中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

沓掛時次郎(旧中山道を歩く 111)

2007年07月22日 09時05分24秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(案内標識を見て右の道を行く)

(沓掛宿)
旧軽井沢銀座を過ぎて前方に道路案内板が見える。
右方向が旧中山道とある。案内に従って進むと、道路の左右には別荘が並び、
深いから松の林になっている。道路は緩やかな下り勾配が続く。

碓氷峠に向かって、高崎から登り道路であった。
そして碓氷峠を過ぎると道路は下りになっているが、
この下りは一体何処まで続くのだろうか?


(下り勾配の唐松林の中を行く)

道路は右に左に緩やかにカーブを描き、深い森の中を進んでいる。
時々、男女が並ぶ道祖神を確認できるくらいで、特段お伝えする史跡も無い。
右側に見える小高い離山の裾を歩いている。
やがて国道と合流し、左側のしなの鉄道と平行して進む。


(信濃に入ってはじめて見る男女の道祖神、気のせいかやさしい表情)


(林の切れ間から覗く離山)

やがて中学校前の信号があり、ここで旧中山道は左折し、
しなの鉄道の踏み切りを渡る。最初の角を右折し道なりに進むと、
左側に川の流れが見え、橋を渡る。道路は川沿いにあり、しなの鉄道をくぐることになるが、
くぐる前に線路沿いを左折し、すこし坂を上ると道路脇に墓石群があり、
その端に、

「旧中仙道 宮乃前一里塚」(裏面に昭和49年)

と刻んだ石塔が建っている。
昔はこの一里塚前に中山道があったと思われるが、今ははしなの鉄道に遮られている。


(中学校前の信号、ここを左折踏切を渡る)


(上を走るのが、しなの鉄道、手前を左折する。一里塚を見たらここまで戻り直進する。)


(墓石群の中にある一里塚の石碑)


(一里塚の石碑、「宮乃前一里塚」と読める)

坂を戻って、しなの鉄道をくぐり川沿いに歩くと、国道に出る。
国道のすぐ右側、橋のたもとの道路脇に、長倉神社の石の鳥居と芝生の中に置いた石の一団が見える。
石群の中に道祖神があり鳥居をくぐって橋を渡ると、神社の広い境内に入る。

正面に神社はあるが、境内は長倉公園といい、神社の裏側はかなり広い。
本殿の左奥のほうに、長谷川伸作「沓掛時次郎」の碑がある。
沓掛宿の名を全国に有名にしたのはこの石碑と言う。


(長倉神社の鳥居)


(しめ縄をつけた道祖神)


(本殿を背に鳥居方向を撮る)


(奥に見えるのが神社の本殿、この左奥に沓掛時次郎碑がある。)


(沓掛時次郎を書いた長谷川伸の書になる石碑)

石碑には、
「千両万両枉(ま)げない意地も
人情からめば弱くなる
浅間三筋の煙りのもとで男 沓掛時次郎
長谷川伸 書」

(流行歌の一節が書かれている。
剣をとっては滅法強いが、義理と人情にはからきし弱い、男沓掛時次郎は、
中仙道街道筋の古い宿場、火の浅間に抱かれた「くつかけ」を背景に
作家長谷川伸(1884~1963)の筆によって生み出された架空の人物である。
「沓掛」は「中軽井沢」と言う名に変わったが、沓掛宿を偲ぶよすがとなろう。)とある。(沓掛商工会)

思えば、亡くなった母が映画好きで、4~5歳のころ母に手を引かれて、よく映画を見に行った。
映画の中には、片岡知恵蔵、大河内伝次郎、長谷川一夫などの俳優が演じる、
やくざ渡世の人情ものがあったが、林長次郎(長谷川一夫)演じる「沓掛時次郎」が記憶の中にある。
沓掛が土地の名前であることを知ったのは後のことである。
半世紀を越す、ずいぶん昔の話だ。そんなことを思いながら長倉神社を後にする。
「沓掛」の地名は、今は「中軽井沢」と名前を変えており、
「沓掛」の名残を残すのは、この沓掛時次郎の碑だけという。

その沓掛時次郎さえ知る人も少なくなった。


(中軽井沢の駅前)







別荘地「軽井沢」(旧中山道を歩く 110)

2007年07月16日 08時10分45秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

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(熊野神社前の餅屋さん)

