中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

碓氷峠の熊野神社(旧中山道を歩く 109)

2007年07月11日 09時39分12秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10702791
(熊野神社本殿県境の上に建つ。左側長野県、右側群馬県。)

P10702681
(熊出没の案内)

(坂本宿 最終章)

ここから子持ち山の南を巻くようにして、さらに長~い上り坂になるが、最後の急坂である。
途中、「一ツ家跡」、「子持ち山」の万葉の歌、「陣場が原」の古戦場、
熊野神社宮司の代々の墓、碓氷貞兼霊社(源頼光の四天王の一人貞光の父を祀る社)、
思婦石(おもふいし)などがある。

P10702661
(思婦石)

「思婦石は群馬郡室田の国学者 関橋守の作で、安政四年(1857)の建立。

ありし代に かへりみてふ 碓氷山 今も恋しき吾妻路のそら」と詠んだ歌碑である。

ここにも大きく「熊出没注意」の看板がある。
標高1190mの峠の頂上にある熊野神社は道なりに右に迂回するとまもなく見えてくる。

熊野神社の手前に、「赤門屋敷跡」の碑がある。
案内によれば、
(江戸幕府による諸大名の参勤交代で、浅間根越しの三宿「追分、沓掛、軽井沢」を経て碓氷峠に、
また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願をすませ、
この赤門屋敷でしばしのほど休息し、無事碓氷峠まで来たことを知らせる早飛脚を国許または江戸表へと走らせた。

この赤門屋敷は、加賀藩前田家の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があったので、赤門屋敷といった。
江戸時代終り文久元年(1861)和宮ご降嫁の節もこの赤門屋敷に休憩され、
明治11年明治天皇北陸東山道ご巡幸の折峠越えされた行列を最後に、
旅人は信越線または国道18号線へと移って行った。

上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり、
熊野神社より社家町「峠」も大きく変わり、赤門屋敷も朽ち果て屋敷址を残すのみとなった。
この屋敷は熊野神社代々の社家であり、峠開発の祖 曽根氏の屋敷でもあり、
心ある人からは由緒ある赤門「御守殿門」および格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている。

ここにあった赤門と同じものは、現在 東京都本郷の 「東大の赤門」で現存しており、
この門は文政10年(1827)加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍家斉(いえなり)の
息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門で重要文化財に指定されている。)
(熊野神社 宮司 曽根恒季)

P10007251
(熊野神社の赤門は朽ち果てた。これは東大の赤門)

文面を読んでいるうちに、
なんだか「赤門屋敷をどなたか再建してくれませんか?」
という依頼文みたいに感じるのはボクだけであろうか・・・

熊野神社前にある「安政の遠足 決勝点」の看板が面白い。
今風に言えばゴール地点と言うことだ。
また神社正面には道路を挟んで、ここまでご苦労様といわんばかりに、
力餅を商うお店が並んでいる。まさに打ってつけの配置で、有無を言わさずお店に入った。
お腹がすいているのである。「餡の餅」「黄粉もち」「からみ餅」などあるが、餡と黄粉の両方を頂いた。
お腹のすき具合から、一皿450円の値段に関わり無く、とても美味しく食べた。
よくよく考えればよいお値段である。

P10702751
(安政の遠足ゴールの看板)

P10702771
(何軒かある休憩所の元祖 力持ち屋)

熊野神社の階段を昇ると、左右に「石の風車」一対がある。

説明によれば、
(軽井沢問屋佐藤市右衛門および代官佐藤平八郎の両人が、
二世安楽祈願のため当社正面石畳を明暦3年(1657)築造した。
その記念にその子市右衛門は佐藤家の紋章源氏車を石に刻んで奉納したもの。
秋から冬にかけて風の強いところから、中山道往来の旅人が、
石の風車として親しみ、

「碓氷峠のある風車たれを待つやらくるくると」

と追分節に唄われ有名になった。)(軽井沢教育委員会)

P10702811
(石の風車)

P10702781
(熊野神社の階段、群馬長野の県境にもなっている)

熊野神社は、長野県と群馬県の境になっており、本宮が県境の上にあり、
新宮が群馬県側、那智宮が長野県側にある。

由緒は次の通りである。
(当社は県境にあり、ご由緒によれば、
日本武尊(やまとたける)が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれたとき、
ヤタ烏の道案内によって無事嶺に達することができたことにより熊野大神を祀ったと伝えられる。
碓氷峠に立って尊は雲海より連想される走水で入水された弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲ばれて

「吾嬬者耶(あずまはや)」

と嘆かれたという。(日本書紀より)
――中略――
鎌倉時代武士団の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
江戸時代には、諸大名を始め多くの人々が中山道を往来した。
関東の西端に位置し西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳信仰の聖地として、権現信仰が盛んになった。
「碓氷峠の権現様は、主のためには守り神」と唄われる追分節の元唄となり、熊野信仰が全国に伝わった。)

P10702881
(「吾嬬はや」と嘆いた場所)

P10702841
(群馬県が収めた古鐘はこの新宮の中にある)

ここにある「吾嬬はや」とは一体何のことかと、家に帰って調べたところ、次のようなことであった。

日本武尊は、景行天皇の皇子で、東征の折、この碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ) を偲び、
「吾嬬はや(おお我妻よ!)」と嘆いたと日本書紀にある。
嘆いた場所に案内看板があるが、真実のほどはいかがわしい。

なお、 弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に、海に身を捧げた日本武尊の妾である。
「おとたちばなのひめ」、「やたがらす」や「金鵄」など
子供の頃に母が語った日本神話を思い出す。

ここまで登っては来たが、登れば終りではないのが山登り、まだ下りが有る。
力持ち屋の女性に聞くと軽井沢まで1時間かかるという。
もう15時をまわっている。軽井沢から16時22分発東京行きの新幹線に間に合うか心配である。

それにしてもこの山登り、もう勘弁して欲しい。




続 碓氷峠の山登り(旧中山道を歩く 108)

2007年07月06日 08時25分17秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10702331
(谷が迫っており険しい山道。谷底が見えない)

