(東門)
(高崎宿2)
高崎城記の石碑の近く、その真向かいにある東門は、
その由来によると、
高崎城には16の城門があったが、その中、本丸門、刎橋門、東門は
平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として
使われていた。この門は、寛政十年(1798)と天保12年(1843)の
二度の火災により焼失し、現在のように建て直されたもの。
くぐり戸は、乗篭が通れるようになっている。
門は築城当時より低く出来ており、乗馬のままでは通れない。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、
高崎市下小鳥町の梅山大作氏の門となっていた。(高崎市教育委員会)
(美しい三の丸土塁)
また、高崎市指定史跡となっている高崎城三の丸土塁は、とても美しい風情を残しています。
「箕輪城(高崎城)に封ぜられた井伊直政は家康の命により、
慶長3年(1598)中山道と三國街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが
高崎藩おこりです。
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させ城下町の基礎を築きました。
今は三の丸の土塁と堀が残っているだけですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、
二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。
また、遠構えとよぶ城下町を囲む堀と土塁を築きました。
明治四年の廃藩まで273年間、高崎の歴史は高崎藩政
を中心に展開したといっても過言ではない。」とある。
(高崎市教育委員会)
その高崎城の遺構もさることながら、何よりも中山道を歩いている間中
気になっていた、ライトブルーの美しい高層ビルが目の前にある。
これが高崎市庁舎である。
高崎のシンボルといえば、以前は白衣の観音像であったが、
いまやこの高崎市庁舎が取って代わっている。
(憩いの場となっている公園)
この高崎市庁舎の南側に広場があり、その先に高崎公園がある。
園内には各種の木が植えられて市民の憩いの場となっており、
老若男女が散策していた。公園を入って右手の西の端、国道17号に
隣接するあたりに、樹齢380年の木蓮の木が目立った存在になっている。
ボクが訪ねたときは、木蓮はすでに新緑であったが、早春の花が満開のときは、
さぞ美しいものと思われる。
(樹齢380年の木蓮)
(頼政神社。左側は国道17号線)
その高崎公園のさらに南に位置するところに、ひっそりと頼政神社がある。
(高崎宿2)
高崎城記の石碑の近く、その真向かいにある東門は、
その由来によると、
高崎城には16の城門があったが、その中、本丸門、刎橋門、東門は
平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として
使われていた。この門は、寛政十年(1798)と天保12年(1843)の
二度の火災により焼失し、現在のように建て直されたもの。
くぐり戸は、乗篭が通れるようになっている。
門は築城当時より低く出来ており、乗馬のままでは通れない。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、
高崎市下小鳥町の梅山大作氏の門となっていた。(高崎市教育委員会)
(美しい三の丸土塁)
また、高崎市指定史跡となっている高崎城三の丸土塁は、とても美しい風情を残しています。
「箕輪城(高崎城)に封ぜられた井伊直政は家康の命により、
慶長3年(1598)中山道と三國街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが
高崎藩おこりです。
直政は箕輪から町屋や寺院を移転させ城下町の基礎を築きました。
今は三の丸の土塁と堀が残っているだけですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、
二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。
また、遠構えとよぶ城下町を囲む堀と土塁を築きました。
明治四年の廃藩まで273年間、高崎の歴史は高崎藩政
を中心に展開したといっても過言ではない。」とある。
(高崎市教育委員会)
その高崎城の遺構もさることながら、何よりも中山道を歩いている間中
気になっていた、ライトブルーの美しい高層ビルが目の前にある。
これが高崎市庁舎である。
高崎のシンボルといえば、以前は白衣の観音像であったが、
いまやこの高崎市庁舎が取って代わっている。
(憩いの場となっている公園)
この高崎市庁舎の南側に広場があり、その先に高崎公園がある。
園内には各種の木が植えられて市民の憩いの場となっており、
老若男女が散策していた。公園を入って右手の西の端、国道17号に
隣接するあたりに、樹齢380年の木蓮の木が目立った存在になっている。
ボクが訪ねたときは、木蓮はすでに新緑であったが、早春の花が満開のときは、
さぞ美しいものと思われる。
(樹齢380年の木蓮)
(頼政神社。左側は国道17号線)
その高崎公園のさらに南に位置するところに、ひっそりと頼政神社がある。