中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

小野小町塚と芭蕉の昼寝塚(旧中山道を歩く 299)

2012年01月31日 11時44分22秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(小野町の看板)


(小野町の集落)


(小野こまち会館)

(鳥居本宿 4)
やがて右手に(彦根市小野)の看板があり、小野の集落に入って行く。
集落に入るとすぐ左手に「小野こまち会館」があり、
右手に「安立寺」がある。
道路わきには地蔵堂とお手洗いが目に付き、
道路わきの流れに汚物を流しているのかと、
眺めてみたがそんな様子もない。


(安立寺)


(地蔵堂)

^p1
(地蔵堂3)

(お手洗い)

地蔵堂は旅人の安全を願って造られた信仰のしるしで、
お手洗いは田園の肥料を運び出すのに便利なように、
道路わきに作られて居るように思う。
人の糞尿は肥料として最も作物に効果があるとされていた。
東京の西武線や東上線などは、元はと言えば糞尿を運んだものが基になっている。
回虫などが蔓延するなど、衛生上の問題で糞尿は使用されなくなった。

話を戻そう、
やがて新幹線の高架が道路に迫り、
線路の向こう側に八幡神社の鳥居が見える。
道路は登り坂になっており、線路の高架との間に空き地があり、
「五反田・的場(弓の練習場)」の看板が立っている。
説明どおりで練習場にぴったりの場所である。
登り坂の途中の高速道路が迫ってきている左手に、
「小野小町塚」がある。



(八幡神社の鳥居が常夜灯の向こうに見える)


(上り道路と新幹線高架との間の空き地)


(弓矢の練習場の看板)


(小町塚)

小野町の説明では、
(鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、
京都から鎌倉に向う途中、小野宿に宿泊したと「十六夜日記」にある。
中世、小野の地は、東山道の駅家として機能していました。
また、藤原定家の「明月記」などに記される庄園「小野庄」は、
当地域が想定されている。
地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、
小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っている。
『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、
小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。
美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。
この女児が小町という。』
――中略――
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏
(十五世紀後半の造仏)がある。
自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされている。
正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、
類例がなく貴重なものである。)(小野町)とある。

小野小町といえば有名な歌人で、百人一首にも選ばれている歌がある。

・花のいろは 移りにけりな いたずらに
         わが身世にふる ながめせし間に

である。

この歌がなければ、ボクも小野小町なんて知らなかったに違いない。
(花の色は移りにけりな)とは、
桜の花は満開になったがという意味だと教わって、
花の色といえば日本では(桜)であると、
はじめて知ったので記憶に残っている。

小野小町伝説は日本各地にあり、
最も有力なのが秋田県湯沢市小野という所らしい。
だから秋田で取れる美味しいお米を「あきたこまち」というほど。

うん!なっとく!

とばかり喜んで入られない。

第一中山道を紀行文にしているボクにとっては、
どうしてもここ彦根市小野町の小町塚が、
小野小町の塚であって欲しいのだ。

小町塚の地蔵堂の中の「小町地蔵」は、
阿弥陀如来坐像が浮彫りになっているというが、
実際どうかと地蔵堂を覘いてみたが、
ガラスが曇っていて中が見えない。
最近の高性能のデジカメでなんとか撮ってみたが、
浮彫りになった阿弥陀如来坐像に見えるだろうか?


(駒千塚と地蔵堂)


(小町地蔵尊、我田引水であるが阿弥陀如来坐像に見える)

小町塚をあとに進むと新幹線の高架をくぐり向こう側へ出ると、
一面の田圃でその先の右手に石材店があり、
狸の置物が小町はともかく忘れなさいと云わんばかりの姿をしていた。


(新幹線のガードをくぐる)


(ガードの向こうは一面の田畑)


(狸)

その先の右手に「原八幡神社」の鳥居がある。
鳥居の下に「芭蕉の昼寝塚」「祇川の白髪塚」がある石碑が建っている。
鳥居をくぐると奥に二の鳥居があり、
入ると立派な神社であることがわかった。
普通鳥居の正面に本殿があるものだが、
本殿は右横にあり、正面にあるのは二つの塚であった。


(原八幡神社の鳥居)


(紅葉真っ盛りの二の鳥居前)


(白髪塚とひるね塚)

