中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

長久保宿(旧中山道を歩く 130)

2007年12月19日 17時39分16秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(広い道路は左にカーブするが、旧街道は直進する)


(左脇にある「和田宿7,9km」の案内看板)

(長久保宿)
道路わきの(長久保 標高780m)の案内看板をみたら、
大きい道路は左折していくが、直進のやや狭い道路をとる。
左脇に(和田宿 7,9km)案内看板があるので旧中山道であることを確認、安心して進む。
道路はいくつか曲がりくねって急坂を下りていくが、
左に民家を見て右にカーブするガードレールの下に、
小さく「中山道」の右矢印の案内看板がある。
見落とさないよう細心の注意が必要だ。


(ガードレールしたの中山道の矢印看板)

その矢印の先で道路は左に曲がるが、右側に左下を指す「中山道」の同じ看板が見える。
この矢印の指す方角には、急な坂の下へ落ちるような道が見える。
進むのをためらったが、石の上を木にへばり付きながら、坂を下りる。
細い山道の状態の道を進むと先が急に開け、広場の先に神社らしきものが見え、
目を移すと鳥居も見える。予備知識では松尾神社らしいと推理する。

神社の脇には大きな木が生えているが、椹(さわら)の木で、
町指定の天然記念物、樹齢およそ200年と推定されている。


(二つ目の右側にある中山道の矢印看板)


(石の階段の下に狭い道があるのが見える)


(松尾神社、左の高い木がおよそ200年のさわらの木)

神社は松尾神社に相違なく、長久保宿の入り口である。
神社に今日の旅の無事をお祈りして参道に向かう。
神社には裏口から入ってきたようである。

清らかな川に橋が架かり先に石の鳥居が見える。
鳥居の外から眺めると、由緒ありげな神社に見える。


(松尾神社の石柱と鳥居)


(境内に入る参道の橋)

石の鳥居を後に町に入る。芦田宿に似た町の雰囲気である。
犬の散歩をかねた町の人に出会ったので、上田駅行きのバス停の場所を尋ねる。
「この道を行くと、道路がT字路になり、突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と
ていねいに教えていただいた。上田行きのバスは平日の午後は二本しかない。
PM15:00発に乗らないと、次はPM17:00になってしまう。
時計を見るとPM13時を少し回ったところだ。
時間は十分ある。

すぐ左側に中山道長久保宿「一福処濱屋」の看板をかけた綺麗な建物が見える。
入り口に「木戸が開いておりますどうぞ」とあるので中に入る。
此処は長久保宿の歴史資料館でもある。


(長久保宿の町並み)


(一福処濱屋)


(濱屋の表)

中に入るが無人で入館料も無料であった。
館内は綺麗に清掃されていて、すがすがしい。毎朝何方かが掃除をされるのであろう。

中に入ると入り口に、来訪者はご記入くださいと、ノートとペンが置かれていた。
記帳しようと見ると今日はボクで二人目、前来訪者は、神奈川県横浜市と記帳されていた。

建物は元旅館であったようで、一階の客室には、行灯と火鉢に部屋の仕切りとなるつい立てなどが置かれていた。
二階への階段を上がると、二階は展示室になっており、
昔使用したタクシー代わりの(かご)や旅装束には欠かせない合羽に三度がさなどが展示されていた。


(旅籠、濱屋の一階の客室)


(二階の展示室1)


(二階の展示室2)

この資料館に「長久保宿の賑わいと」題して、往時の中山道について記してあったので紹介する。

「江戸時代末の天保14年(1843)には、43軒の旅籠屋が長久保宿にはあって、
信濃26宿では塩尻に次ぐ数を誇りにしました。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠と和田峠の難所を控えていたこと。
甲州道や伊那方面への近道となる大門道(霧が峰近くの大門峠に至る道)、
武石峠越えに松本方面から佐久方面へ通じる大内道(おおねいどう)、
北国街道に通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと。
温泉場でもある下諏訪に宿泊した場合、日程的に好都合であったことなどが上げられます。」と
各方面からの街道が交差する立地にあったため旅籠屋が街道で二番目の多さを誇った。

さらに続く、
「中山道は同じく江戸と京・大阪を結ぶ東海道より十里(約40km)程長く、
しかも山がちで、峠も多く人々や物の往来には困難が伴いました。
しかし東海道のような河川が少なかったため、
大水の際の川留めなどによって何日も逗留することも無く、
ほぼ予定通り旅ができたため利用する人々も多かった。

参勤交代の折に中山道を通って、
長久保宿を通過した大名は尾張・紀伊の徳川家など34家で、
これは東海道の四分の一程度に当たります。
このほかに、二条城番・大阪城番・日光例弊使なども片道は中山道を通りました。

また川留めに際し『滞る』ことを嫌ったり、『今切りの渡し』(浜名湖)、
『薩�券(去った)峠』(静岡県)など縁起を担いだためか、
姫宮の輿入れはほとんど中山道が使われました。
このことから中山道は「姫街道」とも呼ばれました。」(長和町教育委員会)

一福処濱屋を出て旧中山道を西に進む。
長久保宿の中心に入っていく。


(広重描く長久保の浮世絵、蕨宿の歩道にあったタイル)





笠取峠と中山道 原道(旧中山道を歩く 129)

2007年12月13日 08時49分55秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(笠取峠の美しい松並木)

(芦田宿2)
中央分離帯のようになった箇所は、野草がびっしり生えている。
中央分離帯をはさんで、右左どちらが本来の旧中山道であったのか判らない。
どちらかというと右側の道幅が狭く、峠道としてはこちらが旧街道のように思える。

