中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

和泉式部廟所(旧中山道を歩く 235)

2011年03月29日 10時06分12秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(和泉式部廟所)

(御嵩宿 3)
「和泉式部廟所」右への案内に沿って進むと、
家の裏手すぐに、その廟所はある。

和泉式部は平安時代の三大女流作家の一人で、
第一は「源氏物語」を書いた紫式部、
もう一人は「枕草子」を著した清少納言である。
それでは和泉式部は何を書いたの?といわれると、
歴史にうといボクには思い出せない。

廟所には、
(和泉式部は、平安時代を代表する女流文学者の一人といわれ、
和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、
恋多き女性としても知られています。
波乱の人生を歩んだ彼女は、
心の趣くままに東山道をたどる途中、
御嵩の辺りで病に侵されてしまい、
鬼岩温泉で湯治していましたが、
寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。

廟所には、
・一人さへ 渡れば沈む 浮き橋に あとなる人は しばしとどまれ

と言う歌が刻まれています。)(御嵩町)とある。

先に書いた紫式部は、和泉式部について(恋文や和歌は素晴らしいが、
素行には感心できない)と紫式部日記に酷評している。
それに説明では、寛仁3年(1019)没となっているが、
万寿2年(1025)娘の古式部内侍が死去した折には生存していたことから、
寛仁3年(1019)死去は、どうも説明が付かない。

紫式部に素行は感心できないとまで評された和泉式部、
恋文や和歌は素晴らしい、といっている。
えてして文学者なるものは、
普通の人が体験できないような体験をするから、
他人には判らないような異次元の体験が出来るのかもしれない。

話は全く変わるが、
「夜明け前」の名作や「初恋」などの詩を書いた島崎藤村も、
残された資料や原稿を見ると、
非常にまじめで几帳面な性格の持ち主で、
倫理観もさぞ優れていると、
藤村の研究者は口をそろえて言うが、
教師の時代に教え子との間に起きた性的関係や、
藤村の兄 広助(妻籠本陣へ養子に入る)の娘との間に子供をもうけ、
妊娠を知るやフランスへ逃げてしまうような無責任な男で、
人間としてあるまじき事で、ボクは許すことが出来ない。
「初恋」の対象となった隣家の「おゆうさん」との間も、
その詩の奥を考えれば、世間に自慢できるものではない。
如何に良い優れた小説を書こうと、
人格的には、この男をボクは好きになれない。

話が変な所へ反れてしまったが、
ボクが言いたいことは、
一流の作家は別次元の感覚を持っており、
普通、人が感じ得ないことを感じているように思える。
しかし、それを肯定することが出来ないのが普通の人であろう。

そんな人が和泉式部という女性なのであろう。
しかし、これはこの時代の人の考えであるから、
現代人が和泉式部を見たら何だこの人はと、
良い意味で目を見張ったかもしれないのだ。

さて、話を戻すと、
三体の地蔵尊に見守られて、静かにたたずむ和泉式部は、
あの世から「好きなように解釈してよ」、
と微笑んでいるのかもしれない。

道路を西に進むと、
右手に「村社 八幡神社」の石柱が見える。
石柱のはるか奥には、石の鳥居が見えることから、
南無八幡大菩薩が鎮座していることがうかがえる。

さらに進むと左手に正一位稲荷神社の赤い鳥居を見て、
案内書どおり「丸山稲荷を見て左へ進む」の言葉どおり進むと、
大間違い、現在道路は工事中で21号線バイパスが、
左方向へ出来上がっているからである。


(和泉式部廟所)


(和泉式部廟所脇の三体の地蔵尊)


(八幡神社の石標)


(お稲荷さんの赤鳥居)

広い道路、国道21号線に出たら、道路右側を歩くことをお勧めする。
稲荷神社の赤い鳥居を左に見たら、そこで右手に入っていくのが正しい。
どちらかと言うと、バイパスに対して旧道を直進して進む形になるが、
これが正しい。

やがて左手に松ノ木が生えており、その陰に道標がたっている。
「右御嵩宿」「左細久手宿」とある場所を左折する。
よく見ると左折前方にも、左折した所にも「中山道」の矢印があるので、
見落とさないようにして欲しい。


(県道341号線の左側の松ノ木に隠れるように石標はある。)


(松ノ木に隠れるようにしてある石標)


(中山道の矢印を見落としてはならない)

