(会所沢の石碑)
(中津川宿 6)
旧中山道を進む。
左手の高みに地蔵尊などの石造物がある。
「会所沢の石碑」である。旅の安全を祈願したものであろうか。
旧中山道の道路は白と黄土色を混ぜたアスファルトになっており、
これは落合宿から続いているが、
所々切れて、また始まると言う具合に続いている。
どこまで続くのか楽しみでもある。
(旧中山道の白と黄土色の石を混ぜたアスファルト)
(右折して登り坂)
道路は道なりに右折して登り坂になっている。
さらに左に折れて進むと、
広い道路と交差しその先の、
白と黄土色を混ぜたアスファルト道路もなくなっており、
中山道の案内も無い。
まっすぐ進むべきか曲がるべきか、悩む。
右手のガードレールのカーブミラーの柱に
「中山道の矢印」を発見し、直進する。
道路の先には右側にコンビニがある。
進むと左手に「小石塚の立場跡」の碑を発見。
中津川宿と大井宿の間の茶屋があったのであろう。
(中山道の矢印)
(道路を渡った先のコンビニ)
(小石塚の立場跡)
(下り坂の突き当たりにある案内)
(案内図に従って進む)
道路はその先で下りになり突き当たりになっている。
突き当たった所に立て看板があり、
「歴史の道 中山道」の案内がある。
中津川市教育委員会によると
(ここから400mの間は、道路改良のため
昔の中山道の面影を残していません。)ので
案内にしたがって、進むことにする。
案内看板の裏側が階段になっているので、
階段を降りていく。
{中山道左}の案内の通りに進む。
道路を渡って向こう側にもう一つの
{中山道左}の案内があり、それに従って進むと、
図に示されたような場所に出る。
(案内の裏の階段)
(中山道の案内矢印)
(案内図の関係が良く判る)
そのまま大井宿に向って進むと、
「歴史の道 中山道」直進の青い案内があるのでホッとする。
少し進むと、右手の塀の切れた所に石灯籠が立っているが、
灯籠の籠面に六地蔵が彫りこまれている。
普通、寺の門前に六体の地蔵が安置されているが、
ここには六地蔵を彫刻した石憧を代わりに安置したものと思われる。
明暦三年(1657)の銘が施されている。
また、道路反対側には六地蔵のバス停がある。
(灯籠の六面に地蔵さんが彫ってある)
(六地蔵バス停)
しばらく歩くと右側に坂本神社八幡宮の石碑があり、
道路の奥のほうに石の鳥居が見える。とても綺麗な神社である。
中山道はその先左側に、旅の安全を願ったものであろう、
馬頭観音像が二基並んでおり、
これは「かじや平の石造群」と呼ばれている。
(坂本神社)
(手入れの行き届いたとても綺麗な神社)
(かじや平の石造群)
(Y字路、右がJR美濃坂本駅方面)
(中平の常夜灯)
(中山道の青い案内)
道路はこの先で、Y字路に分かれているが、
中山道は左の道をとる。直進するとJR美濃坂本駅にでる。
田や畑ののどかな道を行くと田んぼの中に常夜灯が立っている。
「中平の常夜灯」と言われるものである。
昔は、この近辺は田や畑のみで目標物がなく建てられたものであろう。
中山道はしばらく青い案内板に沿って土の道を歩く。
少しずつ登り坂になって田舎の山道になる。
田舎道をしばらく進むと、右手に将監塚と書いた場所に出る。
ここ坂本地区文化遺産保存会によると、
(岡田将監善同は慶長18年(1613)より寛永八年(1632)まで
二代目美濃代官でありました。
将監善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を
名乗ったこともありましたが、
関が原では東軍(徳川方)に属す。
慶長六年(1601)六月采地 五千石与えられ可児郡姫村に住み、
慶長十年(1811)から初代美濃代官の大久保長安の配下であったことから
長安死後二代目美濃代官になる。
当時大井村には築城の「材木番所」があり、
木曾材持出奉行として当地に駐在。
将監善同の子善政も寛永八年(1631)父の死後、美濃代官を務めろ。
――中略――
恵那郡史には、岡田将監の墓と伝えるものが三ツ屋地内にあり、
旧中山道の北の小丘で五輪の石塔(実際は宝篋印塔)が建っている。
これを「ショウグン塚」と呼んでいるが
「将監(ショウゲン)塚」のなまったものであろうと記されている。
この付近には将監乗馬の塚というものがあり、
地名を岡田と言うことも記されている。)とある。
写真が悪くて申し訳ありませんが、
将監塚をみると中央に見えるのが石灯篭で、
その右に僅かに五輪塔らしきものが見えますでしょうか。
(ショウゲン塚)
中山道はその先で広い道路と交差するが、
交差する手前右側に「三ツ家の一里塚」跡の碑がある。
反対側を覗いたが、塚らしきものは無い。
江戸から86番目の一里塚で、片方だけが残っている。
(86番目の一里塚跡)
(道路反対側には塚らしきものが確認できなかった)
(秋らしく紅葉が美しい)