中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

赤坂の地蔵堂(旧中山道を歩く 246)

2011年05月28日 11時24分56秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(日本ラインうぬまの森の石碑)


(中山道の案内)


(中山道脇の池)

(鵜沼宿1)
鵜沼の森の石碑を後にして、広い坂道を下ると、
右手に池がある。
この池に沿って右手にぐるっと回り込む。
池の終わる所に(中山道左)の案内がある。

中山道の案内書では、ここから道路は一気に下るとあるが、
案内通りに進むと道路は二手に分かれ、
両方とも下りになっている。


(左折の案内)


(道路はくだり二手に分かれる)

右に行くべきか左に行くべきか迷っていると、
10mほど先に一里塚を半分に切ったような、
土を盛り上げた場所があることに気づく。
近所の方が歩いていらっしゃったので、
「この土盛りはなんですか?」と尋ねると、
「昔から山があったところで、道路を作るのに、切り取った所です」と言う。

一里塚の片割れでないことを確かめて、さらに先に行くと、
もう一つ同じような土饅頭がある。
今度のは少し草も生えて古そうである。
下り坂を行くと、子供たちがあえぎながら道路を登って、
ボクとすれ違っていく。


(土饅頭をきったような土盛)


(草の生えた土盛、左手は住宅)

道路左側は住宅が並んでおり、
宅地造成で山を切り開いたのかと考えると、
中山道にはどうしても思えなくなってくる。

坂道を大分下ってきた。
右手の崖下のはるか向こうのほうに、
大きな道路で車が行き交うのが見える。
案内書では、右折すると国道に出て鵜沼宿に入るとあるから、
坂下の向こうの道に合流すだろうか?
心配になってくる。

かなりの急坂を登って、もとの道に戻るには
相当勇気が要る。
このまま下って、間違っても鵜沼宿へ行けばよいことと、
坂道をどんどん下っていくと、どこかで見かけた景色にでる。

赤坂の地蔵堂である。

その手前に(中山道は右)方向の案内が目に入る。
これで一安心。道路は間違っていなかった。


(赤坂の地蔵堂)


(選挙の看板が入ってしまった、中山道は右の案内)


(赤坂の地蔵堂を右へ)

中山道鵜沼宿のボランティアガイドに聞いた説明によると、
「この地蔵様は三回も交通事故に遭ったという。
しかし祠は壊れても不思議なことに、
地蔵様は壊れずに残ったと言う。
不思議なことが起こり、土地の古老により、
ありがたく世話をしてきた。
うとう峠を下りきったところにこの地蔵堂はあり、
この地蔵堂を西に直角に折れると、鵜沼宿に到達します。

安置されている地蔵さまには、
宝暦十三年(1763)・女人十二講中と刻まれております。
台座の左右には、左は江戸併(ならびに)せんこうじ(善光寺)、
右はさいしょみち(在所道)とあり、
道標として建てられたものと思われます。
江戸時代に東から急坂を下ってきた旅人や、
西から鵜沼宿を東の赤坂(*)・うとう坂へと旅した人たちは、
この地蔵にどんな願いをかけ、手を合わせて、
通りすぎて行ったのだろうか。」と語る。

(*)東の赤坂とは、この地蔵堂を(赤坂の地蔵堂)と言い、
鵜沼宿から西へ行くと赤坂宿があり、
これに対比して東の赤坂と言った。

中山道はここから西へ直角に折れ、
鵜沼東町ふれあいセンター前を通る。
このふれあいセンターがあったところに、
昔は高札場があった。

ここからが鵜沼宿になる。


(鵜沼東町ふれあいセンター、以前はここに高札場があった。)


(その隣の赤坂神社)







うとう峠(旧中山道を歩く 245)

2011年05月23日 10時42分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(うとう峠への道)


(木橋を越えて)


(山の中の上り道)

(太田宿6)
旧中山道最後の山の中の土の道と言う。
案内看板に、
(ここから鵜沼宿まで大変急傾斜の危険な山道であった。)とある。

案内どおり山の中の上り道が続く。
木橋を越え、30℃ほどの傾斜道が、ウンザリするほど続いている。
やがてY字路にでる。登り道で下を見て歩くから、
周りが良く見えない。

Y字路の左は下り道で、先のほうに木に案内看板があって街道らしく感じる。
右手は相変わらずの登り道で、こちらには先のほうまで見渡しても、
案内など無さそうである。
左の下り道にすべきか、右の上り道にすべきか、
迷うところである。