(坂本宿7)
峠の熊野神社まであと6.4km地点から少し登りになるが、勾配は僅かである。
やがて「堀切」といい、道の両サイドが急な谷になっている場所を通る。
松井田町の補陀寺にお墓があった松井田城主 大道寺駿河守信繁が戦った場所といわれる。

P10702321_1
(南向馬頭観音)

道はだらだら下り坂になり、南向き馬頭観世音(施主 坂本宿 七之助とある)があり、
ここでは昔山賊が出たといわれる。
さらに進むと、北向き馬頭観世音を見ることが出来る。この観世音は文化十五年 信州善光寺 
施主は何名かの名の他に坂本宿世話人の名がある。

P10702371
(北向き馬頭観音。背景が南側で明るい)

P10702351
(山道の横は谷が深い)

馬頭観世音がある場所は通るのに危険なところにある。
昔は馬に荷駄をつけて、馬子が手綱を引いて登ったり降ったりしたのであろう。
山道の危険なところや事故があったところに、馬頭観世音を設置したものと思われる。
今ではこんな石ごろの山道でも、一応整備されているのだろうが、
昔はきっともっと道も狭く、重い荷駄を背負った馬も、ボクの足がうまく前に進まなかったように、
馬の足も重く、進まなかったに違いない。それでも馬子は仕事だから無理やり馬を前に進めて、
時には嫌がる馬の足がもつれたりして、谷底に落ちるというような悲劇もあったに違いない。
そこで馬子は馬頭観音像を建立して、苦労に報い浄土での安楽を祈ったのであろう。
そんな意味で、こうした馬頭観音が建っている場所は、危険な山道の印であること間違いない。

P10702151
(ごろ石の上り坂)

これら観世音像を横目に見て、進むと「座頭ころがし」という急坂に出る。
石がごろごろした登り道になる。
「座頭コロガシ」 盲人がが旅するのは並大抵のことではなかったであろう。
足場が悪く、急坂道を登り、ごろ石に足をとられて転ぶと転がるように
坂道を転げていったことだろう。そんなシーンを容易に思い浮かべることが出来る
ごろ石の坂道である。

所々に「熊出没注意」が張り出してある。
中山道口バス停からは、熊よけの鈴をリュックから出してチリンチリン言わせながら登ってきた。
野生の熊と鉢合わせした場合、どう対処したらよいか誰にも聞いてこなかった。
何よりも熊を刺激しないように、人間が近づいていることを知らせるために、
鈴をつけ、大声で歌を歌うのが最善とは、山深いカナダで聞いた話である。
熊は臆病だから、人が近づくことが解れば先に逃げ出してくれる、と聞いている。
それくらいの知識しかない超初心者のボクである。

P10702451
(熊注意)

のぼり坂で何度も立ち止まり、腰を下ろすことなく、立ったまま何度も何度も休憩しながら歩く。

もう先に進むのが嫌になる。誰かおんぶか抱っこしてくれないかと思う。
引き返すわけにもいかず、さりとて先は上り坂道、山の中ではタクシーもないし、
第一車が通れるような道ではない。助けられるとしたら、ヘリコプターしか乗り物は無理だろう。
二度と山登りなんかするものか・・・そのような思いが頭をよぎる。

「山中茶屋入り口の線刻の馬頭観音」のある場所を抜ける。
通らねばならぬきびしい山道を通り過ぎると下り坂になり、「山中茶屋」に出る。

P10702501
(上り坂)

P10702521
(線で刻んだ馬頭観音)

P10702531
(新緑の美しい山道を抜けると山中茶屋跡がある)

案内によれば、
「山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年中(1648~)に
峠町の人が川水を汲み上げるところに茶屋を開いた。
寛文二年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、力餅、わらび餅を名物にして、
寺もあり、茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
明治のころ小学校もあって、明治11年明治天皇北陸巡幸の節、
教育振興のため25人の生徒の奨学金として、金25両を下賜された。」
(松井田町教育委員会)

峠まで3kmとある。

P10702541
(山中茶屋跡の看板。左奥に建物の残骸が見える。)





碓氷峠の山登り(旧中山道を歩く 107)

2007年07月01日 09時18分42秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701971_1
(峠まで8.3kmとある)

(坂本宿6)
国道18号線中山道口バス停にある「旧中山道ハイキングコース入り口」をスタート。
見上げると道はかなり急勾配である。デパートのエスカレーターほどの勾配があるし、
第一、登山道には足の大きさほどの石がごろごろして歩き難いことこの上も無い。

P10701981
(急勾配の上り坂)

地下鉄に乗って地上まで出るのに、階段を160段上がることがであるが、
今では途中で一服するか、止まらずに登れば,
100段くらいから歩行速度が半減しゆっくりになることを知っている。

P10701991
(階段があると上りにくく感じた)

その急勾配が50mほど続き左に折れると、また50mほど急坂道を登る。
上り始めてからしばらくして、峠まで残り8kmの案内があった。時計を見ると30分経過している。
中山道口バス停では峠まで8.3kmとあったからたかだか300mしか進んでいない。

P10702031
(堂峰番所跡の案内)

その先に堂峰番所跡の案内看板がある。碓氷の関所を通らないで
密入国する旅人を監視するのにもってこいの山の高い位置にあり、
加えて回りが見通せる場所であったろうと想像されるが、
急坂道を登るのに下を見て歩いてきたボクが頭を上げ、回りを見渡したが、
特段見通しが良い場所とは思えなかった。

P10702431
(歩きにくいゴロ石交じりの道)

石まじりの急勾配はさらに続く。
曲がりくねった場所のところどころに「安政の遠足」や「侍マラソン」の看板があり、
もう少し、もう少し、ガンバレ、ガンバレ、と元気付けてくれる。

P10702001
(「安政の遠足」の看板)

P10702041
’「侍マラソン」の案内)

足が棒のように感じられてくる。
腰を下ろして休憩したい衝動に駆られ、手ごろな岩を見つけて腰を下ろすが、
足が上手く折れ曲がってくれない。やっと腰を降ろすと腰が伸びない。
これで「山登りで腰を下ろして休んではいけない」と言う教訓がやっと理解できた。
ほんの僅かな時間、腰を下ろして立ち上がるが、立ち上がるのも容易ではない。

