(和田宿入り口)
(和田宿4)
和田八幡社で中山道は右のほうへ曲がって坂はさらに上っている。
道路の先を見ると周りの人家の様子が、
昔はこんなであったろうかと想わせる雰囲気――時代劇の宿場の街並みになる。
(「かわちや」ー歴史の道資料館)
(かわちや2)
清流が流れる依田川を渡った右手に「かわちや――歴史の道資料館」、
その奥に黒曜石石器資料館があるが、残念ながらPM16:00で閉館とある。
時計を見ると16時を僅かに回ったところであるが、これほど人の姿を見ないということは、
本日の訪問者は皆無に近いに相違ない。午後四時を待つように閉館しても仕方ない。
そもそもボクの都合で、しかも梅雨いりしたばかりの雨の合間を縫って、
前後は雨の予報で、たった二日間の晴れ間を、
これ幸いと出かけてきたのだから訪問者がいないのも仕方が無い。
旅館を予約したときも、おかみさんらしき人から
「中山道を歩かれるのですか?天候は大丈夫ですか?」と念を押されたくらいである。
後で判った事だが、
旅館の予約はボクたち夫婦二人以外に宿泊客は無かったなかったのである。
この梅雨のシーズンに中山道最大の難所である
和田峠(標高1600m)を下諏訪まで22km歩こうと思う人はいないに違いない。
もっと気象条件のよい時期を狙うのが普通だ。
気象庁の予報に加え、テレビに流れる低気圧の動きを判断して、
この二日間に雨はないと勝手にボクが判断して実行に移した。
(いにしえを想わせる街並み)
(古い家)
(古い家2)
(古い家3)
街道を進むと左側に和田宿本陣が再現されて見学可能であるが、
これも時間外で外から見るだけであったが、
見るからに重厚なつくりで、見学できないのは大変残念であった。
本陣正門前にある説明によれば、(要約ですが)
(本陣)
(本陣のご入門)
(本陣・屋敷)
「和田宿本陣は文久元年(1861)の大火で焼失してしまったが、
同年皇女和宮降嫁に備えて再建された。
その後明治期に座敷棟は丸子町龍願寺へ、
また座敷棟の前にあったご入門は丸子町向陽院へと移築された。
ここにある門は実測調査して作成復元した。
平成元年「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体表彰を受けて再建した。」
(長和町教育委員会)
(信定寺の本堂、裏山が和田城跡)
宿場をさらに進むと右奥に信定寺(しんじょうじ)があるのでよって見る。
信定寺は大井信定の「信定」をとって命名されたものであろう、
「信定の菩提を弔うため天文二十二年(1553)に建立された。
徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊まり京都二条城殿祈願寺となり、
諸大名参詣する。
江戸時代十四代住職活紋禅師は幕末の士、
佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、
象山と一対一で世界を語ったといわれる。寺の裏山は和田城跡」と
寺の由来に書かれている。
(信定寺の山門兼鐘楼)
また、鐘楼は二階建ての上の部分にあり、山門をかねている。
これに似た門は桶川宿の浄念寺にあったのを思い出す。
鐘の音は村の人々の心のよりどころとなってきたに違いない。
山門を兼ねたこの鐘楼は柱が細身、
やや腰高でいまにも倒れそうな不安定さを感じさせる。
屋根の上にシャチがいるのも、なにやらお城のようで、
裏山の和田城を連想させて面白い。
鐘楼門の右脇に虚空菩薩像が安置されている。
虚空菩薩とは、字のごとく虚空を蔵する。
つまり宇宙のすべての知恵と慈悲を蔵する仏であることから、
念ずれば記憶がよくなり学力が向上するといわれる。
(中央が虚空蔵菩薩)
しかしボクの経験からは、
学業は神仏を念ずるようでは、向上はおぼつかない。
人は生まれながら同じように平等にすばらしい能力を与えられている。
ただ、その能力を磨き続けることが出来るかどうかによって、
出来る人出来ない人の差がでてくると思う。
ことわざに「小人玉を抱いて磨かず」とある。
せっかく良い頭脳を親から貰って生まれてきたのに、それを磨こうとしなかった人と、
向上の意欲を持って磨いた人とでは格段の差が出来ることを知ってもらいたい。
70年経っていまだに磨き続けて、少々玉が磨り減って小さくなってきたが、
ボクの経験では磨き続ければ、招きもしないのに、
思わぬ幸運が向こうからやってくることを覚えておいて欲しい。
話が脱線してしまったが、
いずれまた時間を見つけて和田宿を訪問し、
歴史の道資料館も
黒曜石石器資料館も
本陣なども見学することにしようと思う。
(信定寺門前から見た道路)