道路は右にカーブし、次いで左へ、、そしてもう一度右にカーブする。
その左角にバス停(御嵩公民館)がある。
右に曲がったら突き当たるまで進もう。
突き当りが「御嵩駅」で、駅入口に「御嵩観光案内所」があり、
右側に、手前から「御嵩宿商家竹屋」、「御嵩宿本陣」、
「中山道みたけ館」、
「大寺山願興寺」が並んでいる。

しかし時間にして16時で、ボツボツ暗くなり始めたので、
今夜の宿泊場所、可児市(かにし)のホテルに向うことにする。
電車は16:29発 新可児駅(しんかにえき)着16:45 ホテル着17時。


本日(11/29)の歩行52163歩、約31kmであった。

(右に左に道路は曲がる)


(右折する左角にあるバス停)


(バス停は「御嵩公民館」)


(宿場らしい街並み)


(宿場らしい街並み2)


(願興寺の門前)













牛の鼻欠け坂(木曽路に向って登り坂道の始まり)(旧中山道を歩く 234)

2011年03月21日 11時56分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(謡坂の石畳)


(右御殿場)

(御嵩宿 2)
枯葉に覆われた謡坂の石畳を下ると、「右御殿場」の石標があり、
右に入る通路がある。
脇に

・撫し子や 人には見えぬ 笠の内  (子規)

の句碑がある。

また脇にマリア像の矢印もあるのでそちらへ行ってみる。
道路を出たところは、広い道路に面しており、脇に
マリア像が建立されている。
マリア像の裏側に、沢山の小さな五輪の塔が並んでいるが、
説明によると、道路工事中に発掘されたものと言う。
五輪の塔よりもその下にあった石に十字が書かれた石が多数発掘され、
これが十字架を表わし、キリシタン信仰の遺物と思われた。


(子規の歌碑)


(マリア像左の案内)


(マリア像を後から建立した)


(マリア像の後ろにある五輪の塔)


(マリア像の後ろにある五輪の塔2)

しかし、以前隠れキリシタンについて調べたことがあるが、
ハッキリした決め手に欠けることが判っている。
だから、これも隠れキリシタンの証拠となる決め手には、
どうも欠ける臭いがする。
だからかどうか分らないが御嶽町教育委員会が取り上げていない。
ただ観光のための
「隠れキリシタン」だと思っていたほうが話題性に富むので、
話をキリシタンにしたのだと思われる。

その証拠に教育委員会がキリシタンの説明をしていない。
説明をしているのは観光協会である。
(昭和59年三月謡坂地内で、道路工事中に、
たまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました。
その後の調査で 小原、西洞、謡坂地内で、
数多くの貴重な遺物が相次いで発見され、
この地に多くのキリシタン信者がいたことが判明し、
歴史上大きな資料となりました。
幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、
ある期間信仰が続けられたのは、
奇跡であると思われます。――後略)(御嵩町観光協会)

その他、奈良井宿のマリア地蔵、
全国にあるキリシタン灯篭(織部灯篭)など、
どれもキリスト教の信仰としての確かな証拠はない。
話を隠れキリシタンにすると、確かに納得がいく面もあるが、
その道の専門家によれば、確かな証拠は無く、
すべてこじ付けであるという。


(謡坂石畳の終り)


(小さな橋を左折)

話は戻って、謡坂の石畳は終り、
渓流を越え、小さな橋を越えて広い道路に出る。
旧中山道の案内は、左をさしており左に向って坂を下る。
ぐんぐん坂を下ると右側の岩に張り付くようにして、
「耳神社」がある。

説明によれば、
(全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益がある神社です。
平癒の願いをかけ、お供えのキリを一本かりて耳に当てます。
病気が平癒したらその人の歳の数だけキリをお供えしました。
キリは本物でなく竹で作ったものでも良く、――中略――
元治元年(1864)竹田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、
耳神社の幟を敵の布陣と思い、
刀を抜いて通ったと伝えられています。)(御嵩町 西洞)


(耳神社)

道路はさらに下るが、途中右に入る道があり案内もあるので右折する。
右折してしばらくすると、道はY字路となり右の方向に進む。
「牛の鼻欠け坂」と名づけられた坂に入っていく。
名前どおり歩く牛の鼻が地面に擦れて欠けてしまうほど急な坂道が続く。
江戸側からは少し登り、すぐ下り道になるが、その急なことは、
杖でもないと降りられないほどである。
京都側からは急な上り坂で、
「牛の鼻欠け坂」とは名づけて妙な名前の坂である。

