中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

見透かし灯篭(旧中山道を歩く 65)

2005年10月08日 21時54分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(本庄側の見透かし灯篭)

(本庄宿9)
中山道を進むと、右側に阿弥陀堂と一里塚跡の碑がある。
すぐ先で国道17号に合流する。
(阿弥陀堂)
(阿弥陀堂脇の一里塚の碑)

しばらくは17号沿いに歩くが、
神流川(かんながわ)の手前の信号を左折し、
高崎線のガードをくぐると、右側に大光寺がある。
(大光寺)

本堂への参道を行くと、左手に鐘楼があり、その先には、
文化12年(1815)本庄宿の商人 戸谷半兵衛が、
街道を往来する人々の寄付を募って、
神流川を越す旅人のために建立した
常夜灯が移築されている。
(見透かし灯篭)

神流川は洪水のたびに、橋の位置や川の瀬が変わるので、
薄暗くなれば常夜灯が必要であった。

署名が入っていないので、英泉の作品と推定される
「支蘇路ノ駅(きそじのえき) 本庄宿 神流川渡場」によれば、
川の中州までは橋があり、その先は舟で渡った。
画面右手には、石灯篭が描かれている。
(蕨宿の歩道上にあったタイルの「支蘇路ノ駅 本庄宿 神流川渡場」に見える見透かし灯篭)

江戸幕府は防衛上の理由で、橋を架けさせなかったが、
「常には 仮はし有」であったらしい。
神流川は本庄宿を越え、新町宿に近いところを流れ、
一般には武蔵国と上野国との国境に認識されていた。
常夜灯は神流川挟んで、本庄宿と新町宿の両側にあり、
「見透かし灯篭」と呼ばれた。

大光寺にある灯篭は本庄側の灯篭であり、
橋を渡り終えたところに、新町宿側の常夜灯は
残っている。

また、大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。
建保三年(12159に武蔵七党の一党である丹党の、
勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧進開山は禅宗を
伝えた栄西禅師である。― 中略 ―
当寺には栄西禅師直筆の扁額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った
不背碑(親子地蔵)六角のガン部を持った石憧、神流川の渡しの
安全を祈った見透かし灯篭が現存し貴重な文化財として知られる。
(埼玉県・上里町 両教育委員会)
(臨済宗の創始者栄西禅師直筆の扁額)
(直重父子の不背碑)

中山道に戻り神流川をわたる。橋の親柱代わりに
「見透かし灯篭」のレプリカが置いてある。
その台座に「見透かし灯篭」のいわれが書いてある。

もう新町宿であるし、ここからは上州(群馬県)に入る。
(見透かし灯篭のレプリカ)
(見透かし灯篭のいわれ)






信玄夫人「陽雲院」(旧中山道を歩く 64)

2005年09月30日 21時48分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(信玄夫人陽雲院のお墓)


(本庄宿8)

中山道に戻って、すこし進むと左手に「陽雲寺」がある。
ここは、武田信玄夫人の陽雲院が、
晩年を過ごしたところといい、
墓地の奥には、そのお墓もある。
(信玄夫人の墓石)

もうお判りと思うが、「陽雲寺」の名は、
信玄夫人の号から採ったものである。
また、前述の金窪城主であった畑時能(はたときよし)と
その家臣児玉光信の墓(供養塔)が、
寺院の参道入り口に畑児塚(はたこづか)と呼ばれ残っている。
(畑児塚)

説明によれば、
(参道脇にある石の祠(ほこら)は、
新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ、
金窪城に居住した畑時能の供養祠と伝えられる。
時能は秩父郡長瀞町の出身で、義貞戦死後も南朝方のため
孤軍奮闘したが、暦応二年(1339)越前の国で、
足利方に討たれた。
従臣 児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しるし)を
携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養した。
後に光信も時能の墓側に葬られ、二つの石祠が建立され
両者の名をとって「畑児塚」と呼ばれるようになった。)
(上里町教育委員会)

陽雲寺の本殿の右側に鐘楼があるが、
ここにある鐘は銅製で、頂部分の竜頭が上向きで
朝鮮式と呼ばれる鐘である。
高さ190cm、口径98.3cm、
縦帯に仏像四体を鋳造し、
下帯には唐草文、駒の爪には蓮弁を施し、
乳頭は四面に25個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、
計108個を鋳出す。
これは百八つの煩悩を表したものである。
池の間に長文の銘あり、天命鋳物として栄えた
下野国佐野(栃木県佐野市)の鋳物師
井上元峰によって、元禄八年(1695)に
鋳造されたことが分る。江戸時代中ごろの優れた
銅鐘の一つとして、国の重要美術品に認定されている。
(埼玉県・上中里町 両教育委員会)
(上向きの竜頭)
(鐘の全体)

