(下諏訪宿歴史民族資料館)
(下諏訪宿3)
下諏訪宿本陣・岩波家を後にして。旧中山道を南下する。
旧街道の面影を残した家が左右に並び歩くものの目を楽しませてくれる。
古い建物は「ききょうや」、「みなとや」、「まるや」、などなど。
「4年前にもう一度来ます」とお約束した下諏訪宿歴史民族資料館は、
あいにく月曜日の定休日にあたっており、
館長さんには残念ながらお会いすることが叶わなかった。
(ききょうや)
(みなとや)
(本陣の向かいあるのは脇本陣の建物を再生した「まるや」)
(上の写真の奥の突き当たりにある「甲州道中山道の合流点」
(「みなとや」の前にある道標「左中山道」とある)
坂を下ると国道142号線に合流するが、
左手に前回紹介した「おんばしらグランドパーク」がある。
道路を右折して進み、信号を一つ越えると、
左に分かれる旧街道があるので左脇に進む。
(左側が旧中山道)
(魁塚)
100mも進むと左側に石垣に囲まれた「魁塚」がみえる。
階段を数段上ると、奥に石碑が三つ建っており、
中央の石碑には(相楽総三)の名があり、その下に七名の名が刻んである。
説明によれば、
「ここは 赤報隊長 相楽総三以下幹部八士その他の墓である。
慶応四年正月 江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒
嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが、
朝議一変その他によって賊視され、
明治三年同志によって墓が作られた。
名を(魁塚)として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴し、
草莽として維新史の上に大きく輝く人々である。」(下諏訪町教育委員会)
昭和49年の説明であるが、下諏訪教育委員会も解りにくい案内を出している。
(中央の石碑に相楽総三と刻まれその下に七名の名がある)
解りやすく説明すると、
(相楽総三以下八名は、慶応四年(1868)江戸城総攻撃のため出発した
官軍の先触れ隊で赤報隊と言った。
官軍が江戸城を攻撃し、勝利したときは、
税金を半減するとお触れを出しながら進んだ。
ところが江戸城は徳川慶喜により無血開城され、
御金蔵は空っぽでびた一文無いことが判った。
国民を味方につける意味で税金を半減するといったが、
新政府には数万両と当てこんでいた幕府の御金蔵にお金が無いため、
税金の半減はおぼつかない。
そこで税金の半減を触れて進んだ赤報隊を偽官軍だということにして、
処刑することにより、税金の半減の約束を無いことにした。)と思われる。
つまり相楽総三以下八名は、官軍の言うとおり税金半減を触れ回って進んだが、
新政府はそんなこと言った覚えは無い。あれは偽官軍であると、
相楽総三隊長以下八名処刑(だまし討ちに)したのである。
現代でもありそうな事件である。
上司が「こうしなさい」と部下に命令しておいて、
結果が自分に都合悪くなると、「そんなこと言った覚えが無い」と逃げ、
部下に責任をなすり付ける、どこかの偽装事件みたいなものだ。
昔も今も人のすることは変わりない。
いや、以前このような事件があったのが、
連綿と受け継がれてきたのかもしれない。
それを知った相楽総三の孫が生涯をかけて、
祖父の無念を晴らそうと政府に呼びかけ、
昭和天皇即位に伴う御大典により、
(即位の儀式など、お祝いのときは罪人に恩赦が与えられた。)
恩赦だけでなく、総三には正五位(格段に優遇された位階)の位が授与されました。
処刑された人は、位階なぞ貰ってもしょうがないと思われるが、
汚名だけは晴らすことができた。
明治新政府が出来るまでは、
いろいろ不条理なことが起きているようである。
(陶板のレリーフは、文化二年(1805)の木曽名所絵図に描かれた諏訪宿の情景)