(上問屋 手塚家)
(奈良井宿3)
日本橋から,今まで歩いてきた中山道の宿場は33を数えるが、
問屋が姿を残しているところは数少ない。
きちんと残っていたのは、小田井宿の上と下の問屋であったと記憶している。
そんな数少ない問屋がここ奈良井宿に残されている。
さすが奈良井の重要伝統的建造物群保存地区と言える。
その上問屋は手塚家住宅といって、その住居の中を解放しているので、是非見学したい。
見学料 ¥200也
(玄関)
中山道の宿場には幕府の役人や大名その他の旅行者用として、
幕府の定めた一定数の伝馬と人足を常備して、旅行者の需要に応じていた。
中山道は宿場ごとに、馬50匹、人足50人を備える定めであった。
しかし山道を控える、和田宿や奈良井宿は25匹25人による交代でよろしいということになっていたようだ。
この伝馬と人足の管理運営していたのが問屋であり、
贄川からの荷物と薮原からの荷物を、それぞれ継ぎ立てる仕事を請け負っていた。
奈良井宿には上と下に問屋があり、一ヶ月の半分を交代に請け負っていた。
上の問屋の手塚家は、慶長年間から明治維新まで270年間、
継続して問屋を勤め、庄屋を兼務していた。(庄屋とは関東では名主と言う)
その長い年月の間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示している。
(奥の座敷)
(中庭)
(見事に手入れされた廊下)
(天皇がいた上段の間)
(応挙の虎?に似ている)
建物は間口こそ狭いが、奥行きが長く建坪約100坪(入り口の案内人談)とのこと。
明治天皇が御休憩された上段の間、座敷、居間、廊下、中庭などが、
良く手入れされて残っている。
また展示品としては、古文書100余点、陶器・磁器、書、絵画他300余点展示されており、
中山道関連を調べる人には貴重な資料館といえる。
(中村邸)
もう一軒。
旧中山道の街並みを進むと右手の上町に位置する、
漆塗りの飾り櫛屋、中村邸がある。
この中村邸は、江戸時代の櫛や中村利兵衛の屋敷で、
塩尻市指定有形文化財として公開されている。入場料¥200なり。
(中村邸から見た奈良井宿)
くぐり戸を開けてはいると、土間になっており、裏庭まで続いている。
裏庭の向こうに土蔵があり、そこは漆塗りをした作業場であるという。
くぐり戸を入ったすぐ右手が往時は「店の間」で、
中にガイドさんがいて、約十分間説明があり、
一階と二階部分を見学できる。
「店の間」の次には囲炉裏、板敷きの部分があり居間であろうと想われる。
その先に「中の間」があり、その奥に床の間がある座敷になっている。
座敷の上の二階は使用人の部屋であったと説明があった。
その二階には資料と塗り櫛が展示されていた。
塗り櫛の工程順に櫛が置いてあり、
出来上がった飾り櫛は螺鈿がちりばめた綺麗なものであった。
展示されている資料の中で驚いたのは、
この飾り櫛には特許許可証が付いていたことである。
特許許可証を見るのも初めてで、いつの時代の特許か良く見なかったが、
こんなものにも特許が許可されることに自体に驚いた。
見学を終えて、外へ出る段になって、ガイドさんが
「出口の庇をご覧ください。猿の頭をかたどった鎧庇で、
吊り金具が取り付けてあります」という。
(中村邸一階部分のつり金具がついた鎧庇)
(鎧のように見える庇の拡大)
(つり金具がついた庇が猿頭に見えるかな?)
(猿頭にやっと見える?)
外に出て庇を見るとそういわれれば猿頭(さるがしら)の庇に見える。
これが二階の格子とあわせて奈良井宿の町家の代表的建築になるという。
奈良井の伝統的建造物群の一つ一つを見て歩くと、とても一日ではとても足りない。
もう一度訪ねる必要がありそうだ。
帰りのバスの時間に近くなったのでバス停に戻る途中、
わずかな時間を割いて「五平餅」を買い求め、お店のなかで戴いた。
わざわざお茶を入れて接待されたのに感謝、感謝!
生まれて初めて食べた「五平餅」、
もとは五平さんが作ってお弁当代わりに食べたものであろうか?
勝手な憶測をしながら頬張った「五平餅」が、
夕闇が迫る奈良井宿でとても美味しく感じた。
贄川宿から奈良井宿まで歩き、
PM16:13発の地域振興バス(¥100なり)に乗って塩尻駅に向かい、
塩尻駅PM17:27発新宿行きに乗り帰宅。
本日の歩行34千歩、距離にして約20kmであった。
(夕暮れ)
(追記)
この後、中山道の三大難所といわれる鳥居峠が控えているが、
季節は冬 天候に悩まされ、雪に寒さに圧倒されて、
進むことかなわずにいます。
この続きは来春雪解け後の新緑の季節にしたいと考えています。