中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

落合宿(旧中山道を歩く 211)

2010年09月17日 10時37分55秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(落合の市街地を一望にできる場所)

(落合宿 2)
医王寺を出て道なりに右にカーブして下って行くと、
中津川市街地が一望に見渡せる場所に出る。
さらに進むと下桁橋がある。
ここが広重画く浮世絵「落合」で、
この橋が入った図である。


(広重画く浮世絵、木曽海道69次之内「落合」)

0034_5
(医王寺をでての下り道、先に下桁橋が見える。)

橋の少し上流に、小さな滝(?)が見える。
ここでほっと一息ついていると、
河原に人の顔のように見える石を発見した。

「人面石?」
疲れていたせいか一人で勝手に合点して、とても面白いと思った。


(下桁橋から見た滝?)


(人面石?)

その橋の先で、道祖神など石仏が数基並んでおり、
左から来る道と合流する場所で、
その合流地点に石の道標がある。
左から来た道は飯田道とあり、
右へ行くと落合の市街地に入っていく。

やがて国道7号線を交差する場所に出るが、
その交差点手前の左側に
「落合宿高札場跡」の石碑が建っている。
ここから落合宿に入る。


(石造物群)


(庚申塔)


(庚申塔2)


(石標、京都側から見て、右飯田道と読める)


(落合宿高札場跡の碑)


(バス停」木曽路口」)

国道7号線を渡った所がバス停「木曽路口」で、
名古屋からのハイカーの皆さんに出会ったが、
皆さんはここでバスを利用し「JR中津川駅」にお帰りという。
ボク達はここからさらに中津川宿まで歩くと話したら、
ハイカーの皆さんは「健脚だ」と驚いていた。


(秋葉様の常夜灯)

国道7号線を渡り「落合宿」に入る。
すぐ右手に「秋葉様(*)の常夜灯」がある。
(*)秋葉様とは火除けの神様秋葉神社を指す。

案内に寄れば、
(この宿場の通りに面した常夜灯は四基あり、
火の用心で夜回りをする当番により点灯され防火を祈ってきた。
明治になってからは、
道路整備に伴い他の三基は他所に移設されたが、
この一基だけ街道の隅に寄せられ、
往時の姿を留めている。)という。
(落合まちづくり推進協議会)
三基のうち、一基は善昌寺境内に、
残る二基はおがらん公園の愛宕社に移されているとのこと。

常夜灯の前を右折して、落合宿の中心に入って行く。
少し先の左手に落合宿脇本陣跡、
その先右手に落合宿本陣の立派な建物が見える。
本陣の門前に「明治天皇落合宿御小休所」の石碑が建っている。
また、この本陣家の門は加賀藩 前田家から贈られた貴重なものであるという。

加賀藩の前田家から贈られた門は、大宮宿
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/05/ustrongstrongu_7e10.html参照)にもあり、
何故前田家が門を贈っているのかは解らない。
(何時になるか解りませんが、あとで調べてみたいと思います。)


(脇本陣跡の碑)


(落合宿本陣の全貌)


(加賀藩前田家から贈られた本陣の門)


(明治天皇落合宿御小休所の碑)

落合宿本陣の先の左側に「大釜」が置いてある。
「落合宿助け合い大釜」と称するこの「大釜」についての説明では、

(文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、
四日間で延べ約二万六千人が落合宿を通りました。
当時暖かいおもてなしをするため、
各家の竈は引きも切らず焚き続けられたといわれてきました。
ここに展示してある「大釜」は
「寒天」の原料(天草)を煮るときに使用されたもので、
容量は千リットルを越えます。
日本の食文化を支えてきたこの煮炊き道具を後世に伝え残すと共に、
この釜を今に再利用するため、
「落合宿助け合い大釜」と命名し、
さまざまなイベントに利用しています。
落合宿祭りなどには、「千人きのこ汁」を作り、
多くの方々に振舞う「ふれあい」活動を推進してきましたが、
この活動は落合宿の人々が古くから旅人に対して
礼節を重んじてきたことに由来します。
「大釜」と共に手押しポンプを備えた井戸も設置され、
この大釜と井戸は緊急時に利用できると共に、
防災意識を高めることに役立っています。)とある。
(落合宿たすけあい推進協議会)

つまり、皇女和宮御通行の折、
夜を継いで炊き出しを行った「おもてなしの精神」が
今の世にも受け継がれ、
最早 役立たなくなった大釜を再利用して、
その「おもてなしの精神」を後世に伝え残そうと、
「千人きのこ汁」を振舞っている。

とボクは解釈した。


(大釜)


(善昌寺の「門冠の松」車に削り取られるのか注意のガードがしてある、)

その先右手に善昌寺があり、
境内から伸びた松の幹が街道に覆いかぶさるように伸びている。
善昌寺の「門冠の松」と呼ばれている。

(その名の通り創建当時山門を覆っていたことから名が付いた。
道路拡幅整備などで根が痛めつけられ、
450年の年月を経ているにも拘らず、さほど大きくなく、
宿場の入口に格好の風采を備えている。)

説明は、やや我田引水の感はあるが、松に責任は無い。
この松を右に見て、京都側へ街道は枡形になる。
ここで左折するが、その左角に石柱道標があり、
中山道の道路案内表示もある。

「右至中仙道中津町一里」(石柱道標に書かれた文字)

道路は上り坂になり、国道19号線を越える陸橋「おがらん橋」出る。
橋を渡った右側の高台に「おがらん神社」がある。


(「右至中仙道中津町一里」の石柱と「中山道」の案内)


(おがらん橋)





十曲峠の石畳(旧中山道を歩く 210)

2010年09月11日 10時10分05秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(信濃と美濃の国境の碑)


