中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

上尾宿(旧中山道を歩く 37)

2005年05月30日 20時52分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(鉢植えの君子蘭ともっこうバラ2005.May.21.我が家のベランダで撮影)

(上尾宿)
加茂神社をあとに、特筆することが無いまま中山道を進む。
しばらく歩くと左手に愛宕神社が見えるが、ここは素通りする。
(愛宕神社)

さらに進むと、繁華な街の中に入ってくる。
上尾駅前の繁華街だ。
その繁華街に入る手前に、上尾宿総鎮守の氷川鍬神社が左側にある。
信号の角だ。

通称「お鍬さま」と呼ばれる。

氷川鍬神社の名称になったのは明治の神社合祀以降で、
以前は「鍬大神宮」と呼ばれた。
寛永9年の創立で、ご祭神は、
豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)・
稲田姫命(いなだひめのみこと)・
菅原道真公・
木之花)咲耶姫命(このはなさくやのひめのみこと)・
応神天皇の神である。
         (武蔵野国足立郡御鍬大神宮略記による)

この大神宮の略記によると、
豊鍬入姫命(とよくわいりひめのみこと)は、
悩める人苦しむ人の胸中を知り、
その人のため救いの手をさしのべてくださる神で、
疫病よけ、招福豊作の神である。
稲田姫命(いなだひめのみこと)は「すさのおのみこと」の御妃で
限りない慈しみと深い母性の愛を表される神で、
菅原道真公は学問の神、
木之花咲耶姫(このはなさくやのひめ)は
浅間さまの神様、
応神天皇は文化の神としてのご神徳を持つと言う。
(武蔵野国足立郡御鍬大神宮略記による)

(氷川鍬神社)

ここで神様の勉強をすることになるとは思わなかった。

そもそも神様とは、ボクにとっては苦しい時の
神頼みしかなかった。子供の頃に読んだ神話の中の神様が
どのような役割をしているのか、全く知らなかった。
初詣で、過去一年の家内安全、家族の健康を祈る位の
軽い気持ちで、手を合わせている時は、
不謹慎にも中学時代に英文で覚えた
キリスト教の「主の祈り」を、口の中でもぐもぐやっている。

ボクの中では、神様はどの神様でも良い。
日本には沢山の神が居る。五穀豊穣にはこの神様、
家内安全にはこの神様、受験合格のお祈りは天神様
(菅原道真)、縁結びの神様・・・いろいろあって面白い。
だから、結婚式や葬式は神式、仏式、キリスト教式などがある。
時には、結婚式は神前で、暮れになるとクリスマスで、
葬式は仏教と言うのもある。
日本人にとって、
神様は本人たちの希望でいろいろ変わって
当然であるのを、
キリスト教、イスラム教やユダヤ教の
一神教の人たちには理解が出来ないところであろう。

話がそれてしまったが、この氷川鍬神社の鳥居の前の
信号を渡ったところに、昔は本陣脇本陣があったと、
宿はずれの高札場の掲示板の古地図に示されている。
(映像が不鮮明ですが、左側の上尾の文字の道路を挟んだ下に鍬大明神と見える)







加茂神社(旧中山道を歩く 36)

2005年05月26日 20時51分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(加茂神社)
7日目曇時々雨。(2004.10.13.)

JR宮原駅から東へ商店街を抜けていくと、
宮原駅入り口の信号に出る。交差するところが旧中山道である。
信号を渡って左に折れる。京都に向かって右側を行く。

まもなく、右手に加茂神社がある。

文化7年徳川幕府によって作られた。
新編武蔵風土記稿に「加茂社、加茂宮村の鎮守にて
社辺の古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど、
勧請の年代詳かならず」と記されているが、

社前に宝暦3年4月、弘化2年12月刻まれたもの又、
文政10年8月御遷宮刻まれた石灯篭もあるので、
相当古い御鎮座あることがわかります。その昔
京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから、
別雷の神を祀って五穀の豊穣と万物を生みなし育てる
神として祈り崇められてきました。幕府参勤交代の折、
加賀の掘丹波の守が、中山道往来の砌、
その妻女がにわかに産気を催したので当社に立ち寄り
御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着後、
玉の如き男子出産を見たと言う。安産御礼のため奉納した
幣帛(へいはく)は現存しているという。
以後生産、安産守護の神として信仰が厚く、この辺り
加茂宮村の村社として・・・ー以下省略ー
           (加茂神社由緒記)
(加茂神社)

社殿の囲いの隙間から覗くと、右側の本殿壁面に
加茂競馬の彫刻が施されているのが見える。

英泉の木曽街道の浮世絵では、加茂神社は
上尾宿として描かれている。

(英泉の浮世絵、加茂神社ー蕨宿の歩道にあったタイルより)

