(広い道路は左にカーブするが、旧街道は直進する)
(左脇にある「和田宿7,9km」の案内看板)
(長久保宿)
道路わきの(長久保 標高780m)の案内看板をみたら、
大きい道路は左折していくが、直進のやや狭い道路をとる。
左脇に(和田宿 7,9km)案内看板があるので旧中山道であることを確認、安心して進む。
道路はいくつか曲がりくねって急坂を下りていくが、
左に民家を見て右にカーブするガードレールの下に、
小さく「中山道」の右矢印の案内看板がある。
見落とさないよう細心の注意が必要だ。
(ガードレールしたの中山道の矢印看板)
その矢印の先で道路は左に曲がるが、右側に左下を指す「中山道」の同じ看板が見える。
この矢印の指す方角には、急な坂の下へ落ちるような道が見える。
進むのをためらったが、石の上を木にへばり付きながら、坂を下りる。
細い山道の状態の道を進むと先が急に開け、広場の先に神社らしきものが見え、
目を移すと鳥居も見える。予備知識では松尾神社らしいと推理する。
神社の脇には大きな木が生えているが、椹(さわら)の木で、
町指定の天然記念物、樹齢およそ200年と推定されている。
(二つ目の右側にある中山道の矢印看板)
(石の階段の下に狭い道があるのが見える)
(松尾神社、左の高い木がおよそ200年のさわらの木)
神社は松尾神社に相違なく、長久保宿の入り口である。
神社に今日の旅の無事をお祈りして参道に向かう。
神社には裏口から入ってきたようである。
清らかな川に橋が架かり先に石の鳥居が見える。
鳥居の外から眺めると、由緒ありげな神社に見える。
(松尾神社の石柱と鳥居)
(境内に入る参道の橋)
石の鳥居を後に町に入る。芦田宿に似た町の雰囲気である。
犬の散歩をかねた町の人に出会ったので、上田駅行きのバス停の場所を尋ねる。
「この道を行くと、道路がT字路になり、突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と
ていねいに教えていただいた。上田行きのバスは平日の午後は二本しかない。
PM15:00発に乗らないと、次はPM17:00になってしまう。
時計を見るとPM13時を少し回ったところだ。
時間は十分ある。
すぐ左側に中山道長久保宿「一福処濱屋」の看板をかけた綺麗な建物が見える。
入り口に「木戸が開いておりますどうぞ」とあるので中に入る。
此処は長久保宿の歴史資料館でもある。
(長久保宿の町並み)
(一福処濱屋)
(濱屋の表)
中に入るが無人で入館料も無料であった。
館内は綺麗に清掃されていて、すがすがしい。毎朝何方かが掃除をされるのであろう。
中に入ると入り口に、来訪者はご記入くださいと、ノートとペンが置かれていた。
記帳しようと見ると今日はボクで二人目、前来訪者は、神奈川県横浜市と記帳されていた。
建物は元旅館であったようで、一階の客室には、行灯と火鉢に部屋の仕切りとなるつい立てなどが置かれていた。
二階への階段を上がると、二階は展示室になっており、
昔使用したタクシー代わりの(かご)や旅装束には欠かせない合羽に三度がさなどが展示されていた。
(旅籠、濱屋の一階の客室)
(二階の展示室1)
(二階の展示室2)
この資料館に「長久保宿の賑わいと」題して、往時の中山道について記してあったので紹介する。
「江戸時代末の天保14年(1843)には、43軒の旅籠屋が長久保宿にはあって、
信濃26宿では塩尻に次ぐ数を誇りにしました。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠と和田峠の難所を控えていたこと。
甲州道や伊那方面への近道となる大門道(霧が峰近くの大門峠に至る道)、
武石峠越えに松本方面から佐久方面へ通じる大内道(おおねいどう)、
北国街道に通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと。
温泉場でもある下諏訪に宿泊した場合、日程的に好都合であったことなどが上げられます。」と
各方面からの街道が交差する立地にあったため旅籠屋が街道で二番目の多さを誇った。
さらに続く、
「中山道は同じく江戸と京・大阪を結ぶ東海道より十里(約40km)程長く、
しかも山がちで、峠も多く人々や物の往来には困難が伴いました。
しかし東海道のような河川が少なかったため、
大水の際の川留めなどによって何日も逗留することも無く、
ほぼ予定通り旅ができたため利用する人々も多かった。
参勤交代の折に中山道を通って、
長久保宿を通過した大名は尾張・紀伊の徳川家など34家で、
これは東海道の四分の一程度に当たります。
このほかに、二条城番・大阪城番・日光例弊使なども片道は中山道を通りました。
また川留めに際し『滞る』ことを嫌ったり、『今切りの渡し』(浜名湖)、
『薩�券(去った)峠』(静岡県)など縁起を担いだためか、
姫宮の輿入れはほとんど中山道が使われました。
このことから中山道は「姫街道」とも呼ばれました。」(長和町教育委員会)
一福処濱屋を出て旧中山道を西に進む。
長久保宿の中心に入っていく。
(広重描く長久保の浮世絵、蕨宿の歩道にあったタイル)