左手が白髪塚で右手が昼寝塚だという。
右手の「ひるね塚」の案内によると、

・ひるかおに ひるねせうもの とこのやま 

俳聖 松尾芭蕉が、中山道を往来する旅人が、
夏の暑い日にこの涼しい境内地で、昼寝などしている、
つかの間の休息をしている「床」と「鳥籠山(とこやま)」
をかけて詠われたものと思われる。)とある。


(昼寝塚)

もう一つの白髪塚の案内に、

・恥ながら 残す白髪や 秋の風 
 
芭蕉門四世・祇川居士(芭蕉の門人)が
聖徳太子と守屋との戦い等幾多の戦の将士たちをあわれみ、
芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだ句と思われる。)とある。

白髪塚はかろうじて読めるが、
昼寝塚のほうは読み取ることが出来ず、案内でやっと分かった。

神社で参拝して中山道を西に向う。

(原八幡神社の本殿)





専宗寺(旧中山道を歩く 298)

2012年01月27日 10時20分11秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(専宗寺の山門)


(専宗寺の石柱)


(鳥居本宿 3)
中山道を歩くのは、土日、祝日は電車が込むので敬遠。
月曜日は資料館、博物館がお休みで敬遠。
その他のウイークデイで、
二日連続して天候に恵まれる日を選ぶことにしている。
傘を持って歩くと荷物が増えて困るからだ。
暑い日や寒い日はお断り、
その他に、自分勝手なゴルフの約束の日、
世界経済の動向、金融論の講習日、
心臓、糖尿病、血液ガンの月一回の定期健診の日には行かれない。
こう考えていくとなかなか段取りを取るのが難しい。

それでも11月30日は天候良好。12月1日は曇であるが寒くなる。
そんな予報で出かけることにした。
東京駅を6時26分発のひかり501号に乗り、米原着8時54分。
近江鉄道で鳥居本駅着9時15分頃。

田舎の道は人っ子一人も居ない。
車だけが多く走っているように思う。
赤玉神教丸の赤いのれん、本陣家の寺村家の前を通り、
鳥居本宿を髣髴とさせる街並みの中を進む。
右手に脇本陣跡、その先左に十五軒あった
「合羽所」の一つ「松屋」が
当時のまま合羽所の看板を屋根の上に残して
建物は改築されている。
国道8号線に抜ける大きな十字路の点滅信号を越えると、
右手に洞泉山専宗寺がある。


(脇本陣跡)


(合羽所の看板が屋根の上にある。)


(点滅信号の向こう側右にある常夜灯)

専宗寺は、
(文亀二年(1502)及び天文5年(1536)の
裏書のある開基仏を有する浄土真宗の古寺で、
現在の本堂は18世紀後半のものと推定される。
なお、この専宗寺山門の右側にある太鼓門の天井には、
石田三成の居城として知られる佐和山城の遺構(通用門)が、
使用されているという。)(鳥居本お宝発見隊)とある。


(佐和山城下町への案内)


(専宗寺の太鼓門)


(太鼓門の天井は佐和山城の通用門であった)

さらに進むとT字路に出でるが、その右向こう側に道標がある。
「左 中山道 京いせ道  右 彦根道」とある。
彦根市の説明によると、
(――前略――
中山道と彦根道(朝鮮人街道)との分岐点に建つこの道標は、
文政十年(1827)に建立されたもので、
彦根道は二代彦根藩主 井伊直孝の時代に
中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備されました。)とある。


(静かな鳥居本宿のうだつが上がる建物)


(左中山道の道標)


(右彦根、左中山道の道標)

この街道は、彦根・安土・近江八幡を経て野洲まで約40kmある。
野洲で中山道に合流する、朝鮮通信使の通った道で彦根側の入り口である。
その先中山道は田圃に囲まれた道になり、
右手は新幹線の高架、
左手は高速道路に挟まれた狭い場所を抜けていく。


(鳥居本の街並みは終り田園の中へ入る)


(田圃の中の道を行く)


(右は新幹線の高架)


(左は名神高速)







鳥居本宿と近江鉄道(旧中山道を歩く 297)

2012年01月24日 11時25分27秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(鳥居本の宿場の風情を残す街並み)

(鳥居本宿 2)
旧中山道に戻って進むと、時代を髣髴とさせる建物がある。
元「東屋」という旅籠で、彦根市の説明によると、
(ここに住む岩根治右衛門は井伊直弼の絵の師匠である中島安泰に学び、
自分に自然であれと自然斎(じねんさい)の号を賜り、
絵付師として精進していました。――中略
建物内は旅籠の風情を残しています。)とある。


