中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

史跡百庚申(旧中山道を歩く 56)

2005年08月31日 08時59分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(深谷宿5)
しばらく歩くと、左側にケヤキが鬱蒼と生えているのが見える。
道路を左折すると岡廼(おかのみや)神社があるので寄ってみる。
高い立ち木に囲まれた静かな神社は、室町時代から水難除けと、
豊作を祈念して奉納される獅子舞は、
現在、町の文化財に指定されている。

(岡廼神社)

元に戻り進むと、道なりに行けば右方向へなだらかに下っているが、
旧中山道の古い木の案内は直進とあるので、案内にしたがって歩く。
すこし、直進すると道路は急角度で右折していく。
豊見坂というらしいが、坂を下り終わった左側におびただしい数の庚申塔が立ち並ぶ。
これは約140年前に造られた「史跡百庚申」で、
現在では60基ほど残っている。

(史跡 百庚申)

(百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)
が庚申の年に当たり、岡(地名)の有志十三人で計画され、
翌年の万延二年にかけて完成された。
このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した
庚申塔があり、その裏面に刻まれた十三人の氏名から、
うかがい知ることが出来る。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に
造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、
馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに
江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により
長い鎖国の夢を破られた日本国情は騒然としたもので、
民衆の生活も不安なものであった。
このような状況であったので、自然神仏に頼ろうとした
心理と万延元年(が庚申年に当たった)が重なり百庚申が
造立されたと推測される。)
(埼玉県深谷市教育委員会)

百庚申を過ぎると国道17号に出て、岡交差点で交差する。
京都側から17号線上を覗くと右旧中山道と案内看板が出ている。
中山道は何処までも京都方向からの案内がしっかりしている。
中山道も東海道も、どうやら京都三条大橋からスタートした方が判り易そうである。
そんな感じがする。

(旧中山道の案内標識)

元に戻り中山道を進むが、小山川の
滝岡橋を渡ると、本庄宿に入る。
この辺り特に記すこともなく、ただただ、ひたすら
道路を歩くことになる。




高島秋汎幽囚地(旧中山道を歩く 55)

2005年08月25日 08時58分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(高島秋汎幽囚地入り口の案内)



(深谷宿4)
中山道へ出て歩くとすぐ信号があり、信号の左角に
「高島秋帆幽囚地入り口」の石碑があるので、
信号を左折。すこし行くと右側に同じ石碑があるので右折。
左側の畑の中に石碑と案内がある一角がある。

(高島秋汎幽囚地跡)

高島秋帆は高島流砲術を創始した有名な砲術家であるが、
中傷により当地に幽囚されていた。
砲術の訓練には、江戸 板橋の徳丸が原で訓練し、
西洋流の砲術を紹介した。
後にペリー来航と共に近代兵学の必要性から、赦免になった。

徳丸が原は、昭和48年以前は広大な湿地帯であったが、
周りから埋め立てを行い、現在は東京都板橋区のマンモス団地が
林立して、その名も「高島平」と名づけられている。

中山道に戻り、しばらく行くと、右側に「曹洞宗普濟寺」がある。
ここは岡部六弥太が開いたお寺で、お墓もあるというが、
お墓は見損なってしまった。
案内に拠れば、お墓をいったん出て、
道路を北に行き、畑の中にあるというので見ておきたいものである。

(普済寺の門前)

(岡部六弥太の墓は何処にあるか解らなかったが、墓地にあった岡部家の墓で我慢してください)

やがて岡部駅入り口交差点右脇に「島護産泰神社」がある。
榛沢郡の総鎮守で安産の神様。創建は東国征伐で訪れた
日本武尊と言われる。この手前に岡部藩領岡下村の
高札場があったとされる。

(高札場があったとされる島護産泰神社)

(神社の境内、地方の神社の境内はよく整備されていて、とても奇麗)



史跡平忠度の墓と岡部六弥太(旧中山道を歩く 54)

2005年08月20日 08時56分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(東京駅と見間違うほどのレンガ造りで美しい深谷駅)