(軽井沢宿)
熊野神社の階段を下り、 元祖力餅の「しげのや」を出ると、
中山道は信濃の国(長野県)に入り、峠を下った軽井沢が最初の宿場となる。

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(見晴台入り口)

道路は、すぐ旧中山道の案内看板に出会う。
見晴らし台方向に向かうと立派な門があり、その左手奥に、お手洗いがある。
ずいぶん立派なお手洗いである。
また右手の道路は見晴台に向かうが、すぐ左側に中部北陸自然遊歩道を示す案内看板があるので、
案内通り看板の正面を右折して、山の小道を軽井沢に向かって歩く。
これが旧中山道である。

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(良く整備された山道)

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(谷にかかる木橋)

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(歩道橋)

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(つり橋)

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(洒落た別荘、さすが軽井沢)

道路は一人しか通れない細い山道であるが、よく整備され苦も無く歩ける。
山下りであるが、軽井沢駅を16時代に出る汽車に間に合わせるには、時間が迫っており急ぐ。
谷沿いの細い道をどんどん降りていく。途中谷越えの小さな木橋を何度か越え、
舗装道路をまたぐ歩道橋を越え、やがて、つり橋に差し掛かるころから、辺りに別荘が見えてくる。
樹林の間を抜けると広い道路に出るが、下っている方向に歩く。
やがて橋があり「二手橋」とある。

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(軽井沢が近いと思わせる広い道路)

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(二手橋)

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(ショウの胸像と教会)

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(軽井沢の別荘第一号となったショウ・ハウス)

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(ショウの記念碑)

すこし先に、軽井沢を別荘地にした最初の外国人ショーの銅像やキリスト教会、
ショー記念碑、ショーハウスなどが道路右側にある。
さらにすぐ先の左側に芭蕉の句碑がある。

「アレクサンダー・クロフト・ショー(英国人)は明治19年キリスト教布教の途上この地を通り、
軽井沢の美しい自然と気候がスコットランドに似ているのに感銘し、
その後家族・友人と共に避暑に訪れた。
翌年も夏をすごして、ますます気に入り、保健と勉学の適地として推奨し、
翌明治21年旧軽井沢大塚山に簡素な別荘を建てる。
これが軽井沢別荘の最初のもので、今風の観光・保養地軽井沢をつくる基となった。」(軽井沢町)

日本の代表的な避暑地になる前の軽井沢は、
「寒きことはなはだしくて五穀生ぜず、ただ稗、蕎麦のみ多し」(木曽路名所絵図)あるように、
荒涼とした寒村であったらしい。

歌川広重描く浮世絵、木曽海道六十九次乃内 「軽井沢」は、
(漆黒の闇に覆われる時刻の景色で、月は見えない。
立ち昇る二つの焚き火の煙が印象的である。
焚き火から煙草の火を拝借したり、馬子とキセルの火のやり取りをしたり、
のんびりしたものである。馬の横腹のちょうちんの光が、
顔の辺りをポッと照らし出している)(中山道広重美術館)

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(蕨宿の「軽井沢」浮世絵タイル)

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(歌川広重描く浮世絵、木曽海道69次の内「軽井沢」)

地球の未開地の開拓には、宗教の布教が先駆者になっている例が目立つ。
たとえば、アフリカの探検家として知られるリビングストーンはキリスト教の布教に、
中央アジアの開拓者 リュブリックもフランシスコ会の修道士であり、
玄奘は仏教の教えを求めて未知の世界を旅している。
同じようにショーもキリスト教の布教で日本を訪ねて、軽井沢に故郷スコットランドを偲び避暑地とした。
未開地の開拓には尽きない好奇心が無ければならないが、
それ以上に困難と闘う強靭な精神力が必要になると思われる。
神や仏(ほとけ)に仕えるという信仰心が精神力を支えているのではないだろうか。
そうでなければ異国に一人で来て、開拓をすすめる困難に立ち向かうには、
かなりの覚悟が必要に思われる。

今ボクが一人で旧中山道を歩いているが、
言葉が通じ、
食べ物にも不自由なくどこででも求められることが解っていても、自分では初めての体験であり、
道が無いかもしれない、
道に迷い山中で遭難したらどうする、
体調は大丈夫だろうか、
暑さ、寒さの気温に負けないだろうか、
歩いているうちに倒れて最期になることは無かろうか、
などなど考える。
自国に居てさえこれだけの心配があるのに、
外国での活動は並大抵のものではあるまい。