P10702011
(道は美しいが苦しい)

ゆっくりゆっくり坂道を登る。
登山映画で山登りをするシーンを見て、どうしてあんなにゆっくりなんだろうと思っていたが、
いざ自分で登ってみると、同じようにゆっくりになっているのが良く理解できる。

大学で登山部に居た友人に、出発前に道に迷ったときの注意をよく聞いておいたが、
それは中山道口バス停に至る前に一度体験して、
迷い込んだ道から思い切りよく、忠告に従って引き返して助かった。
もう一つの忠告は、山道を登るのは「ゆっくりゆっくり」が原則と教えてくれた。
ごろ石の道が続き、刎石坂(はねいしざか)の案内看板がある。
碓氷峠の中でも最大の難所で、南無阿弥陀仏、馬頭観音、大日尊の碑がある。

P10702071
(刎石坂の石像群)

あせらずゆっくり歩く。
すぐ、「上り地蔵下り地蔵」の案内看板がある。

(十返舎一九が

「たび人の 身をこにはたく なんじょみち、
                石のうすいの とうげなりとて」 

と刎石坂の険阻な道をうたった。刎石坂を上りつめたこの場所に旅人の安全を見つめて、
板碑のような地蔵があった)
とあるが、見渡しても何も見当たらない。

やがて道の左側が開け、はるか坂本宿が一望できるところへ出た。

P10702111
(坂本宿が一望できる「覗」ずいぶん高所に登ったことを実感できる)

ここがいわゆる「覗(のぞき)」。
なるほど木々の間から坂本宿の景観が絵を描いたように見える。
急坂を苦しんで得られる一服の清涼感である。
そこからまもなく山道は勾配が緩やかになり道には
ごろ石も無くなり少し歩きやすくなる。

右手に弘法の井戸と書いた看板があり、井戸がわらぶきの屋根で覆われている。
「弘法の井戸」である。
弘法大師がここを掘れば水が出るといわれ掘ると水が湧き出たと言う。

山の頂き近く井戸を掘っても水は出そうにも無いところだ。
脇に水を汲む柄杓が置いてあるので、水を掬ってみる。
きれいな水である。
現代のようにペットボトルの水が無かったろうから、山の中で旅人は喉を潤したに違いない。

P10702161
(弘法の井戸)

その先に刎石茶屋跡があり、石垣やお墓が今も残ると案内にあるが、
石垣は確認できても、お墓を確認することは出来なかった。
すぐその先に大昔の碓氷関所跡と思われる場所の案内看板がある。

P10702201
(茶屋跡の石垣)

P10702231
(関所跡らしい平坦地)

碓氷関所跡の項で書いたが、元の碓氷関所は
昌泰二年(899)に群盗を取り締まるために設けられた。
その場所は関長原といわれ碓氷山麓のここであると推定される。

なるほど言われてみれば、碓氷の山道にこれだけ広い平坦地は見当たらない。
ずいぶん広く今は杉が沢山植えてある。
ここが元碓氷関所跡といわれれば納得できる場所である。

その先に休憩場所があるので一服し、汗を乾かす。
峠の熊野神社まで6.4kmとある。

P10702261
(休憩所)

P10702271
(あと6.4kmの案内)

時計を見ると中山道口バス停からは,
2時間が経過している。

たった2kmしか進んでいない。
先が思いやられる。


碓氷峠入り口(旧中山道を歩く 106)

2007年06月26日 08時15分58秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701781
(上の木戸跡)

P10701811
(八幡神社)

(坂本宿5)
坂本宿の街はずれに「上の木戸」があり、その先に八幡神社の赤い鳥居が見える。
鳥居の前に芭蕉句碑があり、常夜灯の台石だけがある。
芭蕉句碑には

ひとつ脱ひて 後ろにおいぬ 衣かへ (芭蕉)

「寛政年間、坂本宿の俳人春秋白雄先生に依頼して選句、書いてもらったもので、
句の内容は碓氷峠のものでなく、木曽路下りのものである。
句碑は碓氷峠の刎石山にあったものを明治年間に移動のため現在地に移転した。
当時の宿駅文化の盛況を知る上でよい資料である」(松井田町教育委員会)

ボクが碓氷峠を登った経験から考えると、芭蕉の句の意味は
(坂道が急勾配過ぎて、汗を流したので、衣服を一枚脱いで、
背負ったリュックから別のものを取り出して、着替えましたよ)となる。
当時はリュックは無かったであろうから笈(おい)でも背負っていたのであろうか?

P10701791
(芭蕉句碑)

P10701771
(常夜灯台石)

P10701821
(双体道祖神)

八幡宮前の道路をはさんだ向側に、青松寺の阿弥陀堂があることになっているが、見当たらない。
阿弥陀堂と書いた門はあり、お墓が並んでいる。
享保八年の念仏供養塔と並んだ地蔵尊、寛政十一年の庚申塔が目に付いた。

P10701871
(阿弥陀堂の門、念仏供養塔と地蔵尊)

P10701881
(庚申塔)

この先国道18号は、大きく右にカーブしていくが、旧中山道は左脇の道に入る。
直進すると浄水場の中を抜ける土の道になり、
すこし進むとU字溝の上を歩くことになる。左側は杉林で、これが旧中山道かと疑わしくなるような道だ。
U字溝は崖に突き当たる。上を見上げると国道18号のガードレールが見えるが、
いずれこの国道を横切ることになる。

P10701891
(国道の左脇に入る道)

P10701901
(左脇は杉林、U字溝の上を歩く)

P10701911
(突き当たり地点を直角に左折)

P10701921
(道なき道を進む)