(Y字路)

考えてみると、この道は「うとう峠」のある坂道である。
峠に出るまでは、とても下り道に入るはずがない。
そう思って右の上り道を行くことに決めた。
すると左手の木に小さな板切れに「中山道」と書いて、
右矢印があるではないか。

きっとここは迷いやすいから、
どなたか板切れに書いて針金で結わえたに違いない。
地元の行政の人が作ったとはとても思えないが、
いずれにせよありがたいことである。


(右矢印の「中山道」)

そこから少し登ると、山の中にしてはやや広い場所に出る。
右手には、東屋があり休憩できる。
広場の先の左手に「中山道 うとう峠」の看板があった。
ここがうとう坂の頂上であろう。

ここから中山道は石畳が敷いてある。
最近出来た石畳のようだ。
石畳に沿って今度は下ると、道路は二股になるが、
左手は土道、右手は石畳であるから中山道は右へ行く。
この場所の右手がややこんもりしている所を見ると、
どうやらここに一里塚があったらしい。
「うとう坂の一里塚」で江戸から100番目の、
記念すべき一里塚であったのに、
気が付かず通り過ぎてしまった。


(うとう峠)


(うとう峠ー遊びの広場の看板)


(二又道路、右がこんもりしている)

中山道はどんどん下って、左に丸太で作ったような木の家があり、
「センターハウス やまびこ もりの本屋さん」がある。
この場所は広場になっていて、建物の右隣にはお手洗いもあるので、
ここで用を済ませておこう。

広場の右手は、アスファルト道路で、その右手に住宅団地がある。
このアスファルト道路が、この先を行く中山道で、案内もある。

今来た道を振り返って見ると、石畳道が左手にあり、
右手には自然石に「日本ライン うぬまの森」と刻まれており、
桜の木が今や満開と咲き誇っていた。

これから先は、鵜沼宿である。


(丸太で出来た家)


(日本ラインうぬまの森)








岩屋観音堂(旧中山道を歩く 244)

2011年05月17日 10時07分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(岩屋観音堂入り口)


(岩屋観音堂へ行く道)



(太田宿5)
勝山の信号を過ぎて西に向う。
勝山とは、秀吉か家康が戦勝を記念して勝山と名づけたという。
どこまで本当の事か解らない。
国道21号線の右側の歩道を歩いていくと、
その右側に小さな空き地があり、(岩屋観音駐車場)とある。
その左手に細い土の路があり、
横から眺めると岩肌を自分の背丈より高く登っている。

いづれ先で国道と合流することは解っていたので、
土の道路を眺めて、
行こうか行くまいか思案して国道を少し進むと、
右手の土の路に道標らしきものが建っている。
見ると「西 鵜沼宿」とある。


(坂祝町 西鵜沼宿とある標識)

案内があるからには進むことが出来ると判断」して、
国道を戻り、土の岩屋観音参道に踏み込む。
5mほどで(坂祝町)の道標がある。
思い切って進むと、切り立った崖の脇道を進む。
足元の道路は、やっと人がすれ違えるほどのせまさで、
左に金網がなければ下の国道に落ちそうな路である。
右に岩肌、左に金網と道幅約100cmを少し登ると、
路は直角に右に曲がって、右角にお地蔵様が安置されている。


(崖の上のせまい道)


(曲がり角の地蔵様)

その曲がり角から、下の国道と平行して流れている木曽川の流れが見え、
見るからに美しい。
路は直角に折れ曲がり、まだ登っている。
登ってまた直角に今度は左に曲がっている。
急坂で足元が悪く、他を見る余裕がなかったが、
今度は下り坂である。
危ない石階段を足を滑らさないように降りて、見上げるとお堂がある。
「岩屋観音」と書かれている。


(右曲がり角で、ベンチにのぼり背伸びをして、手を挙げて撮った木曽川)


(足元が悪いくだりの階段)


(見上げたら見えた岩屋観音堂)


(岩屋観音堂)


(岩屋観音堂2)

案内書には高さ260mと随分高く書かれているが、
国道から20mほどの高さである。
260mとはどこを基準にした高さなのだろう。
木曽川の川底を基準にしても260mはない。
標高260mが正しいのかもしれない。

(岩屋観音)をお参りしてから今度はくだりの階段を降りる。
降り立った所が国道の歩道上である。
国道に沿って先に進むと、小さな公園になっており、
自転車の男女が随分接近して立っている。
大きな咳払いをしたら、
人がいるのに気が付いてそそくさと自転車で消えていった。
余計なことをしたようだ。