話がそれてしまった、
(アレクサンダー・クロフト・ショーは軽井沢に礼拝堂を設け、
天地創造の神を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れる人々に広く開放している。
また、東隣には西洋風別荘を立て、軽井沢別荘の第1号を作り、
現在もショーハウスとして建物は残っている。)(軽井沢町)

芭蕉句碑には、

馬さへ ながむる 雪のあした哉   (芭蕉)

(芭蕉「野ざらし紀行」中の一句。
雪ふりしきる朝方 往来を眺めていると、多くの旅人がさまざま風をして通っていく。
人ばかりでない駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよ。
碑は天保14年(1843)当地の俳人によって建てられた。)(軽井沢町)とある。

芭蕉は、旧中山道上に沢山の句碑を残している。

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(芭蕉句碑)

芭蕉句碑の先に、軽井沢では、有名な「つるや」旅館がちょうちんに灯を入れて旅人を迎えている。
この先はレンガの石畳が続き、旧軽井沢銀座といわれる繁華街が続く。
途中右側に、神宮寺があり、樹齢350年のしだれ桜が健在である。
旧軽井沢銀座の終点(レンガ道路の終り)辺りに本陣があったようであるが、
今は何も確認できない。

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(つるや旅館)

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(ご存知の旧軽井沢銀座が先に続く)

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(神宮寺入り口)

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(樹齢350年のしだれ桜)

この先左に行けば軽井沢駅、斜め右に進むのが旧中山道で、
正面に道路の案内看板があるので判りやすい。

この先で沓掛宿(今は中軽井沢)に入る。

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(旧ロータリー、白い車の方向へ直進するのが旧中山道)

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(正面の案内看板、沓掛は今では中軽井沢)



碓氷峠の熊野神社(旧中山道を歩く 109)

2007年07月11日 09時39分12秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(熊野神社本殿県境の上に建つ。左側長野県、右側群馬県。)

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(熊出没の案内)

(坂本宿 最終章)

ここから子持ち山の南を巻くようにして、さらに長~い上り坂になるが、最後の急坂である。
途中、「一ツ家跡」、「子持ち山」の万葉の歌、「陣場が原」の古戦場、
熊野神社宮司の代々の墓、碓氷貞兼霊社(源頼光の四天王の一人貞光の父を祀る社)、
思婦石(おもふいし)などがある。

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(思婦石)

「思婦石は群馬郡室田の国学者 関橋守の作で、安政四年(1857)の建立。

ありし代に かへりみてふ 碓氷山 今も恋しき吾妻路のそら」と詠んだ歌碑である。

ここにも大きく「熊出没注意」の看板がある。
標高1190mの峠の頂上にある熊野神社は道なりに右に迂回するとまもなく見えてくる。

熊野神社の手前に、「赤門屋敷跡」の碑がある。
案内によれば、
(江戸幕府による諸大名の参勤交代で、浅間根越しの三宿「追分、沓掛、軽井沢」を経て碓氷峠に、
また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願をすませ、
この赤門屋敷でしばしのほど休息し、無事碓氷峠まで来たことを知らせる早飛脚を国許または江戸表へと走らせた。

この赤門屋敷は、加賀藩前田家の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があったので、赤門屋敷といった。
江戸時代終り文久元年(1861)和宮ご降嫁の節もこの赤門屋敷に休憩され、
明治11年明治天皇北陸東山道ご巡幸の折峠越えされた行列を最後に、
旅人は信越線または国道18号線へと移って行った。

上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり、
熊野神社より社家町「峠」も大きく変わり、赤門屋敷も朽ち果て屋敷址を残すのみとなった。
この屋敷は熊野神社代々の社家であり、峠開発の祖 曽根氏の屋敷でもあり、
心ある人からは由緒ある赤門「御守殿門」および格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている。

ここにあった赤門と同じものは、現在 東京都本郷の 「東大の赤門」で現存しており、
この門は文政10年(1827)加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍家斉(いえなり)の
息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門で重要文化財に指定されている。)
(熊野神社 宮司 曽根恒季)

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(熊野神社の赤門は朽ち果てた。これは東大の赤門)