ここで直角に左折し、おおげさであるが草むらの道なき道を歩く。
6~70mほどで右側に上る木の階段があるので、ここを右折し階段を登る。

ここで決して直進してはならない。

(ここでボクは直進して、100mも進まないうちに道は下りになった。
碓氷峠へ上りのはずだから、間違ったと思い引き返した。
この箇所については、旧中山道の案内書のどれにも詳しく記されていない。
山と渓谷社の「中山道を歩く」では(国道18号を採るコース)になっているし、
学研文庫の「中山道を歩く」では、「草むらの道になる。右手に浄水場を見て登る」としか載っていない。
浄水場を右に見て進む道は、地図を見ると、坂本宿の南側への下り道で、坂本宿へ戻って行ってしまう。
正しい地図は群馬中山道街道ルネッサンス協議会発行の地図が正しいのであるが、
地図が大まかで浄水場の中の路を歩くとは記されていない。
いずれも「帯に短し 襷に長し」である。いずれ浄水場の中は通れぬようになるかもしれない。
そうすると国道18号を右に大きく迂回することになる。)

P10701931
(100m以上進んだら行き過ぎ、右手の階段を上がる)

足元をよく見ると丸太で作った階段下の草むらに、(この階段の方へと)白線で矢印が記されている。
最近(安中の遠足)が実行された名残りと思われる。
白線など雨が降れば消えてなくなるので、階段目当て以外に注意する目標物が無い。

その階段を登り、鬱蒼とした木の間の坂を、すこし進むと「アプトの道」の看板があり、
前方が開けて国道18号のガードレールが見え、
道路の向こう側に「中山道口」のバス停が、そして待合所が見える。
「日本の道100選 旧中山道」の標柱もある。
峠の熊野神社までのハイキングコースの案内地図もある。

P10701941
(アプトの道の先に見えるガードレール)

間違いない!これが旧中山道入り口である。

ここで横断する道路は、坂本宿の阿弥陀堂から右に迂回していた国道18号が曲がりくねってきた道である。
国道18号を横断してバスの待合所で昼食にする。

P10701951
(中山道口のバス停と待合所、日本の道100選旧中山道の標柱)

P10701961
(ハイキングコースの案内看板)

時刻は11:40分。
初めての山登り、旧中山道最大の険路、横川を午前10時にスタートして史跡見学しながらとは言え、
すこし時間が過ぎている。
案内書では、峠まで6時間ともあるが、70歳を過ぎ、生まれて初めての山登り、
足が上手く動いてくれるか心配で、一時間余裕を持ってスタートしたのであるが・・・

10分で昼食をすませ、峠の山道を進む。
峠まで8.3kmという案内看板が出ている。
安中藩が始めた「安政の遠足」の碓氷峠登り口である。
この先碓氷峠まで、この「安政の遠足」「侍マラソン」の案内矢印がところどころにあり、峠まで迷うことは無かった。
2kmを1時間で歩いても4時間かかる距離である。峠には予定通りなら午後16時に到着できる。

P10701971
(峠まで8.3km)




文化の往来(旧中山道を歩く 105)

2007年06月23日 08時00分41秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701611
(脇本陣 1)

(坂本宿4)
坂本宿の家並みを西に進むと昔ながらの旧家が目に付くので紹介したい。
まず脇本陣の門がある。これが脇本陣永井家である。
この脇本陣では、役人が主に泊まった。皇女和宮下向の際は幕府役人が宿泊した。
その脇本陣家の先、同じ並びに坂本公民館があるが、昔は酒屋で坂本宿脇本陣であった。

この公民館に「くつろぎの郷 坂本宿めぐり」のパンフレットが置いてあるので頂戴しよう。
坂本宿の主だった建物の案内が記されており大いに参考になる。

P10701621
(脇本陣 2)

P10701641
(脇本陣 3酒屋で脇本陣であったが今は公民館になっている)

公民館の先に、屋号「かぎや」の昔の宿屋の風情を残す数少ない屋敷がある。
旅の本にも坂本を代表する建物として紹介されている。

説明によれば、
「(かぎや)は坂本宿のおもかげを残す代表的な旅篭建物である。
伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた
当武井家の先祖が坂本に移住し旅篭を営むに当たり役職にちなんだ
屋号を「かぎや」とつけた。
建物を見て、まず目につくのが家紋の丸に結び雁がねの下に(かぎや)とした屋根看板である。
上方や江戸方に向かう旅人に分かりやすくされている。出梁の下には透かし彫刻が施されている。

間口六間で玄関から入ると裏口まで通じるように土間がある。
奥行きは八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間。往還に面して二階建て階下階上とも格子戸である。
宿場は街道の文化の溜まり場である。
坂本宿も俳句、短歌、狂歌など天明寛政のころは最盛期で
当時の鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し、
次の作品を残している。

末枯れや 露は木草の 根にもどる (紅枝)」(松井田町教育委員会)

P10701651
(旅篭のかぎや)

道路をはさんで向かい側に、白い大きな文字の「いせや」が見える。
「いせや」を中心に両隣の三軒が、道路に面して斜めに家が建っている。

これを(はすかいの家)という。
案内が面白いので紹介しておきたい。
「この辺り一帯の家は、道路に面して斜めに建てられている。
斜角とか斜交(はすかい)と言っている。
(はすかい)に建てられた理由は二つの説があるとされる。

その1.鬼門よけが挙げられる。
鬼門とは鬼の出入りする不吉な方角(うしとら=北東)のことで、
道路に平行に家を建てると(うしとら)の方角に当たるので東向きに家を建てた。
その2.江戸城を守る軍事的な目的。
峠を越えて侵入してくる敵軍に対して(はすかい)に作った三角屋敷に立て籠もり迎え撃つためといわれる。」
いずれの説を採るかは、今後の研究が待たれるが、面白い話が伝えられているので紹介する。
また、
「スエーデンの探検家ノルデンシェルドが、明治12年秋に来日して、
碓氷峠を人力車で越え坂本を訪れた。その時、(動くあごと恐ろしい歯をした怪物の芸を見た)と旅行記にある。
どうも獅子舞らしいが、それが(はすかい)の辺りであったろうか・・・」
(松井田町教育委員会)

P10701681
(いせや)

P10701701
(「はすかい」の家)