(広重画浮世絵 木曽海道69次之内 「落合宿」)


(落合宿)
新茶屋の一里塚の脇に、国境の石碑が建っている。
今は馬籠峠の頂上が県境になっているが、2005年までは、
ここが美濃と信濃との国境であった印である。
新茶屋と言うのは、かって立場茶屋が別の場所にあり、
江戸時代の終り頃 現在の地に移ったことから、
新茶屋と呼ばれるようになったと言う。

この新茶屋の一里塚を過ぎると、すぐ右脇に入る石畳が始まり、
120m先で今の道路を横断し、渡った所に「中山道」の石の道標がある。
約2km続く石畳の道を「落合の石畳」と呼び、十曲峠ともいう。
道標に落合宿2kmとある。


(落合の石畳が始まる)


(落合まで2kmの案内)

「落合の石畳」は昭和39年(1964)に岐阜県の指定史跡になっており、
次のように説明がある。
(この石畳は、中山道の宿場落合宿と馬籠宿との間にある、
十曲峠の坂道を歩き易いよう石を敷き並べたものです。
江戸時代の主な街道には一里塚をつくり、並木を多く植え制度化し、
その保護にはたえず注意を払いましたが、
石畳については何も考えた様子がありません。
壊れたまま放置されることが多く、
ここの石畳も一時は荒れるに任せていましたが、
地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。
今往時の姿をとどめているのは、ここと東海道の箱根のふたつに過ぎず、
貴重な史跡です。
中山道が出来たのは、寛永年間ですが、
石畳が敷かれたのは、いつごろか不明です。
文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸の時修理しましたが、
このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないように
した事が記録に残っています。)(岐阜県教育委員会)とある。

石畳は120mに渡って修復されている。
これは2005年馬籠宿が町村合併で中津川市に編入されたことにより、
中山道の中津川宿、落合宿、馬篭宿の三宿が中津川市となり、
その内の馬籠宿の石畳120mが痛んでいて、
修復が必要になったのであろう。
岐阜県からの助成金で修復が行われたと、
説明板に書かれている。


(落合の石畳に入る)

藤村が「夜明け前」で木曽路十一宿は
「東境の桜沢から西の十曲峠まで」と書いているが、
ここで修復を受けた約120m先までが馬籠宿であったのであろう。


(落合の石畳に入ってすぐにある「中山道」の碑)


(右に曲がり)

(左に曲がり)

その名の通り、石畳の道路は曲がりくねって登っていく。
途中、「なんじゃもんじゃの杜」があり、
落合の老人クラブが植え継いでいると言う。
説明板には、
(・本名をヒトツバタゴ(一つ葉たご)と言い、古世代の依存木である。
五月中旬ごろの開花で満開時は樹上が真っ白になり、
雪が積ったような景観を醸す。
この杜は昭和51年落合の老人クラブが植樹したものです。)
(落合まちづくり推進協議会)とある。
「なんじゃもんじゃ」の木の名については、
(昔、今の明治神宮外苑の道路沿いに、
この「なんじゃもんじゃ」があり、
名前がわからなかったので、
「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちに、
いつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまった。)と
いう嘘のような話。


(なんじゃもんじゃの木)


(「ヒトツバタゴ」とある)


(準備中の峠の茶屋)

その先に、峠の茶屋があるが、店は閉まっていて準備中になっている。
人の気配は無く、このさき夏を経て、
冬に差し掛かるまで営業するのであろうか?
うっそうとした木に囲まれて、湿気の多そうな道は、
歩く者にとって、石畳は良いようであるが、
凸凹が多く、苔むしていて滑りそうで、意外に歩き難い。
道路両端の石はあまり段差が無いので、道路の縁を選んで歩く。

およそ2kmの石畳が終わり、舗装道路に出る手前に
「岐阜県史跡 落合の石畳」の白い標柱がある。
江戸側には無かった案内であるが、
京都側から来る人への案内は充実しているように感じる。
石畳道路を出て舗装路を左折200mも歩くと左側に、
大きな枝垂れ桜のあるお寺の前に出る。


(落合の石畳の標柱)


(落合の石畳、京都側入口の案内)


(道路上の「中山道」の案内標識)

瑠璃山医王寺という。
本堂入口に「狐こうやく」の古い木の看板が置いてある。
むかし、住職が傷ついた狐を助けたところ、そのお礼にと狐が教えた
「狐こうやく」が名物で、刀傷に特効が合ったという。
がまの油売りの話に良く似ている。

歩いている時見えた医王寺の枝垂れ桜について、
(この木は今は二代目であるが、俳諧の宗匠 嵩左坊が

・その日その日 風にふかせる 柳かな

と詠んだ県下随一といわれた名木であった。)(落合まちづくり推進協議会)
という。


(左側に見える枝垂れ桜)


(医王寺の参道)


(本堂入口にある「狐こうやく」の看板)

しだれ桜を柳に見立てたのであろうか?

また、俳諧の「宗匠 嵩左坊」とは、「夜明け前」の翁塚のくだりで、
「崇佐坊」の名で出てくる美濃の俳人である。

俳諧の宗匠 嵩左坊については、前回(旧中山道番外記 26)で述べた。





「是より北 木曽路」の碑と翁塚(旧中山道を歩く 209)

2010年09月01日 10時42分48秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)

(馬籠宿 5)
小公園を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。

「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。

芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。


(芭蕉翁の句碑)


(「蝿」と読める翁塚)

「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせお

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。

のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。

最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・

(また、芭蕉俳句集に寄れば、

・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋

とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。

この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。


(「是より北 木曽路」の碑)


(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)

木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。

句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、

新茶屋の一里塚という。

江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。

この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。


(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)


(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)


(一里塚先から始まる「落合の石畳」)