道路上に「中山道」の道標を見ながら進むと
上尾宿に入る。
(歩道上の中山道の標柱)





大宮宿(旧中山道を歩く 35)

2005年05月23日 20時48分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(新緑2005.May.03.近所の公園で撮影)

(大宮宿)
氷川神社の表参道入り口に戻り、
「武蔵一ノ宮」の石塔を右に見て、左側の旧中仙道を行く。

「吉敷町」の信号から20メートルほど左に、
町に似合わない古い門構えが見えてくる。
これは加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けた門という。

(吉敷町の信号)
(加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けたという門)

その20メートル先の右側に、
郵便ポストがあるタバコ屋を右に入ると、
大きなケヤキの木が二本あり、
その先に「子育て地蔵」と「塩地蔵」がある。

由来は、
(「塩地蔵」は、幼い二人の娘を連れた浪人者が、
大宮宿で病に罹り、医者の手当ても薬も利かず寝込んでしまった。
ある夜、夢枕に地蔵様が現れ、二人の娘に塩断ちするよう告げられ、
孝行娘の二人は塩断ちして、近くの地蔵様にお祈りしたところ、
医者も薬も利かなかった父親の病が快方に向かい、全快した。
そのお礼に沢山の塩を奉納し、父親も主家に帰参が叶い、
娘たちも幸せになったと言う伝説。
以後沢山の人たちが塩を奉納して、参詣に訪れると言われている。)
(さいたま市教育委員会)
(写真右が子育て地蔵と左側が塩地蔵)

「子育て地蔵」については、何も記されていない。
さいたま市教育委員会の案内板によれば、近くに旧跡涙橋、
高札場跡、北沢本陣跡、内蔵本陣跡、山崎本陣跡などが
あったようであるが、その場所についての
案内板は設置されていない。

中山道に戻って進むとデパート高島屋があるが、
ここが昔、北沢本陣跡といわれる。
JR大宮駅を左に見て進む。
その先、すずらん通りの先に内倉本陣が、また
住吉通り先に、山崎本陣があったとされるが、
今は跡形もない。

さらに進むと国道16号線と交差する。ここを右折し、
最初の道を左折すると東光寺がある。
今は、曹洞宗の禅寺 大宮山東光寺である。

平安時代の末、関東に赴いた紀伊の国那智山の裕慶が、
「熊野の光明を東国に輝かす」と開山したお寺。
この言葉の光と東を採って、東光寺とした。
元々は、氷川神社の東方、黒塚にあったが、
江戸時代徳川家光の時、当地に移された。
          (さいたま市教育委員会)
(東光寺門前)
(東光寺本堂)

ここで旧中山道の古道と合流のしるしとなる
氷川神社裏参道の石碑ー「官幣大社 氷川神社」を
右に見て、JRのガードを潜り、中山道を進む。

右側に郵便局を見て、信号を直進すると、
レストランがあり、その駐車場に石碑の道しるべがあるという。
「大山 御岳山 よの 引又 かわ越道」 とあるらしい。
残念ながら見落としてしまった。

さらに進み、保健センター入り口交差点を左折すると、
「石上神社(いそのかみじんじゃ)」の石塔と鳥居が見える。まだ真新しい。

江戸時代の中山道の絵図にも掲載されている古い神社。
今では死語になりつつある病気の疱瘡(ほうそう)。
それを治す神様を祭っている。
昔は医学が発達していなかったので、ホウソウの伝染は
恐れられ、村人は他村でホウソウが発生すると、
村内に伝播しないようにと祀った神様。
(さいたま市教育委員会)
(疫病は神頼みの石上神社)

中山道を進むと、右側歩道上に馬頭観音と小さな地蔵像がある。
さらに進むと、新幹線・国道17号に交差するが、
その手前50mほど左手に「東大成の庚申塔」がある。
入り口に赤い鳥居。お堂と鳥居の間に大きな金木犀が植えてある。
丁度訪ねた時に金木犀は満開で、良い香りを発散させていた。
お堂の中には、高さ1.42mもある庚申塔があるが、
猿田彦が彫られている。

云うまでも無い、街道を行き来する旅人を守る神様である。
(馬頭観音)
(地蔵像)
(東大成の庚申塔)

しばらく歩くと、高崎線宮原駅が左に見える。
この先から上尾宿に入っていく。

6日目は、宮原駅から帰る事にする。
時計を見たらPM16:40であった。
万歩計は2万歩あった。一歩が60センチであるから、
今日は12キロ歩いたことになる。

思えば日本橋をスタートしたのが3月27日であったが、
その後は暑かったり、雨だったり、のっぴきならぬ私用で、
中山道を歩くことが出来なかったため、六日目はもう秋になっていた。