その先右側に、若山牧水が宿泊した「つたや」がある。
(アプト式鉄道が出来た後の明治41年、坂本宿は寂れてしまったが、
その夏に碓氷峠を越えて牧水がやってきた。ただ一軒残っている
「つたや」に泊まったが、暑くて眠られず酒を求めて、石ころ道を歩きながら、
ふと耳にした糸繰りの音に寂寥感を覚え、思わず口にした歌が残されている。

秋風や碓氷のふもと荒れ寂びし 坂本の宿の糸繰りの音(牧水)」

歌と共に寂れた坂本宿が目に浮かぶ。文化人の往来もあった。

P10701721
(つたや)

その先に、小林一茶が定宿とした「たかさごや」がある。
先ほどすこし触れたが、寛政・文政年間坂本宿では、俳諧・短歌が隆盛し、
旅篭・商人の旦那衆はもとより、馬子・飯盛り女にいたるまで指折り数えて俳句に熱中したという。
ひとたび一茶が「たかさごや」にわらじを脱いだと聞くや、自作を持ち寄り、
一茶に評を仰いだり、俳諧談義に花を咲かせたという。

P10701741
(たかさごや)

坂本宿の案内の終りには、必ず俳句や短歌が載せられている理由が解ったような気がする。
文化人が逗留して、文化の波が押し寄せてきた様子が伺える古きよき町である。





下の木戸と本陣家(旧中山道を歩く 104)

2007年06月18日 08時36分09秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701481
(坂本宿、下の木戸跡)

(坂本宿3)
坂本宿の下の木戸が見事に復元されている。
この木戸と坂本宿について説明案内によると
「中山道69次の宿場が出来たとき、坂本宿が設けられた。
宿内の長さ392間(713m)。京都よりと江戸寄りに、
上の木戸と下の木戸が作られた。この木戸は軍事・防犯などの目的のため、
開閉は明け六つから暮れ六つ(現在では、午前6時~午後6時)までであった。
実際には、木戸番が通行人の顔を識別できる時間で判断されたようである。
坂本宿は、文久元年(1861)の絵図によると幅八間一尺(約14.8m)の道路に
川幅四尺(約1.3m)の用水が中央にあり、
その両側に本陣・脇本陣に旅篭・商家160軒がそれぞれ屋号を掲げ、
その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。

雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ」
(松井田町教育委員会)

前回、水神と水の有り難さを記述したが、
渓斉英泉描く、木曽街道69次「坂本」の浮世絵には、
坂本宿を流れる堀川が街道の真ん中を流れており、所々に橋が掛けられている。
今の坂本宿は旧街道の趣を色濃く残している町である。
古い家並みが旅人の気持ちを和らげてくれる。
しかし、残念なことに旧家には住人が無く、空き家になっているところが多い。

Sakamt1
(英泉描く浮世絵「坂本」)

031529381
(蕨宿にあった渓斉英泉の浮世絵「坂本」のタイル)

下の木戸を抜け、すこし先の北側の道路脇に半分埋もれた形で
坂本町道路元標を見ることができる。
元標の後ろに顕彰碑が建つ小公園があるが、
この公園を清掃しているご婦人に訊くと、この公園が元坂本宿役場跡で、今は松井田町役場と合併したという。
事のついでに本陣があった場所をお尋ねすると、仕事の手を休めて丁寧に教えてくださった。
本陣を訪ねて進むと同じ南側に「おぎのや」の看板のある家が見える。
これが駅弁「横川の釜飯」の出身地である。
「おぎのや」の道を挟んだ向いには、お米屋さんの古い建物がある。

P10701501
(坂本の道路元標)

P10701511
(坂本宿役場跡)

P10701531
(おぎのや)
P10701521
(米屋)

さらに進むと、旧役場跡のおばちゃんに教わったように本陣は
「もう誰も住むことも無く、空き家」であった。元本陣らしく敷地面積は広く、
草が生えた敷地内には老大木が生い茂っている。
ここが金井本陣跡である。

P10701541
(無人の金井本陣跡)

説明によれば、
「坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・高僧など宿泊する本陣が
二つあり、金井本陣は「下の本陣」と称し、間口10間(約19m)、
建坪180坪(約594㎡)、屋敷360坪(約1200㎡)玄関、門構えつきの建物であった。
(諸大名様方休泊御触書帳)によると中山道を上下する大名例弊使のほとんどは坂本泊りであった。
本陣に泊まるには、最低124文、最高300文、平均200文程度で多少のお心付けを頂戴しても、
献上品が嵩むので利は少なかったが、格式と権威は高く格別の扱いを受けていた。
――中略――皇女和宮ご宿泊の折詠まれた歌

都出で幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすえ」
(松井田町教育委員会)
坂本宿の案内には、終わりに一首付け足してあるのが妙である。

P10701581
(佐藤本陣跡)

P10701601
(佐藤本陣跡にある坂本小学校発祥の地の石碑)

その先にもう一軒の本陣跡があるが、これが佐藤本陣家で、
今も本陣としてのたたずまいを残している。明治初代の坂本の
小学校発祥の地でもある。



招魂碑と水神宮(旧中山道を歩く 103)

2007年06月12日 08時25分39秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701151
(街道に見られる旧家)

(坂本宿2)
碓氷の関所を西に出ると、廃線になった碓氷線のガードをくぐる左折道路が見える。
これが旧中山道であるが、左折道路の左側に、
招魂碑と鎮魂碑なるものが二基設置されている。
説明では、
「碓氷峠は、古代より要衝険難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称せられていた。
この地に明治18年アプト式鉄道の建設が開始した。
太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離11.2km、26のトンネル、18の橋梁、高低差553mの
碓氷線が僅か一年半で開通した。
当時の技術を思えば、人手に頼らざるを得なかったと思われる。
この工事の犠牲者は「500名」に及び、工事を請け負った建設会社が、招魂碑を建て殉難者を慰霊します。
遊子願わくば、往時を偲び殉難者の冥福を祈らんことを  合掌」
(うすいの歴史を残す会)

