である。
山道は何があるか解からない。


(高札に書かれていた内容)

「高札場があるそうですが、それはどこですか?」
「この先200mほど右側です」
和田宿は、本日中に見学しておき、明日は和田峠の山道に専念したいので、
先に高札場を見学、正徳年(1711)の高札六枚などどこかに残っているらしい。
高札を読むと、
「旅人は笠などかぶりものを取るのが慣わしであった。」とあり、
思わず帽子に手をかけ、取ってしまった。
正徳年間の高札については、
当然法令遵守(今風に言えばコンプライアンス)の役目は庄屋にあるのだから、
今夜泊まる本亭旅館にその現物はあるに違いない。
そう考え高札を楽しみに旅館に帰る。


宿に帰り靴を脱ぐや亭主が待ってましたとばかり、
旅館内を案内しますという。
まず玄関を上がるとすぐ右のほうへ廊下を渡り左折して、
長い廊下を行くと突き当りの右がお手洗い、
これは水洗でなくポットントイレ。
その手前が洗面所(普段は共同であるが今日は貸切)その手前がお風呂、

「熱かったらどんどん埋めてください。湯上げタオルはお使いください。」
ゴルフ場のお風呂のように湯上げタオルが積み上げてある。
そこまで案内が終わると、次が食堂と紹介される。

本日の寝室は、二階への階段を上がって、
廊下を抜け西日が当たる角部屋に案内された。
もちろん部屋の仕切りは唐紙の襖。
通り過ぎてきた廊下脇の部屋は3室。
それに泊まる部屋の東側にもう一室ある。
廊下はミシミシ音がして、夜中にトイレに起きると、
この音でみんな起きてしまうだろうなと余計な心配をする。
今日はわれら夫婦以外の客はいないのに。

「夕食は七時ころから、朝食は朝の七時ころで、
どちらも用意が出来ましたらご案内します。」
「とりあえずお風呂をどうぞ」と言う。

部屋に入ると、もう布団が延べてあり、浴衣が置いてある。
汗をかいたので、早速風呂へ。


(本亭旅館)