中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

龍雲寺(旧中山道を歩く 119)

2007年09月26日 08時10分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(龍雲寺とその山門)


(岩村田宿)
小田井宿より岩村田宿までは4,5kmしかなく距離は短い。
岩村田宿の北の入り口に当たる住吉神社からすぐ先の龍雲寺までは
数百メートルしかない。

入り口はいかにも古めかしい山門がひかえており、山門の変額の文字の
金色もさび付いているのではないかと思われるほど骨董品の風格を持っている。

「東山法窟」と書かれた文字は、
人皇百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅額という。


(東山法窟の扁額)

さらに龍雲寺について、佐久市観光協会によれば、
(甲斐の国主武田信玄が信濃の経略が一段落した永禄三年(1560)
中興の開基となり、北高全祝禅師を迎え興隆を計った。
1.武田信玄の遺骨が霊廟に安置されている。
  (昭和六年五月二十九日境内で遺骨発見)
2.武田家三代(信虎、信玄、勝頼)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。
3.信玄が上洛の折、必勝千人法憧(多数の僧が道場に籠もって行われる宗教的行事)を
  元亀3年(1572)4月~7月にかけて執行した。
4.武田文書を中心に38通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。
由緒あるお寺である。)という。


(天守閣のように見える山門)


(武田菱が四つ並んで見える)

参道から見ると、左手に古色な山門がお城の天守閣のようにそびえて見える。
山門には武田菱が四個並んで、その奥に本堂が見える。
本堂に手を合わせ、その右手を見ると、信玄公霊廟の文字が見え、
両側に参道と刻んだ石柱がある。信玄廟の入り口がある。
奥を見ると林がうっそうとしており、通路を進むと左手に墓石があり、
手前に風林火山の看板の下部に「信玄公遺骨出土の地」と書かれている。
昭和六年に発見とあるが、どのように信玄であると特定したのであろうか?
DNA鑑定も可能であるが、信玄の持ち物に付着したものから採取したDNAと
遺骨が同じDNAであったのであろうか?
霊廟には武田菱の家紋が刻まれていた。これは山門の家紋と同じものであった。


(信玄公霊廟入り口と両側の参道の石碑)


(信玄のお墓)


(遺骨出土の地の看板)


(霊廟1.奥に見えるのが本堂)


(霊廟2.山門にあったのと同じ武田菱がある。)

戦時中であったので、信玄の死亡は、ひた隠しに隠されていたため、埋葬された場所が定かでない。
ここ龍雲寺で信玄公の遺骨が発見されたとき、一緒に出土した象牙の袈裟の環に
「大壇越信玄公、干時天正元年酉年4月12日於駒場卒、
戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記帳されていた。

その意味は、(ボクの勝手な現代語訳)
(大信徒、信玄公は天正元年(1573)4月12日、駒場にて死亡、戦時中のため、
遺骨を○(ここに)に納める。北高和尚は地に頭をこすり付けて拝むこと百回に及ぶ。)
信玄終焉の地として駒場の長岳寺説が有力な根拠となっているが、
どこまで真実か判らない。

境内に入ったとき、妙齢のご婦人と三歳ほどのお嬢ちゃんが遊んでいた。
ボクが山門に入ると「こんにちは」と挨拶をされた。
上州から信濃に入って、どこでも顔を合わすと人は必ず挨拶をされる。
とても気持ちがよい。
都会に住むボクは隣の人と顔を合わしても挨拶したことがなかったが、
以後は、きちんと挨拶することにしている。

話を戻す。
ボクが信玄廟を覗くと、お嬢ちゃんが珍しげに後についてきたが、
母親に止められ、信玄廟入り口を行ったりきたりして、
ボクの行動を見ている。信玄廟を観て、入り口に戻ると
まだその女の子が歩いている。その姿と廟の入り口との関係で
絵になる構図になったので思わずカメラのしゃツターを切った。
どう感ずるかは、それぞれであるが、その絵をご覧ください。


(女の子の遊ぶ姿)

さて、山門を出て、親子に「バイバイ」を言って別れ、
参道を抜けて通りに出て少し歩くと、先ほどの親子にまた出会った。
どこかに抜け道があるらしい。
もう一度「バイバイ」と手を振って別れる。

中山道は岩村田の繁華街の商店街に入っていくが、
手前の信号「岩村田」から右側の先を見ると、大きなお寺の屋根が見える。
これが武田信玄開基という西念寺で内藤氏の菩提寺である。

岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。


(「岩村田」の信号)



小田井宿から岩村田宿へ(旧中山道を歩く 118)

