(一茶の「七番日記」の石碑。カメラを構える筆者の影が見える。)
(新町宿 5)
JR新町駅から旧中山道へ出る。
JR新町駅入り口交差点を左折すると旧中山道である。
旧中山道を歩くとすぐ左側に「史跡 高瀬屋旅館跡」の
石碑が立っている。そこには一茶がしたためた日記
「七番日記」の一節が記されている。
それによれば、一茶が高瀬屋旅館に逗留したところ、
前日からの雨で烏川が川止めとなった。しかたなく雨に疲れて
眠ってしまったが、夜明け前の午前四時頃、
「神流川に灯篭を建てて、旅人の夜の往来を助けたい。
少しでも良いから寄付をお願いしたい」と言ってきたので、
「一人くらい見逃してくれても仏様もお咎めにならないだろう」と
寄付から逃れようとするが、良心がとがめて、
どうも閻魔様の前に引き出されて、蹲っているように思えて、
12文寄付をすることになった。
と記している。
朝の五更(午前四時)に、寄付を募りに来たという。
寄付を募る時間としてはずいぶん早く感じられるが、
童謡の ♪お江戸日本橋七つだち...♪の
七つは、朝の4時。
少しでも遅れると、旅人は出立してしまう。お出かけ前が
一番捕まえやすいと考えたのであろう。
そして寄付を募った。
話がそれてしまったが、芭蕉の句碑はいたるところに
見受けられるが、一茶の句碑はそんなに見かけない。
しかし、長野県信濃町には沢山の句碑があるらしい。
暇を見つけて訪ねたいものである。
参考までに、「七番日記」の原文の一節を以下に、
文と俳句を載せておきたい。
文化七年五月
「11日雨
きのふよりの雨に烏川留まル。かかることのおそれを思へばこそ、
彼是(かれこれ)日を費やして首途(かどで)はしつれ。
今は中々災いの日をよりたるよう也。道急ぐ心も折れて、
日は斜めならざれど、
新町
高瀬屋五兵衛に泊まる
雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更の頃、専福寺と
ふとく染めなしたる挑灯(ちょうちん)てらして、
枕おどろかしていふよう、「ここのかんな川に灯篭立て、
夜の行き来を助けんことを願う。全く少なきをいとはず、
施主に連なれ」とかたる。
「かく並々ならぬうき旅一人見落としたらんとて、
さのみぼさち(菩薩)のとがめ給おふにもあらじ、
ゆるしたべ(給へ)。」とわぶれど、せちにせがむ。
さながら罪ありて閻王(閻魔様)の前に蹲るも、
かくやあらんと思ふ。十二文寄進す。
・手枕や 小言いふても 来る蛍
後へ帰らんとすれば神流川(かんながわ)の橋無く、
前へ進まんと思へば烏川舟なし。ただ駕籠鳥の空を窺ふばかり也。
・とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
・山伏が 気に食わぬやら ゆく蛍」
としるされている。
ここ高瀬屋こそ小林一茶が逗留し常夜灯の寄付をさせられた
旅籠である。当時の様子がこの日記に記されている。
この一茶の「七番日記」は、文化七年(1810)から十五年までの九年間の
綿密な見聞が書き加えられた日記と
一茶の作品(俳句)を収めたノートである。
巻頭に
「安永六年旧里を出でてより漂白すること36年也
日数15960日 千辛万苦して一日も心楽しきことなく
終(つい)に己を知らずして 白頭翁となる」
地震火事は勿論のこと、乞食の行き倒れ、夜盗、
篭脱け詐欺、売春婦の部屋で往生を遂げた男、芝居始めの役者の噂、
殺人、酒乱、夜這いの若者の記録、一茶の好奇心は並外れている。
俳句は7500句が収められているが、
日常生活のメモといって良い。
旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。
(新町宿 小林本陣跡の標柱)