(深谷3)
深谷駅はレンガの町らしくレンガ造りで美しい。
東京駅丸の内口を思わせる駅舎である。駅を出たところに
郷土が生んだ偉人 渋沢 栄一の像がある。
駅内ギャラリーで、偶然 渋沢栄一展を催していたので入る。
栄一が親交のあった人たちの書、詩が並んでいた。

(深谷駅前の渋沢栄一像)

渋沢 栄一については、述べるまでもないが、
一時は、激しい尊皇攘夷論者であったが、
パリ博覧会に同行し、近代設備や経済制度について勉強。
その知識を元に、日本初の株式会社を作り、後に
第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京ガス、などを
設立した財界の大御所とされた。
東京の常盤橋御門脇にも渋沢栄一の像がある。

深谷駅から北北西の6km離れたところに、
生家や記念館があるので、ついでがあったら見学しよう。

中山道に出て進むと右側に、飯島印刷所があるが、
元はここに飯島本陣があった。本陣跡の案内看板が立っている。
しばらく古い格子窓のある造り酒屋の家並みを右左に見て進むと、
その先に「上の常夜灯」があり、深谷宿はここで終わる。

(本陣跡の看板と花壇)

(造り酒屋1)

(造り酒屋2)

(上の常夜灯)

さらに進み、「清心寺入り口」の案内があるところで左折。
線路を渡って正面に清心寺がある。正門左手に
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。

(清心寺)

(平忠度の墓)

忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。

・行きくれて 木の下陰を 宿とせば
      花やこよいの主(あるじ)ならまし  忠度


墓の前の案内に拠れば、

岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
                 (深谷上杉顕彰会)

さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。

しばらくすると17号と交差し、その角に「滝宮神社」がある。
これから先が岡部町である。

(滝宮神社ー1498年室町時代のもの上杉憲房の所領)

中山道を行くと、右手に大きな寺院が見えてくる。
「源勝院」である。ここは家康時代の岡部藩主(安部一族)の菩提寺である。
本堂左手に12基の位牌型のお墓が並んでいる。
その左奥に岡部神社が見える。
ここは岡部六弥太が祈願所といわれ、岡部藩主の安部一族は
当社を崇拝し、代々祈願所としたといわれる。

(源勝院の入り口)

(安部一族の十二基のお墓。この左手に岡部神社がある)

(岡部六弥太が戦勝祈願したといわれる岡部神社)








童謡「みかんの花咲く丘」(旧中山道を歩く 53)

2005年08月05日 08時55分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(みかんの花咲く丘歌碑)


(深谷宿2)
深谷宿にはみかん畑がないのに、どうして
童謡「みかんの花咲く丘」の誕生地があるのか不思議に思った。
作詞者 加藤省吾歌碑によれば、戦争で疎開してきた作者が、
静岡県の郷里に思いを馳せて創ったとあり、納得した。

(「みかんの花咲く丘」誕生地の標柱)

冨士浅間神社には、深谷城の外堀が残されている。
神社を出て右を見ると、深谷城址の石垣が見える。
「深谷城址公園」であり、隣が深谷市役所である。

(冨士浅間神社)

(深谷城外堀跡)

(深谷城址の石垣が美しい)

深谷城は、上杉房憲が古河公方との戦いで
康正2年(1456)築城し、秀吉の関東攻略により、
天正18年(1590)落城した。
江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、
寛永11年(1634)廃城になった。
(深谷上杉顕彰会による)
城址公園を抜けて、西側の道路をJR熊谷駅のほうに歩くと、
国道17号線にでるが、交差点の手前に
「笛を吹く武者」の像があり、煉瓦の町らしく、
レンガのモニュメントが美しい。

深谷と云えば深谷ネギを思い浮かべる人が多い。
かく言うボクもその一人である。
以前は国道17号を車で走ると、沿道に深谷ネギを沢山並べて販売していた。
時折、購入していたが、四人家族ですき焼きにして、
ネギを沢山入れて、子供たちに嫌われた記憶があるほど、
安くて量が多かった。
しかし、深谷は渋沢栄一を生み、氏が日本初のレンガ工場を設立。
日本を代表するレンガ造りの町であった。