(鳥居本の旅籠「東屋」)

さらに進むと、今は製造こそしていないが鳥居本合羽製造所の看板
(山一 本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門)が当時のまま残っている。
彦根市の説明によると
(享保五年(1720)馬場弥五郎が創立したことに始まる鳥居本合羽は、
雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、
文化・文政年間(1804~1830)には十五軒の合羽所がありました。
――中略――東京や伊勢方面に販路を持った「木綿屋」は、
大名家や寺院、商家を得意先として、
大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していた。
――後略)とある。


(木綿屋嘉右衛門 昔ながらの合羽所の看板)

その斜め前、つまり街道の左手に旧本陣「寺村家」がある。
もともと本陣は、最小でも部屋数20室ほどトイレ浴槽は四箇所はある広い建物で、
大名などが宿泊する上段の間を持つ。
鳥居本宿の本陣 寺村家もこれに劣らぬ建物であったが、
明治になって洋館に建て直されたようだ。
現在はその洋館が残っている。
庭には元本陣家を象徴する大きな木が繁っている。


(木陰に今の本陣家が見える)

その先右折する道路があるが、
右折した正面に信号があり、近江鉄道の「鳥居本駅」の立派な駅舎がある。
駅舎は立派でも無人駅で、もちろん電車は単線であった。
駅舎は閑散として寂れた感じは否めない。
時間も迫って帰路に着こうとホームに立つと運良く電車がきた。
ワンマン電車である。


(奥に鳥居本駅が見える)

電車に乗ろうとドアー前に立ってもドアーは開かず、
ドアー横に(後乗前降)と書いてある。
ご婦人が一人乗車を待っておられたから良かったが、
あわてて後ろのドアーへ行く。
二両連結車両で、乗客はボクを入れて四名。
次の駅で一名下車するのを見ていると、
前のドアーから降りる時に料金を払っている。
料金を前の方に居る運転手に渡す、
これは以前乗った樽見線ワンマン電車で経験済み。


(鳥居本駅のワンマン電車)

さて次が終点の米原駅。
停車するとドアーが全部開いて、
運転手はさっさと降りて行ってしまった。
「乗っていた人に乗車賃はどこで払うのですか?」と聞いたら、
「私もそれを聞きたかったのです。」という。
つまりこのご婦人も初めての乗車らしい。
そこへ交代の運転手らしき人が歩いてきたので訊くと、
「駅のホームの先に改札があって、そこでお支払いください。」という。
僅か二駅なのに300円取られた。
二駅の料金は、東京ではJRで150円、都営地下鉄で170円なのに・・・
乗客の多寡によるのだろうっか・・・

ついでに米原駅の新幹線ホームはどこか訊いたら、
「目の前の白い建物がJRの駅です。そこからお乗りください。」
これはその通りであったが、その建物のどこにホームはあって、
入り口はどこかくらい説明して欲しかった。
新幹線に乗ると疲れがどっと出て、
東京に着くまで眠ってしまった。


(米原駅のワンマン電車)

本日の歩行数56045歩=約34km。
帰宅したのは20時30分であった。




赤玉神教丸と上品寺(旧中山道を歩く 296)

2012年01月21日 10時42分41秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(「おいでやす彦根へ」のモニュメント)


(旅しぐれ中山道松並木の看板)

(鳥居本宿)
国道八号線に出て左折し、矢倉川の橋を渡ると、
道路左脇に入る道があり、
「おいでやす 彦根市へ」のモニュメントが左手にある。
ここから鳥居本宿である。

道路左右に昔の面影を取り戻そうと松並木が造られつつある。
道路脇に(旅しぐれ中山道松並木)の看板があり、
この松並木は彦根八景の一つに数えられている。
彦根八景は、住民が選んだ風景の(ベスト8)。
どうゆうものかと言うと、
ボクの住まいの板橋十景のようなもの。
例えば、板橋の名の由来の「板橋」とか、
「志村の一里塚」とかを想像してもらえば良い。
彦根八景は、やはり「彦根城」とその横にある「玄宮園」、
そしてこの「旅しぐれ中山道松並木」などである。
この松並木を鑑賞に足りるようになるには、
あと30年ほど必要かと思われる。