御嵩町の面白おかしい説明によれば、
(「牛坊 牛坊 どこで鼻かいた 西洞(さいと)の坂で かいた」という言葉が残るように、
ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、
荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂でした。――後略)

江戸方面から見れば、坂の降り口に一軒家が建っているが、
京都側から来れば、これから坂の始まりだぞ、
この先木曽路の坂が延々と続くから、
覚悟するようにと教えているように思われるが、
そう感じるのはボクだけであろうか・・・


(案内がある右折場所)


(綺麗なY字路を右側の道へ)


(心細くなるような枯葉の道)


(くだりの急な道)


(さらに下る道)


(坂の終りの一軒家)

その後道路はアスファルトの道路が続く。
広い通りに出たら左折、
しばらく行くと右折案内があるので、そこを右折する。
さらに左折案内にしたがって左へ行き、国道21号線にでる

国道21号線に出たら右折し、
少し行くと右手に石碑があり、
「右・中街道 中仙道大井驛へ達」と書いてあり、
 
「和泉式部廟所」右へ案内矢印がある。

(広い通りを右へ)


(中街道の石碑、後ろに和泉式部廟所の案内が見える)







謡坂(うとうざか)の石畳(旧中山道を歩く 233)

2011年03月13日 10時29分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(紅葉の下り道)


(竹薮を抜けて)

(御嵩宿)
ここから道路は下り道となる。
美しい紅葉や竹薮をみて、
「唄清水」の前を通る。
清らかな水が年中湧き出る「唄清水」は中山道を上下する旅人の疲れを癒した
であろうと想像される。

・馬子唄の 響きに浪たつ 清水かな (五歩)

と詠われた句碑が嘉永七年(1854)傍らに立っている。
(五歩とは、千村征重のことで、
久々利九人衆の一人・千村助右衛門重次の分家に当り、
日吉(瑞浪市)の南垣外(みなみがいと)
に住んでいました。)(御嵩町教育委員会)



(唄清水)


(広い通り、左手奥が「一呑の清水」)


(一呑の清水)

道路は下って広い舗装道路に出るが、
この左側に「一呑の清水」がある。
(清水は二つに仕切られ、中山道の旅人用が上に、
牛馬用が下に仕切られています。
文久元年(1861)皇女和宮が降下する際、
この清水を賞味され大変気に入ったといわれ、
後に多治見市の永保寺に滞在の際、
わざわざこの水を取り寄せて点茶されたと言います。)(御嵩町教育委員会)

広い道を、すこし下ると右手に「十本木立場跡」がある。
(宝暦五年(1756)刊の「木曽路安見絵図」にも記載あるこの十本木立場は、
もともと人夫が杖を立て、
駕籠や荷物を下ろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、
発展したそうです。――後略)
この広い道を二十メートルもいくと左の脇道に入る道路が旧中山道で、
脇道に入ると紅葉が美しく見られる。


(十本木立場跡)


(美しい紅葉、この先に一里塚)


(謡坂の一里塚、南塚が林の中に見える)



(広重画 木曽海道69次之内「御嵩」)


(広重のモデルとなった木賃宿?)

道路は右に曲がっているが、その先に塚がある。
「謡坂の一里塚跡」である。
跡と書いたのは、この一里塚は復元されたものであるからだ。
その先に元旅籠と思われる家が建っている。
安藤広重は「木曽海道69次之内 御嶽」をここで描いたといわれている。

この先は道路が下りの石畳となり、
当時の馬子が鼻歌を歌って下る気楽な道になるので、
これを「謡坂(うとうさか)」といった。

また、別の解釈では、
(この坂の登りは急なため、
旅人たちが自ら歌を歌い苦しさを紛らわしたことから、
「うたうさか」と呼ばれ、
それが転じて「うとうざか=謡坂」になったのだとも言われる。
険しく続く山道、道の上を覆うような沢山の木々、
足元に生える草花など、
謡坂の風景は今も当時の中山道の風情を
色濃く残しています。)(御嶽町)

今でも石畳は残っており、

枯葉がその石畳を覆いつくしている。

(謡坂の石畳)





鴨乃巣(こうのす)の一里塚と見晴台(旧中山道を歩く 232)

2011年03月08日 10時24分08秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(曲がりくねった土の道)


(土の道)


(秋葉坂の三尊石窟)

(細久手宿 2)
枯葉がかぶった土の道は、
すぐ登りになり、左へ右へカーブしていく。
曲がり終えた途端、右手の一段高い所に観音様がある。
秋葉坂の三尊石屈である。