境内には、明治28年日清戦争に従軍し、
戦死した兵士の墓が沢山目に付く。

本堂前から、旧中山道に抜ける出口の山門からは、
はるかに広がる畑と上州の山々、
それに紺碧の空が広がり、とても美しかった。
(陽雲寺の山門から晴れ上がった空が美しかった)



金窪城址(旧中山道を歩く 63)

2005年09月26日 21時45分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(京都方向から見た17号「旧中山道→」の案内看板)


(本庄宿7)
泪橋跡を過ぎて、中山道を進む。
約3kmほどのところに神保原一丁目の信号があり、
ここを右折し、国道17号を横断したところで振り返ると、
「旧中山道→」の案内看板がある。
京都方面からは、旧中山道の案内が行き届いている。

17号を渡ってすぐ左側に、古い庚申塔が18基並んでおり、
一番奥に薬師堂がある。
深谷宿にあった「史跡百庚申」(旧中山道を歩く 56参照)に似ている。
年号が刻まれたもの、刻まれていないものがあるが、
中央にある屋根付の薬師さまが享保10年(1725)で
最も古く、次が庚申塔で享保16年(1731)一番新しいもので
文化九年(1812)製のものがある。

(奥に安置された薬師堂)

(史跡百庚申に似た庚申塚の一群)

さらに1kmほど進んだ右側に金窪神社がある。
毎年10月に奉納される獅子舞は「雨乞い獅子」として
よく知られている。境内には獅子の頭のような鬼瓦が
展示されている。

(金窪神社)

(獅子頭の鬼瓦)

この金窪神社から、中山道をすこし歩いた道路の右側に
「史跡金窪館跡入り口」の石碑があるので、寄り道して
右折する。畑の中をかなり歩くと、道路の左方奥に
木製の櫓を組んだような建物―公園が見えたら左折しよう。

(金窪城址の案内石柱)

(櫓の遊具のある金窪城址公園)

公園に近づくと、道路の左側が「金窪城址」、
右側が「金窪城址公園」になっている。
公園にはお城の櫓のような遊具が置いてあり、
自然な遊び場所になっている。

左手には「金窪城址」の石碑と案内看板がある。

(金窪城址)

(金窪城址は、神流川(かんながわ)に臨む
崖上に残る平城の跡で、別名汰耶城(たやじょう)と
呼ばれた。
平安末期の治承年間(1177~81)に
武蔵七党の一党である丹党からでた加治家治の
構築と伝えられ、元弘年間(1331~34)に
新田義貞が修築して、家臣の畑時能(はたときよし)に
守らせたと言う。
室町中期(1460~66)には、斉藤実盛の子孫といわれる
斉藤盛光が居城とした。
天正十年(1582)六月、滝川一益と北条氏邦の
神流川(かんながわ)の合戦において、
一族ことごとく討ち死にし、城も兵火にかかって
焼失し斉藤家は没落した。その後
家康の関東入国に伴い、川窪氏の所領となり、
陣屋が置かれたという。
川窪氏は元禄1年(1698)丹波の国に転封になり、
陣屋も廃された。)(上里町教育委員会)





庶民はいつも悲しい泪橋(旧中山道を歩く 62)

2005年09月23日 21時37分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(浅間山古墳)


(本庄宿6)

中山道は、金鑚神社の社域に沿って道路を右折する。
4~50mさきの歩道橋手前を左折して旧中山道を進む。
4kmほどは、ただただ、ひたすら歩くのみで、
何もお話しすることはないし、史跡もない。

やがて、左手に赤い鳥居と小高い山がある。
これは浅間山古墳で、この上には浅間神社がある。
小さな階段を上ると、頂上と思しき所に、
金網でふさがれた洞窟ようの穴が見えるが、
これが古墳の址なのであろう。
他に、特にお伝えするようなものは何もない。

この古墳の鳥居の20mほど先の道路の右手に、
「中仙道」の石碑があり、
その先に「泪橋の由来」の碑と泪橋の橋げたが建っている。

(中仙道の石碑)

(泪橋の橋げた)

その由来の石碑に拠れば、
(この地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先
中山道に、泪橋なる橋ありき。
昔徳川幕府は、大名諸役等通行の砌、
街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり。
農繁期の最中に又酷寒風雪の日にも
伝馬の人々この橋に憩い、家族を偲び
身のはかなさを嘆じて泪しきりなり。) 
とある。(本庄市教育委員会)