(彦根八景の彦根城)


(彦根八景の一つ玄宮園)


(まだ若い松並木)


(松並木2)

鳥居宿を進むと道路はすぐ右、左と鉤の手に曲がるが、
その曲がり角に胃腸薬で有名な(赤玉神教丸)の有川家があり、
今でも薬の営業をしている。
彦根の鳥居本には三つの赤の名産があり、
その一つが赤玉神教丸であり、
他の二つは鳥居本合羽とスイカであった。
彦根城主井伊家の武者は赤揃いで、
「関が原の役」を戦った赤鬼魂と共に広まったという。


(うわさ通り赤い赤玉神教丸の暖簾)


(赤玉神教丸の有川家)


(明治天皇御小休所の碑)

その赤玉神教丸有川家の右手には、屋根つきの屋敷門があり、
その門前に「明治天皇御小休所」の石柱が立っている。

その有川家の左手に細い道があるので、
入っていくと国道8号線の向こう側に、
「上品寺」の石柱と鐘楼が見える。
石柱の奥にもう一つの石柱があり、
これには「法海坊旧跡」とある。


(上品寺の石碑と話題の鐘楼)


(法海坊旧跡の石碑)

法海坊(七代了海)は、
(上品寺の釣鐘を作る費用のために江戸市中を托鉢して廻った。
しかし鐘には、新吉原の遊女の名があることから、
破戒僧として歌舞伎などに取り上げられている。
実際には遊女が病で困っているのを見た法海坊が、
托鉢した金を出して救ってあげたりしたのに感謝して、
沢山の遊女から寄付金が集まり、
作られた釣鐘を、一人で江戸から大八車で近江(滋賀県)まで運んだ努力は、
何物にも変えがたく、先の世界大戦時にも供出されることはなかった。)(鳥居本町)
その釣鐘が鐘楼に在る。


(上品寺本堂)








摺針峠(旧中山道を歩く 295)

2012年01月18日 10時23分35秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(蓮花寺を出て番場宿を行く)


(番場の宿場内を行く)


(番場宿 4)
蓮華寺を出て中山道を進む。
道路は少しずつ登りになっている。
山に挟まれた僅かばかりの畑や田圃が中山道を取り巻いている。
鎌刃城まで3kmの案内があったり、
中山道西番場の手書き案内があったりする。
右手に北野神社、称揚寺を見て進む。
道はぐんぐん登っている。
家並みが途切れた所に、「中山道 番場」の石碑がある。
西から来る人には、番場宿の入り口、
東から来た人には番場宿の出口になる。


(鎌刃城まで3kmの案内)


(北野神社)


(中山道 西番場の案内)


(称揚寺)


(中山道 番場宿の石碑)


(高速道路脇の長い登り坂)

中山道は左の高速自動車道と一緒に長~い坂道を登っていく。
しばらく行くと旧中山道は高速道路から右に離れて行く。
道路は下り坂となり三叉路に出る。
左角に道標が二本建っているが、とても分かり難い道標で、
歩いてきた方から見て正面に「右中山道」、右面に「左中山道」と書いてある。
もう一つの道標には、中山道の道標と同じ面にあるのは、
「右中山道」のある面には「番場 醒井」とあり、
「左中山道」とある面には「摺針峠 彦根」とある。


(三叉路)


(見難い標柱)

どちらから見て右でどちらから見て左なのだろうか?
近辺の地理に詳しい人なら分かるのであるが、
この道標だけでは分からない。
このあと、中山道は摺針峠へ向かうことだけは解っている。
左へ行けば、高速道路と平行して坂を登っていくのが見えている。
右へ行けば山道を登っていくようだ。

どちらかと言えば、右へ行くのが山の中へ行きそうで、
この際方向としては正しそうである。と考えて90℃右折する。
「右中山道」である。
ところが「右中山道」を標識で見ると彦根方面でなく、番場方面となっている。
判りにくい標識で、これを無視して、
とにかく「右中山道」へ歩くことにする。

周りは山間のわずかばかりの田畑の間を道路は抜けている。
やがて今度は左に90℃左折し、上りの勾配がきつくなる。
途中拾った杖代わりの枝がこんなに役立つとは思わなかった。
木の枝の杖のお陰で、比較的楽に平地を歩いているかのように、登っていく。
右手に「平野山 称名寺」を見て上ると、左手にさらに上に登る道がある。
神明神社と思われるが、疲れて上に行く勇気がない。
上に登れば火災にあった望湖堂があるはずである。
そして広重はこの望湖堂から見た琵琶湖を、
「鳥居本」の浮世絵にして残している。
ここが摺針峠である。