武蔵一ノ宮 氷川神社(旧中山道を歩く 34)

2005年05月09日 20時47分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「ウコン」2005.Apr.25.撮影)

(武蔵一ノ宮 氷川神社)
左にスーパーアリーナ、さいたま新都心駅を見ながら歩くと、
右側に氷川神社の赤い鳥居と「武蔵一ノ宮」の石塔が見える。
氷川神社参道の入り口で、これより約2キロは鬱蒼とした
ケヤキやクスノキの並木が続く。
旧中山道は左へ行くが、かってはこの参道が本来の中山道であった。
参道のほうは、今では古中山道と呼んでいるらしい。
(氷川神社入り口の武蔵国一宮の石碑)

(奥に見えるのは旧中山道の古道「一の鳥居」)

氷川神社は、出雲の国の簸(ひ)の川(かわ)(氷川)の杵築(きつき)大社(出雲大社)を
招いたものとされる。朝廷により権威付けられた式内社であり、
武蔵国の一ノ宮として伝統と格式を誇っている。

一宮といえば
「武蔵一ノ宮」「尾張一ノ宮」「上総一ノ宮」「常陸一ノ宮」など
全国に一ノ宮がある。

諸国において由緒深い神社、または信仰厚い神社が
勢力を得て、自ずから神社の階級的序列が出来、
その首位にあるものが一ノ宮とされ、
公認されるに至ったもののようである。
だから、時には「一ノ宮」と「二ノ宮」が代わるようなことが
時代時代によって起きた事もあるようだ。
その「武蔵一ノ宮」の「氷川神社」は全国に270社余あるという。

氷川神社は今から2000年以上前、
孝昭天皇三年に創建されたと社伝に残ると言う。
日本武尊が東征のおり、当社に祈願したと言われる。
治承4年(1180)源頼朝が社殿を再興し、以後
時の権力者による祈願、庇護、信仰が続く。
江戸時代には、寺領三百石を寄進されていた。
(さいたま市教育委員会)
(神楽殿の向こう側にあるのが、氷川神社の本殿)

ここでは旧中山道の古道(氷川神社表参道)を歩いてみる。
「武蔵一ノ宮」の石碑のすぐ後ろにある「一の鳥居」をくぐると、
古色蒼然としたケヤキやクスノキに覆われた参道が、
見渡す限り続いている。
中央は自動車道になっており、歩道は並木道の根元を避けながら歩くことになる。

すぐ左手に稲荷神社がある。赤い鳥居に奉納者の名前がでかでかと書いてある。
案内看板には「楢姫稲荷」とあるが、どんな姫を祀ったのか知らない。
鳥居の左側に享保7年(1722)建立の碑があり、
「是より宮まで18丁」としるされている。
並木道に、氷川神社、「一丁、二丁、三丁・・・」と間隔をあけて石碑が立っている。

やがて右側に庚申神社がある。街道沿いにたくさん見かける
庚申塔が小さな小屋に安置されている。
(楢姫稲荷)
(庚申神社)

さらに進むと左側に埼玉県合同庁舎があり、
周りは公園になっており、蒸気機関車と共に
大宮市を築いた「白井助七」の碑がある。

「大宮」の地名は、大宮に古くから鎮座する
氷川神社に由来すると言われている。
江戸時代に書かれた書物には、大宮と言う名前
(文字通り「大きな神社」)は大きな神社が立っていると
いうことで付けられたと記されています。
平安時代(794~1185)までに集落が神社周辺や
参道沿いに出来ました。
この集落が現在の大宮市の発祥なのです。
(さいたま市教育委員会)

その大宮に、東北本線が開通するや、
「白井助七」誘致により停車場が開設され、
以来鉄道の街として鉄道と共に発展してきた。
明治28年大宮町長となった「白井助七」よって、
現在の大宮市が築かれたといえます。
大宮市発展の歴史を象徴するものとして、
蒸気機関車と白井助七の碑を造り
功績を永く顕彰する。
(昭和45年  大宮市長)
(白井助七翁の碑)

参道はやがて「二の鳥居」に出るが、並木の大木が
繁っており鳥居は両脚しか見えない。
ここからは参道は石畳となり歩道となる。
車道は並木の外側に追い出される。
(二の鳥居)

(ケヤキの表参道)

(三の鳥居)

しばらく常夜灯とケヤキ並木が続き、「三の鳥居」が見える。
その奥が氷川神社である。
鳥居をくぐるとすぐ右側に能舞台があり、
その左手に「額殿」がある。
江戸時代に出来たこの額殿は、あまりにも古いため
地震があった時は、すぐに外へ出るよう大きく看板が出ている。
百年以上も前から、奉納者の額が掲げられており、
古いものはすでに墨書が消えてしまっている。

