(舟つなぎ石)
(塩名田宿)
塩名田の交差点から西に進み、千曲川までが塩名田宿である。
天保14年の記録によれば、町内は東西4町(約440m)と小さな町で、
今も古い寂れた感じの町が残っている。
町の中ほどに、塩名田宿本陣・問屋跡の標柱があり、本陣を勤めた丸山家が現存している。
(塩名田宿本陣・問屋跡)
広重描く浮世絵「木曽海道六十九次の内 塩なた」にあるように、
千曲川は大きな川幅を持つ川である。絵は、時刻は早朝、渡し場の茶屋で、
仕事の始まるのを待つ船頭の一群とそこに合流する三人が描かれている。
(広重描く浮世絵「塩名田宿」蕨宿にあったタイルより)
(広重画く浮世絵 木曽海道69次之内 「塩名田宿」)
塩名田の町は小さく、すぐ道路は左へ大きくカーブしているが、
カーブする右角に、旧中山道の案内標柱があるので、案内に従って
右のわき道に入るとすぐ千曲川に出る。
川岸に出ると河原に妙な形の岩があり、岩のてっぺんに孔がある。
「船つなぎ石」という。昔千曲川を渡るのに、船をつなぎ、その上に
渡した板の上を歩いて川を渡った。その船をつないだ石である。
(道路は左へカーブするが旧中山道は右側を行く)
(河原にある舟つなぎ石)
今は、左上に立派な橋が架かっているのが見えるが、
先ほど左へ大きくカーブした広い道路がこの橋に通じている。
橋は中津橋といい自動車専用道路で、橋の左側に歩行者用の道路が作られている。
対岸の「御馬寄(みまよせ)」(地名)の橋の袂に、小公園があって、
塩名田の「舟つなぎ石」の説明が書いてある。
(右が車専用の中津橋)
(中津橋の歩道橋のマーク、上の写真の左側が歩行者用)
(塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。
今は頑丈な中津橋が架けられているから、何の支障も無いが、
江戸時代にはここを渡るのは大変であった。橋を架けてもすぐ洪水で流されてしまうからである。
しかもここは江戸時代の主要街道の一つ中山道であったため、
橋が流されたからといって、いつまでも放置することができなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、
渡川を確保するために大変な苦労をした。
「中山道千曲川往還橋」木内寛著によれば、
・~享保5年(1722)御馬寄側が投げ渡し橋・塩名田側が平橋で
両側から中州へ架橋
・~寛保2年(1743)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~寛延2年(1750)舟渡し
・~享和2年(1803)御馬寄側跳ね橋・塩灘側が平橋
・~明治5年(1873)長さ70間の平橋
このように江戸時代を通じて架橋方式がたびたび変わったのは、
千曲川が「近郷無類の荒川」であり、2,3年に一回以上の割合で
橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による
「千曲川橋組合」での維持管理方式が継続不可能になってしまった。
そこでつくられたのが船橋会社で、明治6年(1873)に
船橋(九艘の舟をつないで、その上に板を架け渡して橋とした)が
架けられ、渡川が確保された。「舟つなぎ石」はその船橋の舟をつなぎとめたもので、
だから石の上部に穴があけられている。
明治25年県によって木橋がかけられ、船橋の役割は終わった。)
(浅科村教育委員会)
中津川橋を渡って中山道は西に向かうが、道路は長い上り坂が続く。
(中津橋を渡った御馬寄)
(古い民家と上り坂)