(龍雲寺とその山門)
(岩村田宿)
小田井宿より岩村田宿までは4,5kmしかなく距離は短い。
岩村田宿の北の入り口に当たる住吉神社からすぐ先の龍雲寺までは
数百メートルしかない。
入り口はいかにも古めかしい山門がひかえており、山門の変額の文字の
金色もさび付いているのではないかと思われるほど骨董品の風格を持っている。
「東山法窟」と書かれた文字は、
人皇百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅額という。
(東山法窟の扁額)
さらに龍雲寺について、佐久市観光協会によれば、
(甲斐の国主武田信玄が信濃の経略が一段落した永禄三年(1560)
中興の開基となり、北高全祝禅師を迎え興隆を計った。
1.武田信玄の遺骨が霊廟に安置されている。
(昭和六年五月二十九日境内で遺骨発見)
2.武田家三代(信虎、信玄、勝頼)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。
3.信玄が上洛の折、必勝千人法憧(多数の僧が道場に籠もって行われる宗教的行事)を
元亀3年(1572)4月~7月にかけて執行した。
4.武田文書を中心に38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。
由緒あるお寺である。)という。
(天守閣のように見える山門)
(武田菱が四つ並んで見える)
参道から見ると、左手に古色な山門がお城の天守閣のようにそびえて見える。
山門には武田菱が四個並んで、その奥に本堂が見える。
本堂に手を合わせ、その右手を見ると、信玄公霊廟の文字が見え、
両側に参道と刻んだ石柱がある。信玄廟の入り口がある。
奥を見ると林がうっそうとしており、通路を進むと左手に墓石があり、
手前に風林火山の看板の下部に「信玄公遺骨出土の地」と書かれている。
昭和六年に発見とあるが、どのように信玄であると特定したのであろうか?
DNA鑑定も可能であるが、信玄の持ち物に付着したものから採取したDNAと
遺骨が同じDNAであったのであろうか?
霊廟には武田菱の家紋が刻まれていた。これは山門の家紋と同じものであった。
(信玄公霊廟入り口と両側の参道の石碑)
(信玄のお墓)
(遺骨出土の地の看板)
(霊廟1.奥に見えるのが本堂)
(霊廟2.山門にあったのと同じ武田菱がある。)
戦時中であったので、信玄の死亡は、ひた隠しに隠されていたため、埋葬された場所が定かでない。
ここ龍雲寺で信玄公の遺骨が発見されたとき、一緒に出土した象牙の袈裟の環に
「大壇越信玄公、干時天正元年酉年4月12日於駒場卒、
戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記帳されていた。
その意味は、(ボクの勝手な現代語訳)
(大信徒、信玄公は天正元年(1573)4月12日、駒場にて死亡、戦時中のため、
遺骨を○(ここに)に納める。北高和尚は地に頭をこすり付けて拝むこと百回に及ぶ。)
信玄終焉の地として駒場の長岳寺説が有力な根拠となっているが、
どこまで真実か判らない。
境内に入ったとき、妙齢のご婦人と三歳ほどのお嬢ちゃんが遊んでいた。
ボクが山門に入ると「こんにちは」と挨拶をされた。
上州から信濃に入って、どこでも顔を合わすと人は必ず挨拶をされる。
とても気持ちがよい。
都会に住むボクは隣の人と顔を合わしても挨拶したことがなかったが、
以後は、きちんと挨拶することにしている。
話を戻す。
ボクが信玄廟を覗くと、お嬢ちゃんが珍しげに後についてきたが、
母親に止められ、信玄廟入り口を行ったりきたりして、
ボクの行動を見ている。信玄廟を観て、入り口に戻ると
まだその女の子が歩いている。その姿と廟の入り口との関係で
絵になる構図になったので思わずカメラのしゃツターを切った。
どう感ずるかは、それぞれであるが、その絵をご覧ください。
(女の子の遊ぶ姿)
さて、山門を出て、親子に「バイバイ」を言って別れ、
参道を抜けて通りに出て少し歩くと、先ほどの親子にまた出会った。
どこかに抜け道があるらしい。
もう一度「バイバイ」と手を振って別れる。
中山道は岩村田の繁華街の商店街に入っていくが、
手前の信号「岩村田」から右側の先を見ると、大きなお寺の屋根が見える。
これが武田信玄開基という西念寺で内藤氏の菩提寺である。
岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。
(「岩村田」の信号)