確認できる古い額は、皇紀2506年とあるが、
2600年が昭和15年(1940)であるから、
160年前のものだ。
(能舞台)

(江戸時代の額殿)

この額殿を右に見て進むと朱塗りの太鼓橋があり、
奥に神楽殿、その向こうに本殿が見える。
由緒ある神殿らしく荘厳であるが、明治神宮や
伊勢神宮ほど形式張っていない感じがするところが良い。

太鼓橋の手前を左折すると、裏参道へ出る。
形ばかりの裏参道、実はこれこそ旧中山道の
古道を思わせる道の広さである。
自動車一台通れれば良い道幅だ。
出たところに赤い鳥居があり、武蔵一ノ宮の石碑もある。
(太鼓橋)
(神楽殿より本殿を望む)
(裏参道の鳥居、左側が裏参道通り)
(裏参道通りの看板)

脇に現代の自動車道があるので、この道に沿って
左方に出ると旧中山道に到る。
裏参道通りであるが信号に出たところに、
「官幣大社 氷川神社」の石碑がある。
(官幣大社の石碑)

ここで旧中山道と合流し、旧中山道の古道は終わる。





お女郎地蔵と火の玉不動(旧中山道を歩く 33)

2005年05月04日 20時44分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「一葉」2005.Apr.25.荒川土手で撮影)

(お女郎地蔵と火の玉不動)
日本橋を後に旧中山道を歩いて、六日目(2004年10月11日)
長いインターバルの後に、浦和宿からスタート。
出発が遅れPM13:40与野駅を出発。

旧中山道浦和宿と大宮宿の、間の宿のしるしという
(一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡)
大きなケヤキの古木を右に見ながら中山道を進む。

すぐ立派なケヤキ並木の道路となり、
同時にケヤキ並木の外側に雲突くようなビル群が
目に付く。
(ケヤキ並木の旧中山道)

(さいたま新都心のビル群)

さいたま新都心。
平成13年(2001)浦和、大宮、与野の三市が合併。
「さいたま市」が誕生した。
旧大宮市がその中心になろうとしている。

このケヤキ並木の中ほど、右側の歩道上、
高台(たかだい)橋(ばし)の手前に「お女郎地蔵」と「火の玉不動」が
小さな屋根の下に並んで建っている。

さいたま市教育委員会によれば、
(昔、大宮宿の旅籠 柳屋には、千鳥、都鳥という
女郎姉妹がいた。二人は親に捨てられ、宿場の人に拾われ
育てられたが、養い親が長の患いで先立ち、借金だけが残った。
その借金の返済のために二人の姉妹は、柳屋に身を沈めた。

美しい姉妹は街道筋の評判になり、男冥利には、
一夜の仮寝の床を共にしたいと思わぬものはなかったという。
そんな中、宿場の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲になり、
末は夫婦にと約束を交わしたが、不運にも時の大盗賊、
神道徳次郎が見初め、身請けするという話になった。
柳屋の主人は、材木屋の若旦那のことを知っていたので、
一日のばしに返事を延ばすと、悪党の徳次郎は、
嫌がらせを散々したあげく、宿に火をつけると脅した。
千鳥はこれを知って、主家に迷惑は掛けられず、と言って
徳次郎の言いなりにもなれず、思い余って高台橋から身投げした。
以来、高台橋付近で人魂が飛ぶようになり、
近所の人が哀れんで地蔵像お建てた。
これを「お女郎地蔵」という。

「火の玉不動」
その頃、高台橋付近に火の玉が飛ぶのを付近の人が見かけた。
これは神道徳次郎に見初められ、橋から身投げした女郎
「千鳥」の霊魂だと言われたが、正体を突き止めようと
一人の男が、ある夜、松の木陰に隠れて火の玉に切りつけた。
「キャー」と声がして消えてしまった。暗闇を見据えると、
ものすごい形相をした男が立っていた。
「何者」と質すと「オレは不動明王だ」と言う。
「それなら剣を持っているはずだ」といえば
「剣は今お前が切り落としてしまった」と言って消えた。
翌日、高台橋へ行ってみると、石の不動様が怖い顔をして立っていたが、
なるほど剣を持っていなかった。
そのことがあって、この不動様を「火の玉不動」と呼ぶようになったと言われる。
高台橋付近には、昔刑場があり、大盗賊の神道徳次郎も御用になった末、
刑場の露と消えたと伝えられる。)
                 (さいたま市教育委員会)
(右がお女郎地蔵、左が火の玉不動)

(お女郎地蔵)

(欠けて見にくくなった火の玉不動)

街道を歩いていると、いろんな伝説に出会えて楽しい。