2007年09月21日 08時41分36秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(下の問屋跡)

(小田井宿3)
前回は小田井宿の本陣に造られた大用所・小用所が、
畳二畳敷きであることから、いろいろ考えたことを書き述べた。

この小田井宿の町の長さが、記録では約800mであるから、
町としては小さなものであるが、古きよき時代の建物の保存が
良く行き届いている。本陣と上の問屋を後にして進むと、
南側に脇本陣跡があり、続いて下の問屋跡が並んでいる。

しかし、町は寂しげで人通りもなく、やがて左側の家の板壁に、
今にもはがれそうな「小田井下宿」の住居表示が、
町の侘しさを増幅している。
住居表示を過ぎたすぐ先の道路脇に、道祖神、馬頭観音などの
石造群が夏草に囲まれて建っている。


(下宿の住居表示)


(石造群)

旧中山道はこの先、田や畑の中を進むが、道路脇にはりんごの木が
まだ青い実をつけているのが見える。
道路はその先で国道九号線と合流し、歩道もある大きな自動車道となって、
前方のかなり先まで見渡すことが出来る。
先の方は上り坂で、大きなショッピングセンターらしき看板が
(食事ができる大型レストラン、青果物を扱うスーパーマーケット、
日曜大工の道具と材料を扱う店などなど)右手に沢山見えてくる。

右手にあるショッピングセンターがほぼ坂の頂上で、
その先に延びる道路には車が激しく行き来している。
上信越自動車道を陸橋で越え、佐久インター東の信号を越えると
道路脇にこんもりとした森が見えるが、そこは一群のお墓があり、
入り口には、千手観世音、馬頭観世音などの石造群がある。
一群のお墓は大井家先祖代々の墓が累々と並んでおり、
墓地内中央の小高い山に上には、由緒ありげなお墓がひとつある。
この辺りを納めた大井氏に縁のある人のお墓と思われる。


(千手観音など石造群)

武田信玄は佐久に進出した折、大井氏、友野氏、滋野(海野)氏らの佐久衆を破るが、
このあたり一帯は、信濃守護小笠原氏から出た地頭大井氏の勢力範囲であった。
その居城跡も近くにあるという。

町はにぎやかになってくるが、左側に住吉神社の石柱があり、
中には人の気配もなく、石の鳥居とその脇に、大きなこぶを作った
樹齢400年のケヤキがあり、木の幹は空洞で「住吉の祠」といわれているそうだ。


(住吉神社)


(鳥居の隣にある樹齢400年のケヤキ)


(貫禄のあるケヤキのこぶ、この裏側が空洞で祠になっている)

境内には二十三夜塔、御岳山座生大権現をはじめとする、八海山、三笠山の
山岳信仰を現す、石碑が並んでいる。
この住吉神社が、岩村田宿の北の入り口に当たる。


(山岳信仰の石碑)


(龍雲寺入り口の石碑)

少し進むと、同じ左側に龍雲寺の石柱があり、奥にいかにも古いお寺の門が見える。
この龍雲寺には、武田信玄の霊廟がある。



本陣家の厠(かわや)(旧中山道を歩く 117)

2007年09月13日 09時10分13秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(本陣、安川家住宅の門構え)

(小田井宿2)
トイレほど沢山の言い回しのあるものも少ない。
トイレット、レストルーム、お手洗い、手洗所、個室、化粧室、
便所、雪隠(せっちん)、後架(こうか)、厠(かわや)などなど。
そうだ、何かで読んだが、皇室では「およそよそ」と言うそうだ。隠語みたい。
まだ言い方があるかもしれない。
沢山あるのは、表現するのに厄介なシロモノであるからだ。

小学生の頃、将棋を覚えて、王将を隅に追い込んで詰めたところ、
「雪隠詰めかぁ」といわれて初めて「雪隠」と言う言葉を覚えた。

また、高校生になって、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで、
飼われた猫が、ご主人がお手洗いで大きな声で謡曲か唄か忘れたが、
高歌放吟する有様を見て、後架先生と表現している。
(まさか高歌放吟の高歌と後架を洒落た訳でもないと思うが)
そこで「後架」がお手洗いであることを知った。

その猫の名前はなんと言うか知っているか?
と友人に尋ねられたことがある。
答えに詰まって「たま」とか「みけ」とか「とら」とか「しろ」とか言っていたら、
友人いわく「お前、馬鹿だな!名前はまだ無い」が正解だよと馬鹿にされた。
よほど悔しかったとみえ、後日その友人に、
「吾輩は猫である」の最後の文章はどうなっているか知っているか?と尋ねたことがある。
「吾輩は猫である」は長い小説で、途中、中だるみがあって、興味が薄れ、
なかなか最後まで読みきる人は少ないし、仮に読みきったとしても、
終わりがおわりであるだけに、馬鹿馬鹿しくて、最後を知らない人が多いのである。

