(小野町の看板)
(小野町の集落)
(小野こまち会館)
(鳥居本宿 4)
やがて右手に(彦根市小野)の看板があり、小野の集落に入って行く。
集落に入るとすぐ左手に「小野こまち会館」があり、
右手に「安立寺」がある。
道路わきには地蔵堂とお手洗いが目に付き、
道路わきの流れに汚物を流しているのかと、
眺めてみたがそんな様子もない。
(安立寺)
(地蔵堂)
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(地蔵堂3)
(お手洗い)
地蔵堂は旅人の安全を願って造られた信仰のしるしで、
お手洗いは田園の肥料を運び出すのに便利なように、
道路わきに作られて居るように思う。
人の糞尿は肥料として最も作物に効果があるとされていた。
東京の西武線や東上線などは、元はと言えば糞尿を運んだものが基になっている。
回虫などが蔓延するなど、衛生上の問題で糞尿は使用されなくなった。
、
話を戻そう、
やがて新幹線の高架が道路に迫り、
線路の向こう側に八幡神社の鳥居が見える。
道路は登り坂になっており、線路の高架との間に空き地があり、
「五反田・的場(弓の練習場)」の看板が立っている。
説明どおりで練習場にぴったりの場所である。
登り坂の途中の高速道路が迫ってきている左手に、
「小野小町塚」がある。
(八幡神社の鳥居が常夜灯の向こうに見える)
(上り道路と新幹線高架との間の空き地)
(弓矢の練習場の看板)
(小町塚)
小野町の説明では、
(鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、
京都から鎌倉に向う途中、小野宿に宿泊したと「十六夜日記」にある。
中世、小野の地は、東山道の駅家として機能していました。
また、藤原定家の「明月記」などに記される庄園「小野庄」は、
当地域が想定されている。
地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、
小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っている。
『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、
小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。
美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。
この女児が小町という。』
――中略――
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏
(十五世紀後半の造仏)がある。
自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされている。
正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、
類例がなく貴重なものである。)(小野町)とある。
小野小町といえば有名な歌人で、百人一首にも選ばれている歌がある。
・花のいろは 移りにけりな いたずらに
わが身世にふる ながめせし間に
である。
この歌がなければ、ボクも小野小町なんて知らなかったに違いない。
(花の色は移りにけりな)とは、
桜の花は満開になったがという意味だと教わって、
花の色といえば日本では(桜)であると、
花の色といえば日本では(桜)であると、
はじめて知ったので記憶に残っている。
小野小町伝説は日本各地にあり、
最も有力なのが秋田県湯沢市小野という所らしい。
だから秋田で取れる美味しいお米を「あきたこまち」というほど。
小野小町伝説は日本各地にあり、
最も有力なのが秋田県湯沢市小野という所らしい。
だから秋田で取れる美味しいお米を「あきたこまち」というほど。
うん!なっとく!
とばかり喜んで入られない。
第一中山道を紀行文にしているボクにとっては、
どうしてもここ彦根市小野町の小町塚が、
小野小町の塚であって欲しいのだ。
小町塚の地蔵堂の中の「小町地蔵」は、
阿弥陀如来坐像が浮彫りになっているというが、
実際どうかと地蔵堂を覘いてみたが、
ガラスが曇っていて中が見えない。
最近の高性能のデジカメでなんとか撮ってみたが、
浮彫りになった阿弥陀如来坐像に見えるだろうか?
(駒千塚と地蔵堂)
(小町地蔵尊、我田引水であるが阿弥陀如来坐像に見える)
小町塚をあとに進むと新幹線の高架をくぐり向こう側へ出ると、
一面の田圃でその先の右手に石材店があり、
狸の置物が小町はともかく忘れなさいと云わんばかりの姿をしていた。
(新幹線のガードをくぐる)
(ガードの向こうは一面の田畑)
(狸)
その先の右手に「原八幡神社」の鳥居がある。
鳥居の下に「芭蕉の昼寝塚」「祇川の白髪塚」がある石碑が建っている。
鳥居をくぐると奥に二の鳥居があり、
入ると立派な神社であることがわかった。
普通鳥居の正面に本殿があるものだが、
本殿は右横にあり、正面にあるのは二つの塚であった。
(原八幡神社の鳥居)
(紅葉真っ盛りの二の鳥居前)
(白髪塚とひるね塚)
左手が白髪塚で右手が昼寝塚だという。
右手の「ひるね塚」の案内によると、
(・ひるかおに ひるねせうもの とこのやま
俳聖 松尾芭蕉が、中山道を往来する旅人が、
夏の暑い日にこの涼しい境内地で、昼寝などしている、
つかの間の休息をしている「床」と「鳥籠山(とこやま)」
をかけて詠われたものと思われる。)とある。
(昼寝塚)
もう一つの白髪塚の案内に、
(・恥ながら 残す白髪や 秋の風
芭蕉門四世・祇川居士(芭蕉の門人)が
聖徳太子と守屋との戦い等幾多の戦の将士たちをあわれみ、
芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。)とある。
白髪塚はかろうじて読めるが、
昼寝塚のほうは読み取ることが出来ず、案内でやっと分かった。
神社で参拝して中山道を西に向う。
(原八幡神社の本殿)
(昼寝塚)
もう一つの白髪塚の案内に、
(・恥ながら 残す白髪や 秋の風
芭蕉門四世・祇川居士(芭蕉の門人)が
聖徳太子と守屋との戦い等幾多の戦の将士たちをあわれみ、
芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。)とある。
白髪塚はかろうじて読めるが、
昼寝塚のほうは読み取ることが出来ず、案内でやっと分かった。
神社で参拝して中山道を西に向う。
(原八幡神社の本殿)