(下り階段)


(階段を降り切ると修復記念碑があった。修復後だから登れたに違いない)


(国道に出たところ)


(小公園)

国道右側の歩道を少し歩くと、
国道左手に街道沿いレストランが並んでる。
どれも営業をしている様子はない。
やがて左手にレストラン「ゆらぎ」がある。


(レストラン「ゆらぎ」)


(駐車場の穴へ)

案内書ではここの駐車場の穴を降りて、
国道と高山本線を潜り抜けて山道になるとある。
半信半疑で進むも、車の量が多くて道路を横断できない。
やっとの思いで道路を横断し、
レストラン「ゆらぎ」の駐車場の穴を探す。
レストランの建物を通り過ぎたところにある駐車場の端に、
降りる所はあった。

レストラン「ゆらぎ」は営業しているのか、
廃業しているのか解らないが、
いずれレストランが無くなった時のことを考えると、
レストランが目印では困る。

そこで何か目印がないか探すと、
(気をつけて
  お帰りください
    これより岐阜方面)
の看板の下に「中山道 左へ」と案内がある。
駐車場へ入ると前方に階段があり穴のように見える。
その位置が 「各務原市」の境界看板の真横であることが解った。


(中山道左の看板)


(各務原市の境界看板の下に降りる穴がある)


(降りる場所にある看板)

急な階段を降りると国道下にトンネルがあり、右手より水が流れている。
国道の右は山で、山から清水が流れ、
国道下のトンネルで木曽川に注ぎ込んでいるのだ。
トンネルを流れる清水の脇に人が通れる路が造ってある。
トンネルを覘くと向こう側に階段が見える。
後で解ったことだが、このトンネルの中の清水の流れる小川が、
各務原市と坂祝町との境界になっている。

トンネルを潜り抜け階段を登ると、
突き当たりに「うとう峠」左への看板がある。

本来の中山道は、
岩屋観音からまっすぐ「うとう峠」へ繋がっていたであろうと思われる。
あとから出来た線路と国道が旧街道を飲み込んでしまったようだ。

中山道最後の土の山道である、と案内書にある。


(下り階段)


(階段下のトンネル)


(トンネルを出た後の階段)











ロマンチック街道(旧中山道を歩く 243)

2011年05月12日 12時43分38秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(木曽川土手横のムクノキ)


(木曽川を望む)


(太田宿4)
太田小学校をあとに、
虚空蔵堂前を左に進むと木曽川の土手に出る。
虚空蔵堂裏手には、坪内逍遥ゆかりのムクノキが枝を広げている。
空は快晴で木曽川が美しい。

木曽川土手の旧中山道を進むと、右手土手下に芳寿寺があり、
続いて土手下の右手奥に深田神社がある。
木曽川土手上の道路は、
やがて茶色のカラー塗装道路に変わり、
道路上に、日本ラインロマンチック街道と大きく書かれている。


(芳寿寺)


(深田神社)


(ロマンチック街道)

ロマンチック街道といえば、
ドイツのノイシュバンシュタイン城へ通じる道路が有名である。
日本人観光客が勝手に「ロマンチック街道」と名づけた。
ドイツの道路なのに、
日本語で「ロマンチック街道」と道路わきに看板が出ている。
そこから持ってきて木曽川沿いのこの道も
「ロマンチック街道」と名づけたのであろうか?
あるいは、今歩いているこのロマンチック街道が先だったのだろうか?
いずれにせよ、このロマンチック街道は、
木曽川の「日本ライン」に沿って3.5kmに及ぶ道路を指している。

「太田の渡し」から鵜沼までの木曽川が
ドイツのライン川の景観に似ているとして
名づけられたのが「日本ライン」である。
どちらも日本人が名づけたものだ。

「日本ラインロマンチック街道」は「一色大橋」「行幸公園」「あずまや」「勝山入口」である。
茶色のカラー舗装の道路が快晴の中、風に吹かれて歩くのに気持ちよい。
散歩をする人、ジョギングをする人、サイクリングをする人、
乳母車に乳飲み子を乗せて散歩する人に出会う。
こんな場所で、すれ違う人には「こんにちは」と挨拶する事を思い出し、
声を掛けると、笑顔が返ってきて「良い天気ですね」という。


(茶色の舗装)


(ロマンチック街道の案内)


(一色大橋)


(行幸公園)


(日本ライン)