最後の下りが胸を打つ。
「旅人よ!当時の困難に立ち向かい災難にあって死んでいった人たちの
冥福を祈っていただくようお願いします。 合掌」の部分だ。

P10701311
(招魂碑と鎮魂碑)

この一文を見て、黒部峡谷のダム建設に挑んだ男達の慰霊碑を思い出す。
建設技術の発達で犠牲者171人で済んでいるが、やはり慰霊碑の前でご冥福を祈った。
この人たちのお蔭で明るい電気の供給を受け、勉強できる恩恵を受けた。夢おろそかに出来ない。

信越線アプト式の碓氷線の完成で、碓氷峠を汽車で行き来できた人たちは、
どれだけの恩恵を受けることが出来たであろうか。
今は廃線となり、鉄道文化村として観光用に長らえているが、その歴史を想い合掌して旧中山道を西に進む。
ガードをくぐれば川久保橋で渡り終えると信号があり、道路は複雑な交差点になっている。
正面を見ると、薬師坂の石碑があり、勾配のある坂道に入る。
これが旧中山道でバイパスをショートカットするように道路は国道に繋がっている。

P10701341
(川久保橋)

P10701351
(川久保橋から見た上信越自動車道、後でこの下をくぐる)

10mも進むと左側に薬師堂が、その先に薬師の湧水地点がある。
往時の旅人は、碓氷の関所を抜けホッと一息ついて、
この湧水で喉を潤したことは、容易に推察できる。
招魂碑に薬師堂に薬師の湧水に合掌して西に進むと先ほど分かれたバイパスに合流する。
道路はここから坂本宿を過ぎるまで、長い直線の上り坂になる。

P10701361
(薬師坂の石碑)

P10701371
(階段の上に薬師堂はある)

P10701381
(薬師堂)

P10701421
(薬師の湧水)

上り坂をすこし進むと道路南側に赤い鳥居と祠が見える。
案内によれば、
「坂本宿の道路の端を流れてきた堀を曲折させて、村のはずれから道路中央に流れていた水を、
原村住民は生活用水に利用。その用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願い水神を祀った。
水神は、川、井戸、泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。
現在では、水は容易に安全に得られることから、粗略に扱い勝ちである。
水神を詣でることにより水への再認識を深めたいものである。

清き水掬して喉を潤へり 峠越え行く気のみなぎけり」とある。
                (松井田町教育委員会)

日本では、水はほとんどただ同然に安全で容易に手に入るが、
今まで53カ国外国旅行をして、水道水を生水で飲むことが出来た国は一カ国であった記憶だ。
そんな外国では、時には水がワインより、ビールより価格が高い国さえあった。
日本に生まれ住んで有難いと思うことの一つである。
感謝しなければならない。

P10701441
(水神宮)

P10701461
(しゃれたトイレ)

まもなく頭上を上信越自動車道が横切っていくが、
その先右側に、田舎にしてはしゃれた公衆トイレがあるので、用を足しておこう。
この先坂本宿を抜け碓氷峠を越えるまで、自然の中以外にWCを見つけることが出来ない。
やがて坂本宿の「下の木戸跡」が見えてくる。



碓氷関所跡(旧中山道を歩く 102)

2007年06月06日 08時46分11秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

P10701251
(碓氷関所の東門跡の碑)

(坂本宿へ)

日本橋を出発して19日目になるが、暦の上では足掛け三年目になる。
東京都は3日を要し、埼玉県は8日間かかり、今日で7日にわたり歩いた群馬県に
別れを告げる日が来た。
昔の表現を借りると、上州路も今日でおわり、信濃路に入ることになる。
天気は晴れ、最高気温20℃の予想。2007年5月29日。

信越線の横川駅の改札を出ると、北に向かって道があり突き当たる。
左手にある「峠の釜飯」で有名な「おぎのや」発祥の地の看板を横目に観て左折する。
この道が旧中山道である。

信越線の横川駅構内に「峠路探訪」、副題(アプトの道マップ)
と題したビラが置いてあるので貰って行く。
このマップには「遊歩道アプトの道とその周辺」を要領よくまとめてあるので、
史跡など観て歩くのに参考になるし、道路地図もわかりやすく描いてある。

P10701071
(矢の沢川ほとりの石像群)

P10701081_1
(馬頭観音の石碑も見える)

旧中山道へ入るとすぐ矢の沢川という透明な水の流れる細いけれど流れの早い小さな川を渡ることになる。
川の手前右奥に数個の石像群(庚申塔、二十三夜塔、馬頭観音)などがある。
川を渡ってすぐ右に茶屋本陣武井氏宅がある。
現在も住居になっているので生活に支障の無いように見学させてもらおう。

P10701091
(茶屋本陣跡武井氏宅)

P10701111
(茶屋本陣跡)

説明によると
「茶屋本陣は代々横川村名主を勤め、
幕末のころは坂本駅の助郷をも兼ねた武井家の西の一部である。
棟は居宅と同一であるが、居宅部分は二階があり、
本陣の方は二階を作らず天井を高くした。
――中略――裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、
外敵に備えるものであろうか大きい木は植えていない。
碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。」
(松井田町教育委員会)
この説明によれば、現在残っている建物は居宅部分であるようだ。
茶屋本陣は大名など公用の旅人の休憩場所であり、
碓氷の関所前で身支度を整えた場所でもある。
松井田町の教育委員会の説明にあるとおり、裏庭には皐月の木が植えられており、
訪ねた時はちょうど草刈をした後で手入れされているのが良く解った。

P10701131
(茶屋本陣裏庭)

P10701241
(諏訪神社入り口)

P10701181
(本殿への階段)

P10701201

P10701211_3
(双体道祖神)

旧中山道に戻って西に進むと、北側の奥に諏訪神社が見える。
古い神社らしく、灯篭や双体道祖神は苔むしていた。
さらにその先に碓氷関所跡がある。
手前に東門跡の碑があり、その先階段を昇ったところに往時の関所の門がある。

P1070130
(碓氷の関所)

説明によれば、
「関所の起こりは、醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取締りのため、
交通を監視したのがはじめである。