今となっては、うろ覚えであるが、猫はビールを飲んで水がめに落ちて溺れて死んでしまうが、
その時、「なんまいだ、なんまいだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といったのか?
自分の人生を笑って「あっはっは、あっはっは」と笑ったのか?
あるいは、「めでたし、めでたし」と自虐の意味をこめて言ったのか?
どうも思い出せない。どれかであろう。

話がそれてしまったが、中国を旅行して助かったのが「厠」で現されているトイレ。
公衆便所やレストランのトイレなどには、
「男厠」「女厠」と書いてあって極めて判りやすい。漢字を知っている日本人が唯一ホッとする時である。

さてなんでこんな話を持ち出したかと言うと、
小田井宿にある本陣についての説明書きに次のようなものがあったからである。

(安川家住宅 本陣跡について)
(安川家は江戸時代を通じて、中山道小田井宿の本陣を勤めた。
現在その本陣の客室部を良好に残している。
客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などは原形を留めており、
安川家の文書では、宝暦6年(1756)に大規模改築が行われたと記録がある。
湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)皇女和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
厠は、大用所・小用所共に二畳の畳敷きとなっている。御代田町教育委員会)とある。


(本陣の全景)

トイレ表現に大用所・小用所というのを忘れていたが、
それよりなによりも、厠がたたみ二畳敷きのつくりというのに驚いた。
まさか大用所の畳の上で用を足すなど、二三歳の子供でもあるまいし、
本当に用を足したものだろうか?と思った。
小用所にしても、小便を二畳の畳の上で用を足したものだろうか?
皇女和宮は子供のように可愛かったそうであるが、
まさかしゃがんで(ジョー)とやったわけではなかろう。

くだらない想像は膨らんでいくが、まさか大も小も畳の上でじかに用を足したとは考えにくい。
第一後を片付けるのに人が迷惑する。
大は紙を敷いてその上に用を足した?
いやいやお付の人が、用を足すまで桶を抱えて待っていた?
小用には、今と違って尿瓶など無いからやっぱり桶を使ったのだろう、
と考えるのが妥当のようである。
つまり、オマルの中に用を足したに違いない。

最近、上海へ旅をした。
バスで移動する間に、車窓から見える五階建ての建物。
田舎にしては、ずいぶん近代的なと思われる建物も、ガイドさんが説明では、
「エレベーターもなく、足ベーターで五階まで歩き、トイレも水洗どころかまだオマルで用を足している。」と言う。
オマルに入ったものの処理はどうしたのか、気になるところではあるが、それはさて置き、
どう考えても、二畳の和室内のトイレは、やっぱりオマルというのが妥当のようである。
御代田町教育委員会も罪な説明をしたものだ。
トイレのことだけでもこれだけ悩ませてくれる。

話を旧中山道に戻すと、
本陣家と同じ並びのその先に、高札場跡があり、
その前の道路わきに、御代田村道路原標が見える。
さらにその先に、上問屋跡(安川家住宅、町指定有形文化財)が残っており、
往時のたたずまいをうかがうことが出来る。


(御代田村道路原標)


(上問屋跡、火の見櫓の下に道路原標が見える)

貴重な建築物が良く保存されていて感心する。

ここでちょっと気になることがある。
それは上問屋が東京側にあることだ。
この時代、普通、江戸から京に上ると言った。
今まで旧中山道を歩いてきて、例えば、上の木戸、下の木戸と言うとき、
上の木戸は京都側にあり、下の木戸が東京側にある。
宿場にしてもそうだ。上宿、仲宿、下宿といえば、京都側から上、中、下と並んでいる。

それなのにどうしてこの宿場だけが、上問屋(東京側)下問屋(京都側)と逆なのなのであろうか?