この地区の伝馬役に苦しんだ庶民の泪を思うと、
よほど厳しいお達しであったのであろう。


(泪橋の由来碑)




金鑚神社(旧中山道を歩く 61)

2005年09月19日 21時31分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(金鑚神社の扁額)


(本庄宿5)

右手に見える金鑚(かなさな)神社がある。
この神社の本社は、児玉郡神川町にあり、
大きな山を背景に大鳥居に参道、拝殿があるが、
神体は山そのもので、日本に古くから伝わる
山岳信仰である。

「神社の起源は山を神体としたもので、
もともと本殿はなかった」というが、
本社の拝殿の後ろには山に登る階段が造られており、
容易に山を登ることが出来る。
頂上には大きな岩があり、天照大神もこんな岩屋に
隠れていたと思われる岩の裂け目のうしろに洞穴が在った。
これがご神体のようである。

江ノ島の弁財天の岩屋にも、岩の裂け目の洞穴ようのものが
在ると言うが、このような裂け目をもつ岩がご神体になるのは、
岩屋の形が女性自身に似ており、
「そこからは世にも不思議な生命の誕生を見る」
と言うような神秘性があるからであろうか?

天照大神も弁財天も女性であるのは、
生命を生み出し、天地万物の初めとなる
「阿」にも通じるのであろうか?
(神社の社殿)


(神社脇のオオクスノキ)

(オオクスノキ)

(オオクスノキの脇に建てられた案内標柱、木の大きさが判るでしょうか)

本庄の金鑚神社は、神川町から招いたもので、
現在の本殿は極彩色の権現造りで、
享保九年(1724)のものという。境内はうっそうと
古木が繁り、寛永16年(1639)に植えられた
クスノキと社殿は埼玉県指定文化財になっている。




阿吽の仁王像(旧中山道をあるく 60)

2005年09月13日 21時28分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(若泉の霊域、安養院)


(本庄宿4)
中山道に戻りすこし進むと、右手に入ったところに
本庄新八景の一つ、「若泉の霊域」と言われる
安養院がある。

言い伝えに拠れば
(安養院は曹洞宗のお寺で、山号を若泉山、寺号を無量寺という。
寺伝に拠れば、創立文明七年(1475)武蔵七党の一党である、
児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、
当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたので、
現在地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。
以後付近には水不足に悩まされることもなく、
周辺の人々から{若泉の荘}と呼ばれるようになったと言う。)
(本庄市教育委員会)

寺伝などというものは、どんな根拠に基づいて
創られるのであろうか?
にわかには信じられない不思議なことなどが多い。

それにしても今では田舎になってしまった本庄宿の
この安養院の仁王門の「阿吽(あうん)の仁王像」は見事であった。

(安養院の仁王門)

(阿形の仁王)

(吽形の仁王)

寺院前の仁王様もそうであるが、神社の神殿前の一対の狛犬も、
稲荷神社の一対のお狐様も、参道の左右にあって、
口元は「阿吽の形」をしている。

仁王様は
「阿形(あぎょう)」、「吽形(うんぎょう)」というが、
なるほど、「阿形」の仁王様は口を「かっ!」と開き、
「あ」を発音しているし、
「吽形」の方は、「うむっ!」と
「うん」の発音をして、堅く口元を閉じている。

第一、ボクは「阿吽」とは何かさえ知らない。
それなのに、「阿吽の呼吸」は知っている。
へんな話だ。
そこで、例によって辞書を引いた。

「阿吽」(広辞苑第4版)

・「阿」は開口音、「吽」は合口音。

・悉曇{しつたん}の字母の初韻と終韻とある。

(最初の項は、「開いた口」「閉じた口」。
二番目の項は、さらにもう一度辞書を引かないと
意味が解からない。)

要約すると、
悉曇とは、梵字の字母。インドの音声に関する学問を言う。
日本語の五十音図にはこの悉曇の影響が多きい、とある。

つまり、早い話が、「阿」はアイウエオの「ア」で、
「吽」はアイウエオの最後の「ン」のことだ。

もっと解りやすくしよう。
例解国後辞典では、
「阿吽」とは、仏教語で
「阿」は一切の字と声の母体で、最初に口を開く音。
「吽」は最後に口を閉じる音。
初めと終わりをいう。
とある。

「阿」と「吽」の間(一切の森羅万象の間というか、
生と死の間といおうか、一生を現しているのだろう)
を通り抜けて、神仏にお祈りをする。
そして天国、極楽へいこう。
こんなところであろうか。