(平野山 称名寺)


(広重描「木曽海道六拾九次之内 鳥居本」)

諦めて先に進むと、左手に「旧中山道鳥居本宿左」の
消えかかった案内があり、コンクリートの階段と鉄の古ぼけた手すりがある。
「旧中山道」は曲がりくねった自動車道を串刺しにするように、
急勾配で下っている。
道はもちろん草道で、足をとられないように注意して歩く。
どんなに人里は離れた所でも、
ペットボトルの空き瓶やジュースの空き缶が、
泥まみれになって転がっているのが、日本の道路である。
自動車道から投げ込んだものか、
あるいは歩行者が荷物を軽くするために捨てたものか判らないが、
旧中山道の案内看板を書いた人は、
この古道を世界遺産にしたいと記しているが、
ゴミが多いこの道では、世界遺産に登録することは、
とても無理だと思った。


(旧中山道入り口の案内)


(旧中山道の草道)


(旧中山道の急な下り坂)


(自動車道を串刺しにして通る旧中山道)


(瓦礫の山道)

泥の道路を整備し、橋を架け、歩きやすくしてある。
山を下りきった出口は国道8号線にぶつかり、
大きな看板で、
「旧中山道 明治天皇御聖跡 弘法大使縁の地 磨針峠 望湖堂 」
(是より歩いて八百米)と案内があるが、
残念ながら、出口右側になにやら道路工事か建築工事のクレーンや
ブルトーザーなどの建設機械を囲っている鉄板の塀が、
50メートルほどに渡って続いているようでは、
とても世界遺産になりそうにない。


(旧中山道の橋)


(竹薮の横の道)


(旧中山道 磨針峠望湖堂まで800mの看板)

国道8号線を左折。
この道路も本来国道21号線の延長線にあるが、
どこから8号線になったものやら判らない。
旧中山道は、矢倉川の橋を渡って国道8号線と左に分かれて、
鳥居本宿に入っていく。

松並木の手前左手に、
「おいでやす 彦根市へ」のモニュメントが、
旅人を出迎えてくれる。

(*)筆者注:国道8号線は新潟県新潟市が起点で京都までであるが、
国道21号線は米原から8号線となっていることが判った。


(国道8号線)


(おいでやす 彦根市のモニュメント)





「瞼の母」の番場の忠太郎(旧中山道を歩く 294)

2012年01月15日 10時45分41秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(土肥三郎の墓)

(番場宿 3)
蓮華寺境内の山腹を降りて本道脇に来ると、
説明のあった鎌刃城主の土肥三郎元頼の立派な墓がある。

そこから本堂裏手へ抜けると、
右手に霊木「一向杉」が、左手の高い所に番場の忠太郎地蔵尊がある。
「一向杉」については、
(樹齢700年の巨木で「一向杉」と呼ばれ、
開山一向上人が弘安10年(1287)遷化され荼毘にふされた跡に、
この杉は植えられたものです。
高さ30m、周囲5mを越える大木である。
現在は滋賀県の指定天然記念物になっている。)(蓮華寺)


(一向杉)


(一向杉大きすぎてカメラに納まらない)

また、番場の忠太郎については、
(戯曲「瞼の母」の作者で名高い長谷川伸が
「南無帰命頂礼親を尋ねる子には親を、
子を尋ねる親には子をめぐり合わせ給え」との悲願を込めて建立された
番場忠太郎地蔵尊が、一向杉の左の方に建っている。)(蓮華寺)
架空の人物 番場の忠太郎の地蔵尊が由緒ある寺院に建っているは珍しい。


(「親をたずねる子には親を・・・」の碑)

しかし、架空人物と言えば、長谷川伸の「沓掛時次郎」の碑が、
信濃の沓掛宿の長倉神社にあった。沓掛は今中軽井沢となっている。
ラジオしか楽しみがなかった昭和30年代までは、
親に付き合って、長谷川伸の講談や浪曲「瞼の母」や
「沓掛時次郎」の話を良く聴かされた。
また映画での思い出もある。

今となっては楽しい思い出である。

(「瞼の母」の番場の忠太郎地蔵尊)





