(深谷宿5)
しばらく歩くと、左側にケヤキが鬱蒼と生えているのが見える。
道路を左折すると岡廼(おかのみや)神社があるので寄ってみる。
高い立ち木に囲まれた静かな神社は、室町時代から水難除けと、
豊作を祈念して奉納される獅子舞は、
現在、町の文化財に指定されている。
(岡廼神社)
元に戻り進むと、道なりに行けば右方向へなだらかに下っているが、
旧中山道の古い木の案内は直進とあるので、案内にしたがって歩く。
すこし、直進すると道路は急角度で右折していく。
豊見坂というらしいが、坂を下り終わった左側におびただしい数の庚申塔が立ち並ぶ。
これは約140年前に造られた「史跡百庚申」で、
現在では60基ほど残っている。
(史跡 百庚申)
(百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)
が庚申の年に当たり、岡(地名)の有志十三人で計画され、
翌年の万延二年にかけて完成された。
このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した
庚申塔があり、その裏面に刻まれた十三人の氏名から、
うかがい知ることが出来る。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に
造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、
馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに
江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により
長い鎖国の夢を破られた日本国情は騒然としたもので、
民衆の生活も不安なものであった。
このような状況であったので、自然神仏に頼ろうとした
心理と万延元年(が庚申年に当たった)が重なり百庚申が
造立されたと推測される。)
(埼玉県深谷市教育委員会)
百庚申を過ぎると国道17号に出て、岡交差点で交差する。
京都側から17号線上を覗くと右旧中山道と案内看板が出ている。
中山道は何処までも京都方向からの案内がしっかりしている。
中山道も東海道も、どうやら京都三条大橋からスタートした方が判り易そうである。
そんな感じがする。
(旧中山道の案内標識)
元に戻り中山道を進むが、小山川の
滝岡橋を渡ると、本庄宿に入る。
この辺り特に記すこともなく、ただただ、ひたすら
道路を歩くことになる。
しばらく歩くと、左側にケヤキが鬱蒼と生えているのが見える。
道路を左折すると岡廼(おかのみや)神社があるので寄ってみる。
高い立ち木に囲まれた静かな神社は、室町時代から水難除けと、
豊作を祈念して奉納される獅子舞は、
現在、町の文化財に指定されている。
(岡廼神社)
元に戻り進むと、道なりに行けば右方向へなだらかに下っているが、
旧中山道の古い木の案内は直進とあるので、案内にしたがって歩く。
すこし、直進すると道路は急角度で右折していく。
豊見坂というらしいが、坂を下り終わった左側におびただしい数の庚申塔が立ち並ぶ。
これは約140年前に造られた「史跡百庚申」で、
現在では60基ほど残っている。
(史跡 百庚申)
(百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)
が庚申の年に当たり、岡(地名)の有志十三人で計画され、
翌年の万延二年にかけて完成された。
このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した
庚申塔があり、その裏面に刻まれた十三人の氏名から、
うかがい知ることが出来る。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に
造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、
馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに
江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により
長い鎖国の夢を破られた日本国情は騒然としたもので、
民衆の生活も不安なものであった。
このような状況であったので、自然神仏に頼ろうとした
心理と万延元年(が庚申年に当たった)が重なり百庚申が
造立されたと推測される。)
(埼玉県深谷市教育委員会)
百庚申を過ぎると国道17号に出て、岡交差点で交差する。
京都側から17号線上を覗くと右旧中山道と案内看板が出ている。
中山道は何処までも京都方向からの案内がしっかりしている。
中山道も東海道も、どうやら京都三条大橋からスタートした方が判り易そうである。
そんな感じがする。
(旧中山道の案内標識)
元に戻り中山道を進むが、小山川の
滝岡橋を渡ると、本庄宿に入る。
この辺り特に記すこともなく、ただただ、ひたすら
道路を歩くことになる。