類聚三大格(るいじゅうさんだいきゃく=筆者注、平安時代に編集された法令集)に

相模国足柄坂、上野国碓氷坂、置関勘過事
とあり、箱根と碓氷に関所を置いたことが記されている。

その後関所は、正応二年(1289)鎌倉幕府の執権北条貞時によって
関長原(安中市松井田町大字関長のことで、碓氷峠山麓を指す)に関所がすえられ、
以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。

江戸時代になって、慶長十九年(1614)大阪冬の陣のとき、
井伊兵部小輔直勝が関長原に借番所をつくり関東防衛の拠点とした。
江戸幕府によって、現在地に関所が移されたのは、元和九年(1623)三月である。
横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山がせまって狭間となり、関所要害としては最適地だった。
寛永十二年(1635)参勤交代制の確立後は「入り鉄砲に出女」
(筆者注、武器として重要な飛び道具の鉄砲が入ることと、
人質として江戸に預かっている大名の妻が逃げ出すこと)を
きびしく取締り、関所手形を提出させた。
幕末になると、関所の改めもゆるやかになり、明治二年(1869)二月に廃関された。」
(松井田町教育委員会)

説明によれば、
「関所の構えは、中山道を西門(幕府の門で天下の門)と、
東門(安中藩管理)の五十二間二尺(約94.5m)で区切られ関門内とした。
関所は木柵などで四方を取り囲み、その外側は天然の自然林による阻害物にさえぎられ、
忍び寄ることも不可能な御関所要害が、
近御囲・遠御囲と続き、碓氷峠山麓には堂峰番所を置いて通行を監視していた。
関所の前には、正面の軒に安中藩殿様の定紋を染めた
幔幕を中央で結び、上り下りする通行者を取締っていた。」
(松井田教育委員会)

P10701271
(当時の材料を使用して復元された碓氷関所東門)

P10701281
(おじぎ石)

復元された門の前に「おじぎ石」が置かれているが、
通行人はこの石に手をついて許可を受けたという平らな「石」が残されている。

「関所の役人は、番頭2人、平番3人、同心5人、門番4人、
改め女2人、中間4人、合計20人で構成されている。
殆んどは定住していた同心が、手形の受付と案内、犯人追捕などの実務についた。
女性を改めるのは、改め女として西門番の妻女が交代で勤めた。

碓氷関所の門限は、明け六つから暮六つまで(=日の出から日の入まで)と定められ、
門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていた。
関所を破った人は、御定書により磔・獄門の刑に処された。」
以上かぎカッコ内松井田教育委員会による。
女性を裸にして改める役目をしたのは女性だったのはさすが気配りが効いている。

箱根の関所でも感じたが、昔は旅行もままならないものと思った。
碓氷の関所跡を西に出ると、中山道は南に折れて、廃線となった碓氷線のガードをくぐるが、
ガード手前に招魂碑が安置されている。



碓氷神社と百合若大臣(旧中山道を歩く 101)

2007年06月02日 08時12分57秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

1336151
(梅畑の中にある馬頭尊)

1338301
(馬頭尊2)

1344551
(馬頭観音3)

1347321
(馬頭観音4)

(松井田宿4)
前回述べた夜泣き地蔵のある丸山坂を登り下りする山道(旧中山道)を進むと、
左右に馬頭尊や馬頭観音などが、
旧中山道の案内役をしてくれる。
道路は曲がりくねっているが、やがて信越本線にぶつかり、
線路に平行して歩くようになる。
しばらくすると右側に碓氷神社の赤い鳥居が見えてくる。
神社の本殿は急な階段を上ったところにある。
神社入り口の赤い鳥居脇には、寛政12年の庚申塔、
文化5年の二十二夜塔が並び、その脇にある昭和二年の道標には、
「碓氷神社ヨリ東 立野 西 高墓 松井田停車場へ一里二丁」と刻まれている。
碓氷神社は由緒ある神社で、伝説によれば、
(1.建久年間(1190~1199)源頼朝公が信州浅間の牧狩りの際、
碓氷神社に祈願せられ、境内に御所を置かれた。このことにより
以来この地を「御所平」と呼ぶようになった。
2.正応年間(1288~1293)鎌倉北条氏 
この地信州より関東への入り口なるをもって、
碓氷郷総鎮守として崇敬せらる。
光明天皇(1377)は碓氷郷の一宮と定められ崇敬祈願さる。)

1352171
(碓氷神社の赤い鳥居)

1352431
(庚申塔や道祖神)

1355551
(道しるべ)

1354441
(御所平の信号と踏切)

この碓氷神社の横に踏切と信号機があり、信号は伝説の通り「御所平」と書いてある。
信号で信越線と線路と平行している国道18号を横断する。
線路はあと2kmも西に進めば、JR横川駅に到着する。
国道に沿って歩道を進むと、「小山沢」の信号で中山道はすこし左にそれる。
それた道は100mもしないで、すぐ国道に合流するが、合流地点の手前右側に
「百合若大臣の足跡石((ゆりわかだいじんのあしあといし)」の伝説の石がある。

1412001
(小山沢の信号)

1410161
(百合若大臣の足跡石、石のへこんだところが見える)

説明によれば、
(この石は、百合若大臣が強弓を射たときに、足で踏み潰したので、
石の上が凹んだと言われています。
その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく、
大きな弓と長い矢で川向こうの山に向け「よし、
あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思いつき、
満身の力を込めて射放った。
その時、後足を踏ん張っていたのが、この石という。
それを見て、家来の一人も負けじと思い、
腰にぶら下げていた弁当のむすびを力いっぱい放り投げ、
山には二つの穴があいた。
それで今でも、二つ穴が、ここから見ると夜空の星のように見え、
この山を「星穴岳」と呼ぶようになったという。
百合若大臣がその時使った弓矢が妙義神社に奉納されている。」

星穴岳は妙義山にあり、伝説の二つの穴が見えるらしい。
(一所懸命妙義山を見たが、見えなかったので、家に帰ってからネットで調べたら、
なるほど、星穴岳に二つ穴があるのを知った。)
遠くからは小さな穴に見えるが、
登山するとその穴は巨大なものだということが解る。

