(広重描く浮世絵 木曽海道69次之内「須原」)
中山道広重美術館によれば、
(須原宿のはずれ当たりの辻堂を描いたものか、
あるいはこの宿の北のはずれの鹿島の祠か、
あるいは津島神社の御堂とされる。
一転にわかにかき曇り、突如降り出した夕立に、
あわてる旅人の姿が描かれている。
背景にはこもをかぶって雨を凌ぐ騎乗の旅人たちが描かれている。)
とある。
(須原宿 2)
旧中山道を歩きはじめて32日目。
昨日は曇り空であったが、
本日(2009年10月21日)は快晴で雲ひとつない。
朝起きてからのデイリールーチンで思ったより時間が掛かり、
予定していた電車(7:38発)に乗り遅れると、
次の電車は二時間後の10:10分まで電車がないことを知った。
いくら田舎でも一時間に一本の電車はあると思って、
昨日須原駅までの切符を買うときに、
大体一時間に一本ぐらいの割合で電車はありますか?と
駅員さんに確認しておいたのに、この時間帯は特急電車しかなく、
ボクが乗りたい普通列車は二時間待ちとなった。
二時間を駅前でボーっとしているのも悔しくて、中津川宿を歩くことにした。
中津川宿は長さ1kmほどの間に歴史的建造物があるというので、
二時間を利用して散策を済ます。中津川宿については、
いずれ宿場まで歩いてきたときにお話したいと思います。
さて、二時間遅れのスタートとなって、11時20分須原駅をスタートする。
駅前に、桜の花漬を商う「大和屋」、
その左側に(須原の一里塚跡)の石碑がある。
水舟の里にふさわしく須原宿の道路の両脇のところどころに水舟がおいてある。
さらにその先には、高札場跡があり街中に入っていくが、
江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の建物が静かに並んでいる。
(JR須原駅)
(街の所々にある水舟)
(高札場跡)
(古い家並み)
中山道「上町」の常夜灯を模した灯籠があり、左側に須原宿の本陣跡、
右側に清水医院跡、脇本陣の西尾酒造がある。
宿場の中心地に入ってきている。
清水医院は文豪 島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台となった医院跡である。
医院建物は、愛知県犬山市の明治村に保存されていると(大桑村観光協会)が案内を出している。
その先の脇本陣西尾家について、
大桑村による沿革が記されているので紹介したい。
(旧脇本陣 西尾家の祖は、代々菅原の氏を名乗る族柄にして
大永・天文年間(1522~1554)の頃
この地、信濃の須原に住し地域の開拓に力を尽す。
西尾家は木曽屈指の旧家にして、
木曽家の家臣として重きを成す。
ことに西尾丹波守は馬術又武芸に優れ、
木曽義昌公の信任極めて厚く、
鳥居峠や妻籠城の合戦等に参画転戦して、
その武功著しきものありと伝えられる。
天正18年木曽義昌公は豊臣秀吉の命により、
突然、下総の網戸に移封せらるるも、
西尾家は依然この地に留まり、
その後は木曽代官山村家に仕え、
尾張藩の山林取締り等の重責を担う。
慶長五年(1600)中山道宿場のできるに当たり、
須原宿の脇本陣、問屋、庄屋を兼ね宿役人として重きを成し、
地域の発展に貢献せり。
その後寛延・慶応の二度にわたる火災遭遇し記録の一部を焼失するも、
今尚、当時の隆昌を物語るに足る古文書、書画、什器等多数蔵することは
文化財として貴重な存在である。)(大桑村)とある。
一方で別の見方をすると、下総に移封された主君に服従せず、
地元で造酒屋をしていたほうが良いと
そのまま木曽に残り山村代官に従い、
後には尾張徳川家の重責を担ったとは言え、
その態度は、主君に忠義ではなかったといわれても仕方あるまい。
最もこの時期、こうした忠義の心は武士の間に廃れつつあったのかもしれない。
(上町の常夜灯)
(本陣跡)
(藤村の小説に出てくる「清水医院」)
(脇本陣家 西尾酒造)
(正岡子規の歌碑)
(かしわや)
(枡形手前の鍵や)
話は元に戻す。
道路をさらに進むとやはり左手に正岡子規の歌碑がある。
・寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は