一体一体が横穴の奥にあり、
右の石窟には三面六臂の馬頭観音立像、
中央に一面六臂の観音座像、
左には風化の進んだ石造が安置され、
石窟の右端に残る石灯籠の棹には、
天保十一年(1840)の銘があります。
なおここは石窟の上に秋庭様が祀られている事から、
秋葉坂とも呼ばれています。


(三面六臂の観音立像)


(一面六臂の観音坐像)


(風化した石造)


(石灯篭)

石畳なのかごろ土なのか分からない道路を曲がりくねって行くと、
左に「鴨乃巣(こうのす)道の馬頭文字塚」があり、
林の中にそれと思われる石造物が、
さらに離れた先の左側に「鴨乃巣(こうのす)辻の道祖神」と
「右 鎌倉街道」の石標がある。

やがて右側に「鴨乃巣(こうのす)の一里塚」が見える。
この一里塚は地形の関係なのだろうか、
北塚と南塚の間が十六メートルほど離れている。
江戸から91番目の一里塚である。
ここから道路は下り坂になる。


(馬頭文字塚が林の中にうっすら見える)


(鎌倉街道の道標と後ろの馬頭観音)


(北側の鴨乃巣(こうのす)の一里塚)


(南側の一里塚、手前に見えるのが北塚)


(山内嘉助の屋敷跡)

くだりに下ってその途中、石垣脇に山内嘉助屋敷跡の石碑がある。
江戸時代造り酒屋を営み、諸大名の休憩場所とした山内嘉助の屋敷跡。
城壁のような石垣が残っている。
今から想像するに、それ相応の屋敷であったに違いない。

その先で中山道の石標を過ぎ、
民家の庭先を抜けるようにして出ると、
急に町の中に出てきたように感ずる。
家が沢山並んで、道路も土道でなく、アスファルトで進む。
昔は大いに役立ったであろう常夜灯も、
畑の中にポツンとあり、
今では役立たないで置物のように建っている。


(中山道の石碑と民家の庭先の中山道)


(民家の庭先の中山道)


(畑の中の常夜灯)

やや広い道路を横切り、坂を下って別の道路に流入する。
道路は曲がりくねって、津橋の公民館前に出るが、
その先にある「歴史の道 中山道」の案内に沿って進む。
次の変則五叉路を右から二番目の道を進むと、
右側に竹薮がありこの中に観音堂があるとの事であるが、
なるほど高い場所に向う階段があり、
疲れた足では登ることもままならず、
ここはパスして前に進む。


(広い通りを横切って車の左側の道を行く)


(坂を下って別の道に合流)


(津橋の公民館前)


(バス停前の変則五叉路右から二本目を行く)


(この上の竹薮の中の観音堂があるらしいが)

道路は登り坂で、右側に人が住んでいるのかどうか判らない破れ家を見て、
なお道路を登っていく。
さらにぐんぐん登っていくと、右側に馬の水のみ場がある。
説明によれば、
(ここは物見峠といって、
道路の両側に五軒の茶屋があり、
十三峠の前後の地であれば、
往来の馬もさぞ喉が渇いたであろう。
存分に飲みなさいと、
北側の三箇所に水飲み場があった。)とされる。
確かに馬がのどを潤したであろう大きな穴が二箇所開いていた。


(人が住んでいるかいないかの破れ家)


(馬の水飲み場の穴)


(馬頭観音像)

ここが諸の木峠で、右手その先に階段があり、
その上り口に馬頭観音像がひっそりと佇んでいる。

登った所が「御殿場」で格好の見晴台になっており、、
ここからは天気がよければ、
御嶽山もアルプスも見えるとのことだが、
生憎の曇り空で見ることができなかった。
皇女和宮が江戸へ御下向の時、休憩された場所であるが、
京都の方角を見やったとされます。

ここから道路はくだり坂になる。
ここはもう御嵩宿である。


(階段を登る)


(御殿場)


(生憎の曇りで山も見えない)


(道路は下る)





細久手の大黒屋(旧中山道を歩く 231)

2011年03月02日 11時11分05秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(細久手宿高札場跡、横の通路は観音堂への道)


(見あげると観音堂がある)

(細久手宿)
旗がひらめく場所に来ると、
道端に「細久手宿高札場跡」の表札が立っている。
もと高札があった場所に相違ない。
高札があったということは、
とりもなおさず此処が村に入る外れだということだ。
この地点から道路に人家が繋っている。