参考:岩波文庫「七番日記」 丸山一彦校注(上、下巻 約480頁)
(新町宿 5)
JR新町駅から旧中山道へ出る。
JR新町駅入り口交差点を左折すると旧中山道である。
旧中山道を歩くとすぐ左側に「史跡 高瀬屋旅館跡」の
石碑が立っている。そこには一茶がしたためた日記
「七番日記」の一節が記されている。
それによれば、一茶が高瀬屋旅館に逗留したところ、
前日からの雨で烏川が川止めとなった。しかたなく雨に疲れて
眠ってしまったが、夜明け前の午前四時頃、
「神流川に灯篭を建てて、旅人の夜の往来を助けたい。
少しでも良いから寄付をお願いしたい」と言ってきたので、
「一人くらい見逃してくれても仏様もお咎めにならないだろう」と
寄付から逃れようとするが、良心がとがめて、
どうも閻魔様の前に引き出されて、蹲っているように思えて、
12文寄付をすることになった。
と記している。
朝の五更(午前四時)に、寄付を募りに来たという。
寄付を募る時間としてはずいぶん早く感じられるが、
童謡の ♪お江戸日本橋七つだち...♪の
七つは、朝の4時。
少しでも遅れると、旅人は出立してしまう。お出かけ前が
一番捕まえやすいと考えたのであろう。
そして寄付を募った。
話がそれてしまったが、芭蕉の句碑はいたるところに
見受けられるが、一茶の句碑はそんなに見かけない。
しかし、長野県信濃町には沢山の句碑があるらしい。
暇を見つけて訪ねたいものである。
参考までに、「七番日記」の原文の一節を以下に、
文と俳句を載せておきたい。
文化七年五月
「11日雨
きのふよりの雨に烏川留まル。かかることのおそれを思へばこそ、
彼是(かれこれ)日を費やして首途(かどで)はしつれ。
今は中々災いの日をよりたるよう也。道急ぐ心も折れて、
日は斜めならざれど、
新町
高瀬屋五兵衛に泊まる
雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更の頃、専福寺と
ふとく染めなしたる挑灯(ちょうちん)てらして、
枕おどろかしていふよう、「ここのかんな川に灯篭立て、
夜の行き来を助けんことを願う。全く少なきをいとはず、
施主に連なれ」とかたる。
「かく並々ならぬうき旅一人見落としたらんとて、
さのみぼさち(菩薩)のとがめ給おふにもあらじ、
ゆるしたべ(給へ)。」とわぶれど、せちにせがむ。
さながら罪ありて閻王(閻魔様)の前に蹲るも、
かくやあらんと思ふ。十二文寄進す。
・手枕や 小言いふても 来る蛍
後へ帰らんとすれば神流川(かんながわ)の橋無く、
前へ進まんと思へば烏川舟なし。ただ駕籠鳥の空を窺ふばかり也。
・とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
・山伏が 気に食わぬやら ゆく蛍」
としるされている。
ここ高瀬屋こそ小林一茶が逗留し常夜灯の寄付をさせられた
旅籠である。当時の様子がこの日記に記されている。
この一茶の「七番日記」は、文化七年(1810)から十五年までの九年間の
綿密な見聞が書き加えられた日記と
一茶の作品(俳句)を収めたノートである。
巻頭に
「安永六年旧里を出でてより漂白すること36年也
日数15960日 千辛万苦して一日も心楽しきことなく
終(つい)に己を知らずして 白頭翁となる」
地震火事は勿論のこと、乞食の行き倒れ、夜盗、
篭脱け詐欺、売春婦の部屋で往生を遂げた男、芝居始めの役者の噂、
殺人、酒乱、夜這いの若者の記録、一茶の好奇心は並外れている。
俳句は7500句が収められているが、
日常生活のメモといって良い。
旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。
(新町宿 小林本陣跡の標柱)
参考:岩波文庫「七番日記」 丸山一彦校注(上、下巻 約480頁)