文面を読んでいるうちに、
なんだか「赤門屋敷をどなたか再建してくれませんか?」
という依頼文みたいに感じるのはボクだけであろうか・・・

熊野神社前にある「安政の遠足 決勝点」の看板が面白い。
今風に言えばゴール地点と言うことだ。
また神社正面には道路を挟んで、ここまでご苦労様といわんばかりに、
力餅を商うお店が並んでいる。まさに打ってつけの配置で、有無を言わさずお店に入った。
お腹がすいているのである。「餡の餅」「黄粉もち」「からみ餅」などあるが、餡と黄粉の両方を頂いた。
お腹のすき具合から、一皿450円の値段に関わり無く、とても美味しく食べた。
よくよく考えればよいお値段である。

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(安政の遠足ゴールの看板)

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(何軒かある休憩所の元祖 力持ち屋)

熊野神社の階段を昇ると、左右に「石の風車」一対がある。

説明によれば、
(軽井沢問屋佐藤市右衛門および代官佐藤平八郎の両人が、
二世安楽祈願のため当社正面石畳を明暦3年(1657)築造した。
その記念にその子市右衛門は佐藤家の紋章源氏車を石に刻んで奉納したもの。
秋から冬にかけて風の強いところから、中山道往来の旅人が、
石の風車として親しみ、

「碓氷峠のある風車たれを待つやらくるくると」

と追分節に唄われ有名になった。)(軽井沢教育委員会)

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(石の風車)

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(熊野神社の階段、群馬長野の県境にもなっている)

熊野神社は、長野県と群馬県の境になっており、本宮が県境の上にあり、
新宮が群馬県側、那智宮が長野県側にある。

由緒は次の通りである。
(当社は県境にあり、ご由緒によれば、
日本武尊(やまとたける)が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれたとき、
ヤタ烏の道案内によって無事嶺に達することができたことにより熊野大神を祀ったと伝えられる。
碓氷峠に立って尊は雲海より連想される走水で入水された弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲ばれて

「吾嬬者耶(あずまはや)」

と嘆かれたという。(日本書紀より)
――中略――
鎌倉時代武士団の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
江戸時代には、諸大名を始め多くの人々が中山道を往来した。
関東の西端に位置し西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳信仰の聖地として、権現信仰が盛んになった。
「碓氷峠の権現様は、主のためには守り神」と唄われる追分節の元唄となり、熊野信仰が全国に伝わった。)

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(「吾嬬はや」と嘆いた場所)

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(群馬県が収めた古鐘はこの新宮の中にある)

ここにある「吾嬬はや」とは一体何のことかと、家に帰って調べたところ、次のようなことであった。

日本武尊は、景行天皇の皇子で、東征の折、この碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ) を偲び、
「吾嬬はや(おお我妻よ!)」と嘆いたと日本書紀にある。
嘆いた場所に案内看板があるが、真実のほどはいかがわしい。

なお、 弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に、海に身を捧げた日本武尊の妾である。
「おとたちばなのひめ」、「やたがらす」や「金鵄」など
子供の頃に母が語った日本神話を思い出す。

ここまで登っては来たが、登れば終りではないのが山登り、まだ下りが有る。
力持ち屋の女性に聞くと軽井沢まで1時間かかるという。
もう15時をまわっている。軽井沢から16時22分発東京行きの新幹線に間に合うか心配である。

それにしてもこの山登り、もう勘弁して欲しい。




続 碓氷峠の山登り(旧中山道を歩く 108)

2007年07月06日 08時25分17秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(谷が迫っており険しい山道。谷底が見えない)

(坂本宿7)
峠の熊野神社まであと6.4km地点から少し登りになるが、勾配は僅かである。
やがて「堀切」といい、道の両サイドが急な谷になっている場所を通る。
松井田町の補陀寺にお墓があった松井田城主 大道寺駿河守信繁が戦った場所といわれる。

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(南向馬頭観音)

道はだらだら下り坂になり、南向き馬頭観世音(施主 坂本宿 七之助とある)があり、
ここでは昔山賊が出たといわれる。
さらに進むと、北向き馬頭観世音を見ることが出来る。この観世音は文化十五年 信州善光寺 
施主は何名かの名の他に坂本宿世話人の名がある。

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(北向き馬頭観音。背景が南側で明るい)

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(山道の横は谷が深い)