少し行くと左側に細久手公民館の前に出る。
細久手宿について説明によれば、
(標高約四百二十mにあって、江戸から48番目(距離92里)
京から二十二番目(距離約42里)に位置する宿場です。
中山道の開設当初、東の大久手宿から西の御嵩宿までの
道程が四里半(17.7km)もあったことから、
尾張藩によって設置されました。
慶長十一年(1606)の開宿当初は、
七軒家と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、
慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。
――中略――
現在の街並みは安政の大火以降に形成されたものです。)とある。

この向かい側が、細久手宿の尾州家定本陣「大黒屋」がある。
名ばかり大々的に喧伝されてしまうので、
余ほど大きな旅館だろうと思ってしまう。
見るからに小さな旅籠でしかない。
しかし、古くからそのまま残っているらしく、
上段の間などが残っているとのこと。

普通本陣は一つの宿場に、一箇所あれば済むものであるが、
尾張藩の特別な宿泊所として扱われたものの様である。
安政六年(1859)に再建された古い建物は、
今は細久手宿に残る唯一の旅館となっている。
その格式をうかがうことが出来る古い旅館のようであった。


(細久手宿の町並み)


(細久手公民館)


(奥が「大黒屋」)


(大黒屋)

家が途切れる頃、右手に神社の鳥居が見える。
「村社 日吉・愛宕神社」とある。
入口に常夜灯があり、本殿は山奥にあるように見える。
入口の路上に沢山の猫が寝そべっていたのが印象に残る。
道路を進むと右手土手の上約4mの所に、「西坂の穴観音」がある。
階段があるので登ってみると、
なるほど穴の中に観音様が鎮座している。
九万九千日観音と呼ばれ、
縁日に拝むと九万九千回分のご利益があると伝えられ、
旅人からも進行を受けてきた。
さぞ多くの旅人の安全を祈願してきたことであろう。


(村社 日吉・愛宕神社)


(西坂の穴観音)


(穴の中の観音様)

すぐ先の右手に小さな社があり、「津島神社」とある。
その由来は、
(津島神社は、尾張津島神社、京都八坂神社、東京天王社の分社である。
十二世紀津島社として文献に、
また室町時代より牛頭天王社津島様と呼ばれる。
牛頭天王は朝鮮新羅の牛頭山の神、
インド祇園精舎の守護神、地獄の忿怒鬼神の変化等と考えられるが、
本来防疫の大神である。
牛頭天王が旅に飢え、金持ちの巨里将来に宿を乞うたが断られ、
弟の蘇民将来に迎えられて、
藁の布団にアワの飯をご馳走になる。
その礼に与え、
旅の災いと厄介が発生してもこれを持っているものは助かると告した。
以来この護符を「蘇民将来」と呼び,
厄病除けは勿論交通安全の護符として進行される。
「蘇民将来」の希望者は細久手宿の郵便局へ)と書いてある。


(津島神社)

回り道をしてしまった。
前に進むと道路は端に(旧中山道くじ場跡)の石碑が建っている。
これはその昔、富くじの抽選会場であった場所とのことである。
山の中の楽しみは、博打か富籤しかなかった様で、
ここがその籤の抽選場所であった。

道路は登り坂で左に(旧中山道)の案内看板を見て、
林の中を右回りに抜けていくと、
人家の多い場所に出てくる。
左からくる国道に合流し、見落としそうな橋、「平岩橋」を渡る。
橋げたに「中山道」と入っており、やっと中山道であることがわかる。
川は山の中のためか水が綺麗で、
流れはさほど無い。


(道路は直進する)


(中仙道くじ場跡)


(山の中の馬頭観音様)


(広い道路に合流する)


(見落としそうな平岩橋を過ぎると急な上り坂)

先に進むと急な上り坂でうねっているが、
少し進むと道路は右に曲がる。
曲がる入口に、「左 中仙道西の坂」の石碑が建っている。
旧中山道はここから曲がることを意味している。
右側に別のもう一つの石碑が建っている。
その石碑には、これから先の道路は、
昔の中山道のままで、
どこにも手を加えていない旨細々と刻まれている。


(左に折れる道)


(左に折れた右角に「中仙道西の坂」の碑)


(左側にあるもう一つの石碑)

落ち葉の積った道路は、
その表面が土なのか、ごろ石なのか、
あるいはよく整備された石畳なのか知ることが出来ない。

しかし歩くには楽しみな道路である。


(落ち葉の道路)

(落ち葉の道2)