広辞苑に戻ると、
(最初と最後。密教では「阿」は万物の根源、
「吽」を一切が帰着する知徳とする)とあり、
これで良く理解できた。

こんなことを考え、中山道を進むと、右手に
金鑚(かなさな)神社が見えてきた。

(金鑚神社)




本庄歴史民族資料館(旧中山道を歩く 59)

2005年09月06日 21時13分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(開善寺の門)


(本庄宿3)

本庄城址から中山道に戻る手前を右に入ると、開善寺がある。
墓地には、田村家本陣の墓、その前に小笠原信嶺夫妻の墓がある。

この開善寺は、山号を畳秀山と称し臨済宗の禅寺で、
天正十九年(1591)本庄城主小笠原信嶺が開基し、
球山宗温和尚の開山で、本尊は、聖観世音菩薩である。
和尚は、城主信嶺の夫人久旺院尼の兄に当たる人で、
武田信玄の弟武田逍遙軒の子で、仏門に入り甲斐の国
永岳寺にあったが、信嶺に招かれ当寺を開山した。
という。(本庄市教育委員会)

(田村家本陣の墓)

(本庄城主 小笠原信嶺夫妻に墓)

本庄駅入り口の信号から、中山道を西に進んだ
100mほど先の右側に田村本陣、左側に内田本陣が
あったとされるが、今ではそれを示すものは何も残っていない。

さらに進み、中央二丁目の信号を右折し、消防署手前を
さらに右折すると、本庄市立資料館があり、資料館の前に
いかにも古そうな門、田村家本陣の門が移築されている。
これは本庄市の指定文化財となっている。

(田村家本陣の門)

(この門は、本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。
田村本陣があったのは、現在の中央一丁目六の区域で、
寛永19年(1642)から宿泊記録が残っています。)
(本庄市教育委員会)
なお、この門は歴史民族資料館になっている旧本庄警察署の建物と共に
本庄新八景の一つに数えられている。

(旧本庄警察署の建物を利用した歴史民族資料館。いかにも物々しい)

歴史民族資料館の幕末の本庄宿の資料に拠れば、
以下の通りになっている。

宿の長さ28町50間(約3168m)
人口  4554人
総軒数 1212軒


この時の板橋宿は
宿の長さ 15町49間
人口  2448人
総軒数 573軒
(中山道宿村大慨帳による)

中山道最大の宿場町に発展したのは訳がある。
それは養蚕にあった。

(江戸時代は宿場町として繁栄しましたが、
明治時代に入ると「養蚕の町本庄」と言われるほど、
更なる発展を成し遂げました。
明治七年富岡官営製糸工場長の尾高惇忠(あつただ)が
生繭の買い入れを、本庄宿の依頼したことに始まる。
市場の開設と共に、製糸工場や繭の取引に必要な金融機関、
商店が急速に発展し、周辺の村々では、
養蚕がますます盛んになり町と村が経済的にリンクし、
安定した経済基盤が確立された結果です。)
(本庄市教育委員会)
明治以降の発展の様子を、歴史民族資料館で展示している。




本庄城址(旧中山道を歩く 58)

2005年09月06日 21時09分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(英泉の浮世絵「本庄宿」は神流川に架かる橋が途中までしかない)



日本橋から歩いて12日目(2005.Jan.4.)
昨年3月27日思い立って旧中山道を歩き始めて、
まだ12日目であるのに、もう年が改まってしまった。
旧中山道の歩きが、遅々として進まないことに、すこし焦りを感ずる。

(本庄宿2)
2004年12月31日に降った雪が多かったのか、
田舎に来て気温が低くいため溶けなかったのか、
本庄駅に近づくにつれて、残雪が多くなっていく。
神流川を境に群馬県に入っていく。
埼玉県を縦断するのに8日間かかった。

本庄駅を出て、旧中山道との交差点本庄駅入り口を
突っ切り直進すると、右手に本庄市役所の
立派な建物が見えてくる。
その手前の信号を右折して進むと、
左手に本庄城址の石碑と赤い鳥居が見えてくる。
その奥に本庄城址がある。赤い鳥居は城山稲荷神社の鳥居である。

(本庄城址の石塔と赤い鳥居)

本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠
(ほんじょうくないしょうゆさねただ)により築城されたと云われている。
本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に
後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、
実忠の子隼人正(はやとのしょう)の代に至って
天正八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにあって落城した。
徳川家康の関東入国に伴い、信濃の国松尾の城主
小笠原掃部太夫信嶺(かもんだゆうのぶみね)が
一万石を賜って新城主となったが、
慶長十七年(1612)その嗣子信之の代になって
古河城へ移封され本庄城は廃された。