馬頭観世音がある場所は通るのに危険なところにある。
昔は馬に荷駄をつけて、馬子が手綱を引いて登ったり降ったりしたのであろう。
山道の危険なところや事故があったところに、馬頭観世音を設置したものと思われる。
今ではこんな石ごろの山道でも、一応整備されているのだろうが、
昔はきっともっと道も狭く、重い荷駄を背負った馬も、ボクの足がうまく前に進まなかったように、
馬の足も重く、進まなかったに違いない。それでも馬子は仕事だから無理やり馬を前に進めて、
時には嫌がる馬の足がもつれたりして、谷底に落ちるというような悲劇もあったに違いない。
そこで馬子は馬頭観音像を建立して、苦労に報い浄土での安楽を祈ったのであろう。
そんな意味で、こうした馬頭観音が建っている場所は、危険な山道の印であること間違いない。

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(ごろ石の上り坂)

これら観世音像を横目に見て、進むと「座頭ころがし」という急坂に出る。
石がごろごろした登り道になる。
「座頭コロガシ」 盲人がが旅するのは並大抵のことではなかったであろう。
足場が悪く、急坂道を登り、ごろ石に足をとられて転ぶと転がるように
坂道を転げていったことだろう。そんなシーンを容易に思い浮かべることが出来る
ごろ石の坂道である。

所々に「熊出没注意」が張り出してある。
中山道口バス停からは、熊よけの鈴をリュックから出してチリンチリン言わせながら登ってきた。
野生の熊と鉢合わせした場合、どう対処したらよいか誰にも聞いてこなかった。
何よりも熊を刺激しないように、人間が近づいていることを知らせるために、
鈴をつけ、大声で歌を歌うのが最善とは、山深いカナダで聞いた話である。
熊は臆病だから、人が近づくことが解れば先に逃げ出してくれる、と聞いている。
それくらいの知識しかない超初心者のボクである。

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(熊注意)

のぼり坂で何度も立ち止まり、腰を下ろすことなく、立ったまま何度も何度も休憩しながら歩く。

もう先に進むのが嫌になる。誰かおんぶか抱っこしてくれないかと思う。
引き返すわけにもいかず、さりとて先は上り坂道、山の中ではタクシーもないし、
第一車が通れるような道ではない。助けられるとしたら、ヘリコプターしか乗り物は無理だろう。
二度と山登りなんかするものか・・・そのような思いが頭をよぎる。

「山中茶屋入り口の線刻の馬頭観音」のある場所を抜ける。
通らねばならぬきびしい山道を通り過ぎると下り坂になり、「山中茶屋」に出る。

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(上り坂)

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(線で刻んだ馬頭観音)

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(新緑の美しい山道を抜けると山中茶屋跡がある)

案内によれば、
「山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年中(1648~)に
峠町の人が川水を汲み上げるところに茶屋を開いた。
寛文二年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、力餅、わらび餅を名物にして、
寺もあり、茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
明治のころ小学校もあって、明治11年明治天皇北陸巡幸の節、
教育振興のため25人の生徒の奨学金として、金25両を下賜された。」
(松井田町教育委員会)

峠まで3kmとある。

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(山中茶屋跡の看板。左奥に建物の残骸が見える。)





碓氷峠の山登り(旧中山道を歩く 107)

2007年07月01日 09時18分42秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(峠まで8.3kmとある)

(坂本宿6)
国道18号線中山道口バス停にある「旧中山道ハイキングコース入り口」をスタート。
見上げると道はかなり急勾配である。デパートのエスカレーターほどの勾配があるし、
第一、登山道には足の大きさほどの石がごろごろして歩き難いことこの上も無い。

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(急勾配の上り坂)

地下鉄に乗って地上まで出るのに、階段を160段上がることがであるが、
今では途中で一服するか、止まらずに登れば,
100段くらいから歩行速度が半減しゆっくりになることを知っている。

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(階段があると上りにくく感じた)

その急勾配が50mほど続き左に折れると、また50mほど急坂道を登る。
上り始めてからしばらくして、峠まで残り8kmの案内があった。時計を見ると30分経過している。
中山道口バス停では峠まで8.3kmとあったからたかだか300mしか進んでいない。

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(堂峰番所跡の案内)