月出つほどの 空たにもなし 子規
須原宿は島崎藤村、幸田露伴、正岡子規などの文人が訪ねた静かな山里である。
正岡子規の歌碑の前には豊富に流れる水舟が置かれている。
須原宿は街の中心地から西に向かい、宿場はずれの旅籠 柏屋(かしわや)、
その右手に「鍵屋」があり枡形になって、
敵から防御するための鉤の手の街づくりになっている。
「かしわや」と「鍵屋」の先にガードレールの橋(見落としやすい橋)がある。
直進すれば浄戒山定勝寺があるが、橋を渡ってすぐ川沿いに右折する。
これが旧中山道である。
道は下りになり左にカーブしていく、カーブした右手は竹薮で、
中部北陸自然道の案内看板があるので、道が正しいことが解る。
(古い町にふさわしい郵便局、この先にあるガードレールの橋)
(この白いガードレールが橋でこの先を右折)
(ガードレールから覗くと川があり道がある。これが中山道)
(道なりに左へカーブした所に竹薮と案内看板がある)
道なりに進むと定勝寺前を直進した道路と合流する。
少し進むと左手に直進「国道19号」の案内がある。
さらに少し先にある「国道19号、中山道、岩出観音」直進の案内を見て,
道を登ると中央本線西線の踏み切り「第9号仲仙道踏み切り」を渡る。
山裾のどんぐりが落ちている上り道を左へ曲がって行くと、
今度は下り道となり緩やかに右に曲がる。
人家が多くなり街中の感じがする。
橋を渡り左手に郵便ポストを見たら、その先を左折する。
案内書では左折後かなり歩かないと岩出観音に到達しないかのようにあるが、
実際には左折後50歩ほど先の左上方に観音堂はある。
岩出観音堂はその名の通り、岩に出ている観音堂で、
京都の清水寺のように懸崖作りとなっている。
説明より、「百文(本当は「百聞」が正しい)は一見にしかず」で、写真をご覧ください。
観音堂を写真に上手く収めるには、
右手のマンションの駐車場に入れさせてもらい、
駐車場の右隅で撮ると良いアングルのショットになる。
旅人の守護神である馬頭観世音が祀られている。
岩の上に足場を組んだような形で堂があるので
「木曽の清水寺」とも呼ばれ、
中山道を上り下る旅人たちが詣でる場所であった。
もちろん、私もお参りをした事は言うまでもない。
(19号こちらの案内)
(中山道と国道19号の案内)
(第9仲仙道踏み切り)
(下り坂の奥の橋を渡る)
(左側のポストの先を左折)
(岩出観音堂(マンションの駐車場からアングル)
(「木曽の清水寺」も普通に撮ればこんな感じ)
(トンネルが見えたら引き返して欲しい)
(金網の駐車場を右折すぐ橋に出る)
(伊奈川橋)
(橋を渡って振り返った景色ー浮世絵とは雲泥の差)
案内書では、その先を右にカーブする道を行くと伊奈川橋に出るとあるが、
観音堂が見えたら、すぐ直角に右折するのが正しい。
先に進んで、トンネルに出たら道路は誤りですので、引き返して欲しい。
観音堂の前の金網の中が遊園広場になっていて、
金網沿いに案内標柱を見つけることができる。
案内は「国道19号 0.7km、天長院2.1km」右方向の標柱が立っている。
道なりに進むと伊奈川橋はあり、
自動車道と歩道橋とに分かれている。
橋を渡り終えると、道路は右に登り坂になる。
少し行ったところで伊奈川橋を振り向いた所が、
広重・英泉合作の浮世絵の「木曽海道69次乃内」にある
渓斎英泉が描く「木曽路駅野尻 伊奈川橋遠景」である。
中山道広重美術館によれば、
(伊奈川橋は、
川の両側に石垣を設けその上に順次せり出していった反り橋で、
中山道の名橋の一つとして知られていた。
大胆に線描を駆使して色分けされた水流の表現、
高所にやっと架けられた橋の形態、
あるいは岩肌の描写など、随所に北斎の強い影響が見て取れる。)とある。
デフォルメされているとは言え、とても美しい浮世絵であるが、
実際の風景写真をそこまで美しく撮ることが出来ない腕の悪さは、
プロとアマの違い以上である。
この橋を境に野尻宿に入って行く。
(英泉描く浮世絵 木曽海道69次之内「伊奈川橋遠景」)
(伊奈川橋の先で撮ったこの写真のほうが出来は良い?)