(*)後日、「吾輩は猫である」を調べたところ、
  ラストは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがたい、ありがたい」であった。


「姫の宿」の小田井宿(旧中山道を歩く 116)

2007年09月09日 07時52分37秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(良く整備された小田井宿)

(小田井宿)
旧中山道を歩き始めて21日目の今日(6/13)快晴、最高気温28℃の予想。

しなの鉄道「御代田駅」を降り、踏み切りを渡り、
旧中山道がしなの鉄道でさえぎられる地点まで線路に沿って歩く。
線路と道路の間に展示してある「D51」の蒸気機関車を右に見て進むと,
左から来ている旧中山道がしなの鉄道で遮られている。

良く見ると線路をくぐる階段があり、
階段入り口には(旧中山道はここの階段を下りるとばかり)右下「塩名田」の案内看板がある。


(しなの鉄道をくぐる階段)


(塩名田は下への案内)

右→「塩名田」、左←「追分」とずいぶん親切な案内である。

階段で線路の向こう側に出ると、左右にのびる道路があり、
右に向かうとすぐ(栄町)の信号がある。
この信号でどちらへ向かったらよいのか少し思案する。
信号はY字路になっており、直進は「御代田駅」、
斜めに左に入る道が「小田井宿」に向かう道であると、
信号を渡った向こう側の分りにくいところに案内標柱があった。


(栄町の信号、根元に案内標柱が見える)


(標柱の拡大)

左に進もうとすると、道路の向こう側から、デイ・バッグをかついだ二人連れが、
地図を見ながらやってきた。どうやら京都側から中山道を歩いているようである。
彼らは中山道が線路でさえぎられているので、左右を見渡して、どちらへ進むべきか相談している。
まさか、しなの鉄道の向こう側に出るのに、小さな階段の地下道をくぐるとは予想していなかったに違いない。
教えてあげようかと思ったが、階段入り口に、「追分」こちらと階段を示す案内標柱が見えたので
(すぐにこの標柱を見つけるだろう)と思い不親切であるが、二人を見捨てて進む。

(今日は、「小田井」→「岩村田」→「塩名田」→「八幡」→「望月」と進む予定である。
時間はもう朝の10時をまわっている。少々焦り気味だ。
なぜなら、帰りは望月からバスでJR佐久平駅へ向かうのであるが、
バス乗り場が分かっていないので、時刻表の時間までに望月に行くことが出来ても、
バス停を探す間にバスは行ってしまうかもしれないからだ。
一時間に一本のバスに乗り遅れると、東京に帰る時間ははるかに遅くなってしまうからである。)

さて(栄町)の信号を斜め左に入ると、またY字路になるが、
これは今進んできた道路と同じ道幅の道路(つまり左側の道)をとる。
少し進むと案内標柱に出会い、進むべき道路が正しいことを知る。
しばらくはポツリポツリと家のある田舎の町中を抜ける道を進む。
いかにも旧家らしい白壁の長い塀に囲まれた家を見たり、(荒町上宿)と書かれたバス停を見て、
今日午後に利用するバスの停留所はこんな形をしているのかと、
見ながらかなり歩くが、特にお伝えする史跡も無い。


(信号を左折するとまたあるY字路ここは左に行く)


(案内標柱を確認し道路が間違っていないことに安堵)


(古いが大きなお屋敷)


(荒町バス停)

やがて道路標柱があり、右「塩名田10,3km」、左「追分5km」と書いてある。
追分から塩名田まで15kmほどあるから、間にある小田井宿はまもなくと元気を出して歩く。

まもなく道路案内があり、すぐ信号にぶつかる。
この信号の道路案内には直進(小田井 佐久)右(上田 小諸)とあり、
信号を渡った右角に(町史跡 中山道小田井宿跡 入口)の標柱があり、
その足元に古い地蔵様がある。


(塩名田への里程案内)


(道路案内を確かめながら進む)


(小田井宿入口の標柱)


(見知らぬ土地ではホッとするお地蔵様)

また町の案内によれば、

(小田井宿は中山道69次のうち、日本橋から22次、40里14丁(約160km)の距離にある。
軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、
皇女和宮を始めとし、宮家や公家の姫君が多く泊まったことから「姫の宿」ともいう。
本陣・問屋・旅篭等建物が現在も残っている。
街道の繁栄期の文化・文政期の文政五年(1822)の記録では、軒数199戸、人口524人を数え、
町並みは寛延元年(1748)の記録では七町23間(805m)あった。)(御代田町教育委員会)

その先の左側に、小田井宿を細かく記した案内看板があるので、看板に従って歩く。


(高札場を思わせる小田井宿の観光案内地図)


(小田井宿旧道の観光地図)

最初に、左手の奥まったところにある「宝珠院」。真言宗のお寺である。
門前入り口に馬頭観世音の大きな石塔があり、門をくぐると
町指定の天然記念物の赤松優雅に形をととのえており、
同じく天然記念物に指定された推定樹齢300年の枝垂桜が、
来る人を迎える。


(宝珠院の門前)


(馬頭観世音の碑)


(天然記念物の赤松と静かなたたずまいの宝珠院)