その先に堂峰番所跡の案内看板がある。碓氷の関所を通らないで
密入国する旅人を監視するのにもってこいの山の高い位置にあり、
加えて回りが見通せる場所であったろうと想像されるが、
急坂道を登るのに下を見て歩いてきたボクが頭を上げ、回りを見渡したが、
特段見通しが良い場所とは思えなかった。

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(歩きにくいゴロ石交じりの道)

石まじりの急勾配はさらに続く。
曲がりくねった場所のところどころに「安政の遠足」や「侍マラソン」の看板があり、
もう少し、もう少し、ガンバレ、ガンバレ、と元気付けてくれる。

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(「安政の遠足」の看板)

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’「侍マラソン」の案内)

足が棒のように感じられてくる。
腰を下ろして休憩したい衝動に駆られ、手ごろな岩を見つけて腰を下ろすが、
足が上手く折れ曲がってくれない。やっと腰を降ろすと腰が伸びない。
これで「山登りで腰を下ろして休んではいけない」と言う教訓がやっと理解できた。
ほんの僅かな時間、腰を下ろして立ち上がるが、立ち上がるのも容易ではない。

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(道は美しいが苦しい)

ゆっくりゆっくり坂道を登る。
登山映画で山登りをするシーンを見て、どうしてあんなにゆっくりなんだろうと思っていたが、
いざ自分で登ってみると、同じようにゆっくりになっているのが良く理解できる。

大学で登山部に居た友人に、出発前に道に迷ったときの注意をよく聞いておいたが、
それは中山道口バス停に至る前に一度体験して、
迷い込んだ道から思い切りよく、忠告に従って引き返して助かった。
もう一つの忠告は、山道を登るのは「ゆっくりゆっくり」が原則と教えてくれた。
ごろ石の道が続き、刎石坂(はねいしざか)の案内看板がある。
碓氷峠の中でも最大の難所で、南無阿弥陀仏、馬頭観音、大日尊の碑がある。

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(刎石坂の石像群)

あせらずゆっくり歩く。
すぐ、「上り地蔵下り地蔵」の案内看板がある。

(十返舎一九が

「たび人の 身をこにはたく なんじょみち、
                石のうすいの とうげなりとて」 

と刎石坂の険阻な道をうたった。刎石坂を上りつめたこの場所に旅人の安全を見つめて、
板碑のような地蔵があった)
とあるが、見渡しても何も見当たらない。

やがて道の左側が開け、はるか坂本宿が一望できるところへ出た。

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(坂本宿が一望できる「覗」ずいぶん高所に登ったことを実感できる)

ここがいわゆる「覗(のぞき)」。
なるほど木々の間から坂本宿の景観が絵を描いたように見える。
急坂を苦しんで得られる一服の清涼感である。
そこからまもなく山道は勾配が緩やかになり道には
ごろ石も無くなり少し歩きやすくなる。

右手に弘法の井戸と書いた看板があり、井戸がわらぶきの屋根で覆われている。
「弘法の井戸」である。
弘法大師がここを掘れば水が出るといわれ掘ると水が湧き出たと言う。

山の頂き近く井戸を掘っても水は出そうにも無いところだ。
脇に水を汲む柄杓が置いてあるので、水を掬ってみる。
きれいな水である。
現代のようにペットボトルの水が無かったろうから、山の中で旅人は喉を潤したに違いない。

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(弘法の井戸)

その先に刎石茶屋跡があり、石垣やお墓が今も残ると案内にあるが、
石垣は確認できても、お墓を確認することは出来なかった。
すぐその先に大昔の碓氷関所跡と思われる場所の案内看板がある。

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(茶屋跡の石垣)

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(関所跡らしい平坦地)

碓氷関所跡の項で書いたが、元の碓氷関所は
昌泰二年(899)に群盗を取り締まるために設けられた。
その場所は関長原といわれ碓氷山麓のここであると推定される。

なるほど言われてみれば、碓氷の山道にこれだけ広い平坦地は見当たらない。
ずいぶん広く今は杉が沢山植えてある。
ここが元碓氷関所跡といわれれば納得できる場所である。

その先に休憩場所があるので一服し、汗を乾かす。
峠の熊野神社まで6.4kmとある。

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(休憩所)

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(あと6.4kmの案内)

時計を見ると中山道口バス停からは,
2時間が経過している。

たった2kmしか進んでいない。
先が思いやられる。