(笛を吹く武者とレンガのモニュメント)

17号を右折して、最初の道を左折しさらに左折すると、
「三高院」(地図などの案内には三光院とある)
という小さなお寺があるが、
ここは浄土宗の名刹で「大翁山浄安寺」という。
徳川家康の甥で25歳の若さで亡くなった深谷城主
松平康直の墓があることで知られる。

(三高院の門前)

(家康甥の康直の墓)

(墓の脇にある説明碑)

康直の墓は本堂の殆ど真裏に設置されているが、
期待するほど立派でないので見落としそうである。

「三高院」を出て、JR深谷駅に向かう。





「見返り松」と「祖英塚」(旧中山道を歩く 52)

2005年08月01日 08時53分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(見返り松の碑)



日本橋をスタートして11日目(‘04.11.06.)

(深谷宿)
熊野神社を過ぎて、中山道を歩くと道は幹の太い
ずんぐりむっくりのイチョウ並木が続く。

銀杏並木やところどころにある松並木を見上げて、
昔を思い浮かべながら歩くと、国道17号線と交差する。

交差点手前角に一本の松ノ木と石碑があり、石碑には
「見返りの松」とある。往時はここで旅人が深谷宿の女郎と
別れたところと言われ、この松のある辺りで見返り見返り、
別れを惜しんだとされる。

(銀杏並木)

(松並木)

(右側の松が見返りの松で根元に、表題の「見返りの松」の石碑がある。)

(見返り松の碑)


17号線を左折して数百メートル左手に、国済寺がある。
ここは臨済宗南禅寺派の寺院で、康応2年(1390)に
深谷城主上杉憲英が創建し、当時は8万坪の広さを誇った。
今でも境内は鬱蒼とした木に囲まれ、その中に本堂はある。
ボクが訪ねた時は、残念ながら本堂は改装中で全貌を見ることは出来なかった。
なお、黒門は市の文化財になっている。

(上杉憲英が創建の国済寺)

(深谷市指定文化財の黒門)

見返りの松まで戻り、信号を左折、中山道を行くと、
銀杏並木が途切れる頃、右側に常夜灯がある。
高さ4メートルの常夜灯は深谷宿 東入り口の目印。
京都方向から見れば深谷宿の終わりの印となる。
(白い棒が目立つが、その後ろにある常夜灯)

(常夜灯)

さらに進むと「大政(だいまさ)」と言う古い米屋さんの
前を通る。並びには大きな蔵があり、往時には
かなり手広く米屋を営んでいたことを物語っている。

(古くからのお米屋さんの「だいまさ」隣に続く土蔵群がものをいう)

(だいまさの土蔵)

その先にすぐ唐沢川を渡るが、懸かっている橋を行人橋といい、
石碑に拠れば、元禄2年(1689)に通行が激しくなったので
架けたという。
次の信号を右折すると左側に東源寺があるが、
門前向かって右側に「祖英塚」と書いた石がある。

この碑は、文化二年(1805)にでた「木曽路名所図絵」に
「観音堂 深谷にあり、一本の柳のもとに菊図坊(きくとぼう)の
碑あり、その銘に曰く、我れ、仏法に入りて風雅をさとり、風雅を悟りて仏法を悟る。

・死ぬことを 知って死ぬ日や としのくれ  菊図坊」

と記されている。

菊図坊は加賀の国出身の俳人である。
江戸時代の中ごろ、深谷宿中町の脇本陣杉田家に四五年滞在し、
近隣の俳人を指導したとある。
(深谷上杉顕彰会による)

(行人橋)

(東源寺。門の右側に祖英塚はある)

(菊図坊の祖英塚)

この東源寺を出て、塀に沿って右折ししばらく行くと、
童謡「みかんの花咲く丘」誕生地は右、
の案内標があるので、右に行く、線路のガードをくぐっていくと、
「冨士浅間神社」に出る。