(樹齢300年のしだれ桜と本堂)

中山道に戻ると道路の左側を清らかな岩村田用水が流れ、
町の中央に進むと、右側に本陣、続いて上問屋、
そしてその先左側に脇本陣・下問屋と続いて古い建物が、見事に綺麗に保存されている。


(京都側から見た小田井宿、岩村田用水の清流)




分か去れの道しるべ(旧中山道を歩く 115)

2007年09月04日 09時37分01秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(昔の分か去れ、郷土資料館の写真から)


(昔の分か去れ、七つの石碑が見える)

(追分宿3)
追分宿の京都側入り口の、枡形の「つかるや」を過ぎると、
「分か去れの道しるべ」がある。


(現在の分か去れ、常夜灯の手前にある道標の石碑)

道標には、{右 従是北国海道 左従是中仙道}とあり、
常夜灯には「是より左伊勢」の字が見える。

その後ろにある子育て地蔵の台石には、
{さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿}
と刻まれている。軽井沢町教育委員会の解説によると、
「右は北国街道姥捨山の「田毎の月」でしられる更科へ、
左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である」と記されている。


(常夜塔台石の文字)


(子育て地蔵、子供を抱えている)

森羅亭万象の歌碑には、
「世の中は ありのままにそ 霰(あられ)ふる
かしましとだに 心とめねば」
平賀源内の弟子で、狂歌作者であったらしいが、狂歌の意味が解らない。
どなたかご教示願えれば幸いです。


(森羅亭万象の狂歌碑)


(勢至菩薩と奥にシルエットで見える馬頭観音立像)


(馬頭観音立像)

子育て地蔵の右奥に勢至菩薩があり、一番奥に馬頭観音立像がある。
分か去れには七つの石造があるとされるが、
七つ目は分か去れの石造群の一番手前にある道祖神。

また、子育て地蔵の台石の一番上段には、次のように記されている。
西面には「めうぎに七里、山道九里、はるなに十六里、一ノ宮十里、
三河屋、高崎に十三里、江戸に三十八里、日光に四十四里」。
南面には「小田井に一里、御嶽山に三十三里半、津島に六十七里半、
伊勢に九十二里十一町、京都に九十三里半、大坂に百七里半、金比羅に百五十里半」。
北面には「金沢に八十五里、新潟に六十六里、高田に三十四里、
戸隠山に二十三里、善光寺十八里、小諸三里半」。


(江戸38里、日光44里、三河屋の文字が見える)


(新潟66里、高田34里、戸隠山23里、善光寺18里が見える)

分か去れの道標が示すように、国道18号に沿って左に行くと、
すぐ左中山道の案内標識に出会うので、左脇の道に入る。
道路は旧街道と思われる道幅で、左右はまだ別荘が続く、
林に中を進む。やがて林が切れて両側畑の中をしばらく進むが、
これといってお伝えするような史跡も無い。 

やがて人家が増えてきて町が近いと感じるようになると、
右側に「御代田の一里塚は右に入る」の看板が見える。
看板の案内に沿って、北にわき道を少し入ると、一段高いところに「御代田の一里塚」がある。
一里塚は普通榎が植えられているが、ここでは大きな枝垂桜が植えられている。
この一里塚を見て、南に20mほど下ると、
一里塚ではないかと思われるもう一つの小山が見える。
もしそうだとすると、この小山と枝垂桜の一里塚の間に旧中山道があったと思われる。


(御代田の一里塚の枝垂桜)


(もう一つの一里塚)

(南に20mほど下ったところにある塚は、御代田の一里塚であり、
枝垂桜のある一里塚を西塚といい、何も生えていないもう一つの塚を東塚という。)(軽井沢町教育委員会)

「御代田の一里塚」を過ぎてすこし行くと、しなの電鉄の線路にぶつかる。
旧中山道はここで階段を下りて、線路をくぐることになる。
次回中山道を歩くときは、この階段を下りるところから始めよう。

道路は直角に右折しており、右手を見ると、D51の機関車が展示してある。
機関車の先に踏切があり、その先に「御代田」の駅がある。


(D51の蒸気機関車)

旧中山道を歩き始めて20日目の今日はここから、しなの鉄道で
軽井沢にそしてJR軽井沢駅から新幹線で東京に帰る。
本日歩いた軽井沢宿→沓掛宿→追分宿→御代田駅まで、
距離約28km、歩数にして4.8万歩であった。
本日(6/5)の気温 28℃ 快晴で暑かったが
軽井沢では涼しくて、一枚上着を羽織った。