蓮華寺と「北条仲時他430余名の墓」(旧中山道を歩く 293)

2012年01月12日 10時20分37秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(史跡 蓮華寺の石塔)

(番場宿 2)
「史跡 蓮華寺」の石塔の奥には、高架の高速道路が見え、
その奥に山門らしきものが見える。
山門に近づくと、観光客らしき数人が門の前を通り過ぎて行く。
門の右側が駐車場になっており、タクシーが今のお客様を乗せて出て行った。

山門は「勅使門」と言い一段高い所にある。
勅使門は、勅使が参内されたとき通られる門で、普段は閉じている。
この勅使門の左横に小さな溝があり「血の川」と称される。
これは六波羅探題北条仲時公以下四百三十余名が自刃したとき、
血が川となって流れたものという。


(蓮華寺の勅使門)


(「血の川」の案内)


(血の川)

浄土宗本山 八葉山 蓮華寺によれば、
(元弘三年五月九日(およそ680年前)
足利尊氏と京都の合戦で破れ、
鎌倉に落ち延びる六波羅探題北条仲時公は、
北朝の天子光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて中山道を下り、
番場の宿場に着いたとき、
南朝軍の佐々木京極道譽らの重囲に陥り、
やむなく蓮華寺に玉輩(ぎょくれん=天皇を載せた手車)を移し、
大いに戦いたるも、
再び戦いに敗れついに本堂前庭において、
仲時以下四百三十余名ことごとく自刃した。
時の第三代住職同阿上人は深く同情して、
その姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、
さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。
その墓は境内にあり、
過去帳は重要文化財として蓮華寺に所蔵されている。)とある。

門の中に入ると、机が通路においてあり、
「見学料300円を箱に入れて印刷物をお取りください」とある。
幸い小銭で300円あったから良いものの、
小銭のない方は如何すれば良いのだろう。
紙幣を出してもお釣りを下さる人は見廻した所誰もいない。
お布施と思って紙幣を箱に入れてしまえばそれまで。
無神論者のボクにはお布施とは思えないが・・・

目の前の立派な本堂に会釈をすると、
本堂にかかっている「蓮華寺」の扁額は、
後水之尾天皇の御宸筆(元録11年)であると、説明にある。


(蓮華寺の本堂、屋根の菊のご紋が見えるだろうか?)


(後水之尾天皇筆の蓮花寺の扁額)

自刃した六波羅探題の北条仲時以下430名余の五輪塔は、
本堂を右に廻った山の中腹に在る。
山道は整備されていて、3人並んでも登れる道路である。
ご婦人2名と男性1名の先客があり、
御参りをして山を降りていった。
左手に並んだ五輪塔の数は圧倒的な量で、
どれが仲時公のものか分からない。
お城の石垣のように石垣が組まれ、
その上に三段に渡ってずらりと並んでいる。
感想を述べれば(壮観)の一語に尽きる群墓である。


(430余名の墓)

(蓮華寺は約1300年の昔 聖徳太子が創建せられ、
法隆寺と称していたが、建治2年(1276)落雷により焼失。
その後弘安7年(1284)の夏、一向上人が諸国行脚の錫を止めて、
念仏を宣布して広く民衆を化導せらる。
時の領主 鎌刃城主の土肥三郎元頼は深く一行上人に帰依して、
堂宇を再興し、「八葉山 蓮華寺」と改称した。
歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院として勅許を賜り、
寺紋として菊の紋を下賜される。)と蓮華寺の説明にある。

現在は浄土宗に帰属して浄土宗本山になっている。

境内に斉藤茂吉の歌碑があり、

・松風の 音きくときは 古の(いにしへの)

 聖の如く 我は寂しむ 


 とある。


(斉藤茂吉の歌碑)





問屋場が沢山あるのはなぜ?(旧中山道を歩く 292)

2012年01月09日 10時14分37秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(久禮の一里塚跡)


(番場宿の中へ入っていく)

(番場宿)
久礼の一里塚跡から民家が並ぶ街道を歩くが、
街の中で「問屋場跡」の石碑が他の宿場以上に多く、
民家の前にその石碑は建っている。
郵便ポストのある家の軒先には、
「中山道番場宿」の手書き看板がある。


(番場宿問屋跡の一つ目の碑)


(ポストのある家の番場宿の手書き看板)