この先で土手の道路は、右下に国道21号線と平行して進むようになる。
土手の道路が終わり、併走している国道に下りると、
すぐ「勝山」の信号になる。
信号右角に珍しい屋根の家があり、
道路の右側に歩道があるので右側に渡る。

その先右頭上に岩屋観音があると案内書には書いてある。
前方の山の上の高~いところに建物らしいものが見えるが、
これが岩屋観音だとすると、とても登るだけの勇気が起きない。


(山の上の建物)


(勝山の信号)

案内書では、岩屋観音は岩の崩落が激しく通行できないとか、
高みにあるので登る勇気がないとか、書いてある。
しかし、岐阜県で作成された案内図によると、
旧中山道は、JR高山本線のトンネルの上を越え、
岩屋観音に出て行くようだ。

平成14年に書かれた案内書からは時間がたっているから、
その間に道路は改良されたり、新しく付け替えられたりする。
岐阜県で作成された案内地図は新しいからこれを信用して、
岩屋観音に向うことにする。

後で分ったことだが、山の上の建物は、猿ばみ城・展望台であることが解った。
(この展望台からは、恵那山・中央アルプス・御嶽山、
さらには伊勢湾・ナゴヤツインタワーまで望むことが出来る。
とりわけ眼下を流れる名勝木曽川は絶景である)(坂祝町)という。


(関市へは右折の案内、歩道は右になる)


(岩屋観音堂入り口)







名訳「弱きものよ、汝の名は女なり」(旧中山道を歩く 242)

2011年05月06日 10時56分32秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(美濃加茂市の太田小学校)


(坪内逍遥生誕地)

(太田宿3)
太田小学校は以前「尾張藩 太田代官所」があったところである。
そこの役人の子として坪内逍遥がいた。

代官所とは説明によると、
(尾張藩は天明年間になると、
藩政改革として領内の諸用地を一括支配する所付代官を配置しました。
太田代官所は天明2年(1782)に設置され、
初代の代官は井田忠右衛門でした。
慶応4年(1868)太田代官所は北地総管所
(ほくちそうかんじょ)と改名され、
田宮如雲が総管に任命されました。
このとき一緒に努めていたのが坪内逍遥の父 坪内平右衛門です。)
(美濃加茂市商工観光課)

その代官所の案内が、太田小学校の校舎裏のグラウンドの
カイヅカイブキの生垣の中にある。


(代官所跡の案内看板)

また、坪内逍遥の顕彰碑は太田小学校玄関脇の逍遥公園にあります。
そして逍遥ゆかりの妙見堂は、代官所跡の看板の道路を挟んで反対側にあり、
60歳になって故郷に帰り、家族と撮った写真の背景のムクノキは、
妙見堂の裏、虚空蔵堂うしろに大きな枝を伸ばしております。
さらに逍遥が好んだ椿に因んだ「山つばきの部屋」は、
太田小学校の校舎の中にあり、
逍遥に因んだ資料が展示してあります。
見学は無料です、静かにご見学願いたいと思います。


(逍遥公園)


(坪内逍遥顕彰碑)


(妙見堂)


(虚空蔵堂とムクノキ)


(山つばきの部屋)


坪内逍遥について知らない人はいないと思われますが、
美濃加茂市教育委員会による紹介を載せておきます。

(坪内逍遥は安政6年(1859)、尾張藩太田代官所の役人であった
父 平之進の十人兄弟の末子として生まれる。
その後、明治2年(1869)父の引退にともない、
太田を離れた逍遥は、
名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。

十八歳にして上京し、明治十六年(1883)東京大学を卒業すると、
文学論「小説真髄」や、
小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」などを発刊し、
明治新時代の先駆となりました。
また、早稲田大学教授として、
演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究に当たり、
近代日本文学の基を築きました。

逍遥の明治四十二年からの二十年間にわたる
「シェークスピア全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。)とある。
(美濃加茂市教育委員会)

今回の題名「弱きものよ、汝の名は女なり」は、
この坪内逍遥が翻訳した
シェークスピアの「ハムレット」の中の一文です。

ハムレットの母は、夫の死後、夫の弟と再婚するが、
当時(1600年代の頃)、
「夫婦は合体するとその血は二人に流れる」と信じられており、
配偶者の兄弟姉妹との再婚は、
近親相姦として固く禁じられる社会でもあった。
そんな中、ハムレットの母は近親相姦という社会的タブーを犯してまでも、
情欲に負け貞操を捨てて男(弟)に走ってしまう。
これを見て「女と言うものは、すぐに情欲に負けるもろいものだ」と言った。