Image11
(写真1.妙義山の星穴岳)

Hosi041
(写真2.大きい穴)
Hisi051
(写真3.小さいほうの穴)
(以上3点の写真は、下記URL:http://www5f.biglobe.ne.jp/~tana/myougi.htmlのホームページから転用)

分かれた道は再び国道に合流するが、すぐ先に「旧中山道→」の案内看板があるので左折し、
信越線の「十五中山道踏切」と書かれた踏切を渡る。
道路右側に「中山道 左 坂本宿3,0km 右 松井田宿5,3km」の案内看板があり、
旧中山道であることが確認できる。

1416391
(中山道→の看板)

1417291
(第十五中山道踏切)

1420091
(「中山道 左 坂本宿 右 松井田宿」の里程標)

やがて「峠の釜めし」で有名な荻野屋の発祥の地の看板がある。
旧中山道は直進するが、看板の手前を左折するとJR横川駅である。

1434101
(おぎのやの看板、この駅では週末祝日しか釜飯は買えない)

日本橋をスタートして18日目は、ここから東京に帰る。
まっすぐ歩けば松井田から坂本まで9,5kmであるが、史跡を見学しながら歩くと、
実に23,5km歩数にして約4万歩になった。



五料村と夜泣き地蔵(旧中山道を歩く 100)

2007年05月30日 11時07分12秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

1241301
(五料村高札場跡の看板、右奥が五料茶屋本陣)

(松井田宿 3)
「旧中山道を歩く」も記念すべき100回になった。
距離にして、日本橋から125km程度しか進んでいない。
旧中山道(日本橋から京都三条大橋まで)533kmからすれば、たかだか23%にしか当たらない。
それでもすこしづつ京都に近づいて行く。
時間だけはタップリある、あせらずゆっくり歩こう。
楽しみはその土地に残る史跡、伝説、何よりもその土地土地に
住む人たちに接する事ができることだ。

中山道の話に戻る。
信号を渡って左折、すこし歩くと右側に白い立て看板があり、
次のように記されている。

「安中藩 板倉伊予守領分 五料村 高札場跡」

その看板の手前を右折すると、信越線の踏切があり、
その向こう側に五料茶屋本陣が正面に見える。

1242431
(踏切を渡った正面にあるのが「お東」)

中山道の松井田宿と横川の碓氷関所のほぼ中間で
奇岩峰の山として有名な妙義を眼前にする山懐に建っている大きな二軒の家が
「五料の茶屋本陣」で、向かって左、
西側に見える家が「お西」、
東側に位置しているのが「お東」。

「お西」についての説明によると、
「五料茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。
茶屋本陣とは、中山道を参勤交代などで往来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
この(お西)中島家は、16世紀末から、代々名主役を勤め、
特に天保七年(1876)から明治五年(1872)まで(お東)
と一年交代で名主役を務めました。
この建物は(お東)と同じ年(文化3年)に建てられたもので、
間口13間、奥行き7軒の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面とも
ほとんど同じで、白壁作りの良く映えた屋敷構えに当時を偲ぶことが出来、
中山道の街道交通を知る上で貴重な史跡です。」
(群馬県教育委員会・松井田町教育委員会)

1243361
(「お西」の石柱)

1244061
(五料茶屋本陣の入り口から望む「お西」)

1244281
(本陣の全貌)

美しく整備された史跡の保存状態に感心する。
僕が訪問したときは、月曜日で休館日に当たっていたが、
係りの人が、親切にも中に招きいれ資料など下さり案内して頂いた。
こんなところにも安中市の住人の親切が旅人には
身にしみるところである。
1319131
(旧中山道の案内看板)

中山道に出て進むと、すぐ右側に「左 坂本5,5km 右 松井田宿2,8km」の
標柱が立っている。この標柱は街中を除き、どうやら五百メートル間隔で立っているようだ。

中山道はしばらく信越本線と並んで歩くが、やがて踏み切りと交差し、
線路の北側に出る。踏切には榎踏切と書いてある。
道路は山道に差しかかり馬頭観音や元文五年の青面金剛、馬頭尊などの五基の石造物がある。
その先すこし上り坂が急になった左側に、「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな地蔵尊や
庚申塔、馬頭尊、その前に石でたたくと茶釜の音がする茶釜石がある。

1323341
(榎踏切)

1326011
(青面金剛などのある石造群)

1328231
(夜泣き地蔵と茶釜石)

1331041
(夜泣き地蔵の頭)

五料村では、この茶釜石は有名であったので、山道に入ってからでは、
叩く石も見当たらないと具合が悪いと思って、
前もって大きな石をポケットに忍ばせておいた。
しかし、その用心も甲斐なく、現場に到着するとなんて事は無い、
たたく石が三つも用意されており、
茶釜石の上においてあった。小石で茶釜岩をたたいてみると、
確かに中が空洞のような音がする。茶釜を知らない人もいるであろうが、
ボクにはお湯をたたえた茶釜の音に似ているように感じられた。

1328001
(茶釜石)

たて看板には次のようにある。
(この石は、もと中山道丸山坂の上にあったものです。
たまたまここを通りかかった太田蜀山人は、この石をたたいて珍しい音色に、
即座に次のような狂歌を作った。

「御料(五両)では、あんまり高い(位置が高い山の上)
茶釜石 音打(ねうち=値打ち)を聞いて通る旅人」)

そして「夜泣き地蔵」の足元には、夜泣き地蔵の云われの通りだと感じさせる、
赤い毛糸の帽子をかぶった地蔵の頭が置かれていた。

(昔、馬方が積荷のバランスを取るために、道路わきに落ちていた地蔵の首を拾い、
一緒に馬で運び深谷まで行った。
積荷を降ろしたので不必要になった地蔵の首を捨ててしまった。
すると夜な夜なその首が「五料恋しや」と泣くので、深谷の人が五料まで戻して
地蔵の胴の上に乗せたところ泣き止んだ。
それから夜泣き地蔵と言うようになった。)という。

夜泣き地蔵の背景の妙義山が美しい。
1331341