見事に伸びた枝振りの松並木を眺めながら、ゆるやかな登り道をゆっくり登る。
さっさと急いで登る雰囲気ではない。
周りの景色を楽しみながら登る、そんな気持ちにさせる静かな石畳の山道である。
昔の人は、この峠を早く越えようと、急ぎ足で進んだように思われる。
やがて松並木の途中を先ほど迂回していった国道142号線が横切っていくが、
その手前の左側に駐車場と休憩所、お手洗いがある。


(従是東小諸藩の石碑)


(松並木の休憩所先にある常夜灯と道祖神)

そして右側には、「従是東小諸領(これよりひがしこもろりょう)」の石碑があり、
説明によれば
(この石標は、小諸藩が文化三年(1806)に領分境の東西に建立したうちの西側のものである。
藩領の西端、笠取峠(此処より西1,7kmにあった)ものの復刻である。
これを境に西は幕府領であった。
なお、藩領東側の石標は「従是西小諸領」と刻まれ、
中山道小田井宿と追分宿の間、追分原(現在の御代田町)にあった。)


(142号線で分断された松並木の先の部分)

松並木はこの石標の、もう少し先まで残っており、
ふたたび国道142号線と合流する。


(142号線との合流地点、京都側からは松並木の案内があり判り易い)

旧中山道はこの先、国道142号線の左側歩道を歩くが、
長い急な上り坂になり、先ほどの松並木と打って変わり日陰も無く、
左側は田畑が続き、右側には山が迫り、さすが峠と言われる登りである。

やがて車道の「登坂車線ここまで」の案内看板を見て、登りが終わることが判るが、
悲しいかな歩くスピードと自動車の速度ははるかに違う関係から、
徒歩の旅人はさらに長い登りを覚悟しなければならない。
やがて左側に「笠取峠」の文字と「笠取峠竣工記念碑」の銅版が埋め込まれた大きな岩がある。
この先が峠の頂上である。


(笠取峠竣工記念の岩、このあたりに一里塚があった)

峠を越えた中山道の両脇は学者村として別荘地に売り出されたところで、
道路の両側に(峠の茶屋)があり、その先右側に、笠取峠と刻んだ大きな岩がもう一つある。
中山道の常夜灯や道しるべもある。


(笠取峠の岩や常夜灯、紅葉が美しい)


(道路案内標識)

左側に歩道が無くなるので、右側の歩道に移る。

峠を越えたので、道路は下り坂になる。
国道142号線を造るに当たって山を切り開いたのであろう、
右側は山崩れを防ぐため山肌をコンクリートで固めてあるが、
そのコンクリートの山肌に浮世絵の大きなタイルが埋め込んである。


(浮世絵の大きなタイル)

このタイルの浮世絵の説明版も打ち付けてあり、
説明によれば、
「長門町竪町(長久保宿の竪町)の釜鳴屋(旅館)に保存されている版木には、
峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。
当時の峠は、現在の国道142号線より数メートル南に位置し、
路面も今より数メートル高所にあった。」という。

このタイルは「浅間山見所 中山道芦田宿 長久保宿の間」を描いたもので、
画面中央に「かさとり峠 名ぶつ 三国一のちからもち」とある。
峠の茶屋でおいしいちから餅を商ったに違いない。

この看板の、道路の反対側を見ると「中山道 原道」の小さな看板が見える。
先の説明にあった(中山道は国道142号線の南数メートル先)にあったと書いてあったが、
この中山道原道が旧街道であろう。
旧街道をのぞき見ると、夏草がのび放題で、人の通った形跡はわずかにしか感じられない。
しかし142号線がすぐ近くにあることであるし、間違っていればすぐ戻る覚悟で、一歩を踏み出す。

草の道は数メートルで右折し、欝蒼とした林の中に入って行く。
よほど引き返そうかと思ったが、隣に142号線が見えるので、
草道を下っていくと、何のことは無い、すぐに142号線に合流した。


(深みにはまりそうな草の道、「中山道 原道」)

142号線の反対側(右側)をみると、旧道が続いているのが見える。
車に注意して道路を横断すると、中山道とした舗装道路があり案内板もあるが、
その脇にまた「中山道 原道」の案内看板が矢印をつけている。


(中山道 原道の看板、右側が現在の旧道)


(原道の裏側の舗装道路には和田峠方面への案内看板になっている、草道を止めたい時はこの道を行く)

矢印の方角を見ると、先ほどと同じように草の生えた道が、
今度はかなり人の足で踏み固めた下り道がみえる。
先ほどのこともあり、またすぐ舗装の旧道に出ると高をくくって、中山道原道を歩く。
予想通り草むらの道はすぐ迂回してきた舗装路にでる。
舗装路に沿って半円を描くように左に曲がると左側に地蔵様と馬頭観世音の二基の石造物がある。


(中山道 原道の草の道)


(草の道の出口)


(この案内に沿って右に下ると、半円を描くように左へ曲がる)


(曲がった先にお地蔵様と馬頭観音が二基ある)

その先右手にまた「中山道 原道」の案内があり、
覗くと今度はかなり急勾配の草の道が続いているが、思い切ってその道を下る。
案内標識がしっかりしているので旧中山道を踏み違えることは無い。
案内に沿って舗装路を進むと142号線に合流し、
道は右にカーブすると先で142号線は左に曲がり、狭い道路が直進している。
手前に(標高780m、長久保)の看板がある。
この先を直進するのが旧街道である。

まもなく長久保宿に入ると思いながら進む。


(こんな所本当に通れるかと思う草の道)


(こんな道が続く、大丈夫か?と思う)


(中山道 原道の草の道、後は案内に沿って道を下る、上り方向には行かない)


(左側の長久保、標高780mの看板を見て直進)