元禄13年(1700)の城跡検地帳によれば、
三町四反五畝二十九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。
その区域は北側は元小山川が流れ、
南東には久城堀で切断された自然の要害であった。
なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、
本庄城は昭和33年(1958)本庄市指定文化財になっている。
(本庄市教育委員会)

城址内にある城山稲荷神社は本庄新八景の一つで、
神社前のケヤキは樹齢400年と推定される。
第二次大戦時大きな樹木は、殆んどが強制的に供出され、
埼玉県下でも数少ない貴重な木である。
本庄城築城の時、献木されたと伝えられるこのケヤキは、
埼玉県指定天然記念物に指定されている。
(本庄市教育委員会)

(城山稲荷と本庄新八景の案内標柱)

(稲荷神社前のの大ケヤキ。青空が美しい)




本庄宿に入る(旧中山道を歩く 57)

2005年09月02日 20時53分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(地蔵さまが立っている宝珠寺の参道入り口)


(本庄宿)

やがて右側に「宝珠寺」の石塔と、両脇に地蔵様が
立っている寺院入り口の美しい参道にさしかかる。
そのすぐ先の左手には八幡神社がある。

宝珠寺については、特にお伝えすることはないが、
山門や墓石群が美しく参観されることをお勧めする。

(宝珠寺の山門と墓石群)

八幡神社には 金讃神楽宮崎組が伝えられ、
本庄市の文化財になっている。

この八幡神社は、建久年間(1195)に児玉党の一族
牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の
鶴岡八幡宮を奉遷して祀ったもの。
文明三年(1471)兵火に掛かって焼失、
廃社になっていたのを慶長十七年(1612)
信州佐久郡依田荘の依田五郎左衛門が再興。
依田氏が後に宮崎と改め、神主として代々奉仕した。

当社奉納の宮崎組神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、
その起こりで、神を喜ばせる舞楽として各地に
それぞれのいわれをもって伝えられてきた。
金讃神楽・宮崎組は、使われる面の造りは江戸時代の
正徳年間(1711~1715年)以前のもので、
この地で古くから神楽が行われていた証である。
宮崎組は変わり面など珍しい舞い方なども伝えられ、
また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて奉納された。
なお、座(出し物)は今でも二十五座伝えられ、
本庄市指定文化財となっている。)
(本庄市教育委員会)

(八幡神社)

この後、特筆する何もなく、なだらかで退屈な長~い坂、
御堂坂が続く。
登りきったところ、本庄駅入り口の信号を左折すると、
JR本庄駅に入る。




史跡百庚申(旧中山道を歩く 56)

2005年08月31日 08時59分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(深谷宿5)
しばらく歩くと、左側にケヤキが鬱蒼と生えているのが見える。
道路を左折すると岡廼(おかのみや)神社があるので寄ってみる。
高い立ち木に囲まれた静かな神社は、室町時代から水難除けと、
豊作を祈念して奉納される獅子舞は、
現在、町の文化財に指定されている。

(岡廼神社)

元に戻り進むと、道なりに行けば右方向へなだらかに下っているが、
旧中山道の古い木の案内は直進とあるので、案内にしたがって歩く。
すこし、直進すると道路は急角度で右折していく。
豊見坂というらしいが、坂を下り終わった左側におびただしい数の庚申塔が立ち並ぶ。
これは約140年前に造られた「史跡百庚申」で、
現在では60基ほど残っている。

(史跡 百庚申)

(百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)
が庚申の年に当たり、岡(地名)の有志十三人で計画され、
翌年の万延二年にかけて完成された。
このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した
庚申塔があり、その裏面に刻まれた十三人の氏名から、
うかがい知ることが出来る。
もともとこの場所には、享保元年(1716)に
造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、
馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに
江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により
長い鎖国の夢を破られた日本国情は騒然としたもので、
民衆の生活も不安なものであった。
このような状況であったので、自然神仏に頼ろうとした
心理と万延元年(が庚申年に当たった)が重なり百庚申が
造立されたと推測される。)
(埼玉県深谷市教育委員会)

百庚申を過ぎると国道17号に出て、岡交差点で交差する。
京都側から17号線上を覗くと右旧中山道と案内看板が出ている。
中山道は何処までも京都方向からの案内がしっかりしている。
中山道も東海道も、どうやら京都三条大橋からスタートした方が判り易そうである。
そんな感じがする。

(旧中山道の案内標識)

元に戻り中山道を進むが、小山川の
滝岡橋を渡ると、本庄宿に入る。
この辺り特に記すこともなく、ただただ、ひたすら
道路を歩くことになる。