英語では、
(Frailty thy name is woman)
であるが、
このfrailtyは 「もろい、こわれやすい、浮気しやすい(女心)」 を意味する。
しかし坪内逍遥は、これを

「もろき者よ、
 あるいは 情に弱き者よ、
 またあるいは、言い寄られればすぐに負けてセックスしてしまう女よ」
とせず、

「弱きものよ、汝の名は女なり」と訳したが、
なよやかな女性を考え合わせれば、女性を傷つけない、
これほどの名訳はない。

しかし、「弱きものよ」は確かに女性をさすが、
これも子供を授かるまでのことで、
オスを誘惑し、授かってしまえば、

「女は弱し、されど、母は強し」
(ヴィクトル・ユーゴ「レ・ミゼラブル」より)
になってしまう。


(ロメオとジュリエット翻訳、逍遥の自筆原稿)

逍遥は自作論文「小説真髄」の中で、
(小説で大切なことはまず人情を描くことで、
次に世の中の様子や風俗の描写である)
と論じているが、これにぴったりの名訳だと思う。

話がとんでもない所にそれてしまったが、
太田代官所跡の案内看板の前には、
虚空蔵堂があり、その前を通り西へ向うのが旧中山道である。

虚空蔵堂前を西のほうへ向う、木曽川べりである。


(虚空蔵堂とムクノキ。写真手前右下に、中山道左の案内もある)





太田宿脇本陣 林家(旧中山道を歩く 241)

2011年05月01日 10時12分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(太田宿脇本陣林家住宅)

(太田宿 2)
太田宿らしい古い町並みが続く。
その街並みの中の右側に造り酒屋の新旧混じった家があり、
左手に元太田脇本陣林家住宅とその隠居所がある。

前号で述べたが、日本アルプスの偉大な登山家であった播隆上人が
アルプスの帰り道、具合が悪くなり休んだ家が、この林家である。
残念なことに、この林家で播隆上人は人生を全うされる。
この旧脇本陣は今でもご子孫の方がお住まいで、
その隣の隠居所が公開されているので、見学しよう。

美濃加茂市によると、
(林家は、初代市左衛門が中山道太田宿の現在地に屋敷を構えて以来、
脇本陣のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も勤めていました。
また、質屋や味噌醤油の製造販売も営んでいた旧家です。
往時には、東西25間の間口を持ち、
土蔵十棟、馬屋三棟、離れ座敷などをもつ壮大な構えでした。
主屋は、明和六年(1769)に建築された居室部と、
やや遅れて建てられた座敷部とからなり、
街道に北面して立っています。
切妻の両端には立派なウダツが設けられ、
この家の権威と格式を示しています。
――後略――)とある。


(隠居宅は右側の口のあいている所)

隠居所を見学したら、道路向かい側に旧太田宿本陣門があるので、
その門を見て、昔はその裏手に本陣の家屋敷があったことを想像してみよう。
この門は、文久元年(1861)時の天皇の御妹君、
皇女和宮が下向の際新築されたものである。
和宮は十月二十七日ここ太田宿で一夜を過ごされた。
今ではこの門は美濃加茂市の有形文化財に指定されている。
この斜め向かいに中山道会館があるので訪ねてみよう。


(旧本陣の門)


(中山道みたけ館)

街道沿いは古い昔を偲ばせる作りに工夫している。
駐車場の空き地を囲うのにも昔風な造りを考えている。
道路を西に進むと、右角に石標がある。
「右関 上有知道 左西京 伊勢道」とある。
往時はこの辺りに高札場があったという。
右奥を覘くと、「清流山 西福寺」の石碑が見える。

ここが西の枡形で、ここを左折し突き当たるまで進む。
ついで突き当りを右に進み、
国道41号線をくぐり、出たところ右手には小学校が見える。
太田小学校である。

この太田小学校に昔太田代官所が置かれていた。

そこの役人の息子が坪内逍遥である。

坪内逍遥って誰?と言われる方に補足して置きたい。

坪内逍遙:1859年(安政6年)- 1935年(昭和10年)は主に明治時代に活躍した
日本の小説家であり、評論家であり、翻訳家であり、劇作家。
代表作に『小説神髄』『当世書生気質』
およびシェイクスピア全集の翻訳がある。


(駐車場の囲い)


(石柱)


(「清流山 西福寺」の石碑)


(左折して突き当りまでの道)


(枡形)


(太田小学校)