石塀の前にある二番目の「問屋場跡」の石碑を見て通り過ぎると、
次に「中山道 番場宿」の大きな石碑が右にある。
そこは小公園になっていてベンチも置いてある。
いよいよここから宿場の中に入って行く。
すぐ右に「米原 汽車 汽船道」の石碑がある。
これは「問屋場跡」の石碑が多いのと何か関係がありそうである。


(石塀の前の問屋場)


(石塀の前の問屋場跡の二番目の碑)


(番場宿の大きな石碑)


(米原道の碑)

続いて「脇本陣跡」の碑が二階家前の花壇の石のうえにあり、
続いて三番目の「問屋場跡」の碑が、瀟洒な二階建ての家の前にある。
四番目の「問屋場跡」の碑は、左手の倉庫らしき建物の横にあり、
その向かい側には、「本陣跡」の碑があり、
その後ろには最近建ったらしい近代的な家がある。
五番目の「問屋場跡」の碑の横には、
「明治天皇番場御小休所」の碑もある。
六番目の「問屋場跡」の碑は、
茶道教室を開いていらっしゃる家の前にある。
いずれも建物に昔の面影は殆んど残ってない。


(脇本陣跡の碑)


(三番目の問屋場跡の碑)


(倉庫横の問屋場跡の4番目の碑)


(本陣跡の碑)


(五番目の問屋場跡の碑と「明治天皇番場御小休所」の碑)


(六番目の問屋場跡の碑)

(古代より東山道の宿駅として町を形成してきた番場宿は、
江戸時代に琵琶湖の水運が発達して、米原に湊が開設されると、
中山道から湊へ通じる道が作られ、積荷の往来が盛んになり、
問屋場が六軒も必要になるほどの繁盛振りを示した。)(米原市)
これで番場宿に問屋場跡が多いということが分かり、
{米原 汽車 汽船道}の石碑も、
米原港への道標であったことが分かる。

少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」・
「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」と墨書された縦長の大看板がある。
近づくと手前左手に「史跡 蓮華寺」の石塔があり、
高速道路をガードでくぐった奥のほうに山門らしきものが見える。

蓮華寺である。

(「南北朝の古戦場 蓮華寺」と「瞼の母」番場の忠太郎の看板)


(史跡 蓮華寺の石塔と奥に見えるか山門)







「十王水」と「西行水」(旧中山道を歩く 291)

2012年01月04日 09時41分34秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(十王水)

(醒ヶ井宿 3)
その先左手の地蔵川の中に「十王水」の石灯篭が建っている。
灯籠の竿部分に「十王」と刻まれている。
(平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、
この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。
もとより浄蔵水と称すべき所を、
近くに十王堂があったことから
「十王水」と呼ばれるようになった。)という。
水は透き通って清らかである。


(居醒橋)


(西行水の案内)

その先の右手に居醒橋があり、
その袂に「西行水」左の案内杭があるので、そちらに向う。
滋賀県に入って、距離の入ったこの案内杭は大変役にたった。
醒ヶ井の宿場を抜けていくと、左に「西行水」の目に付く看板があるので、
そこを左折すると、広場になっており、突き当たりは山すその崖で、
崖下を地蔵川が流れている。


(西行水の案内看板)

左の方に泡子塚のの説明板がある。
(岩の上には、仁安三戌子年秋建立の五輪塔があり、
「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれている。
伝説では、西行法師東遊のとき、
この泉の畔で休息されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、
西行の発った後の呑み残しの茶の泡を飲むと、
不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。
その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休息した時、
娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して、
「今一滴の泡変じてこれ児となる、
もし我が子ならば元の泡に返れ」と祈り、

・水上は 清き流れの醒井に
    浮世の垢をすすぎてやみん

と詠むと、児はたちまち消えて、元の泡になりました。
西行は、実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。
今もこの辺りの小字名を児醒ヶ井といいます。)とある。


(西行水のある広場)


「(西行水」と五輪塔)


(「西行水」の水源湧水)

西行水の跡地を出て、中山道を西に進むと、
T字路右角の地蔵川脇に立っている、
「番場宿1里」の道標がある。
登り坂の道路を進むと十字路に出でる。
手前左には、近江西国第十三番「霊場 松尾寺」の石塔があり、
十字路を渡った右に「東海北陸自然歩道」の案内柱が建っており、
これは左を指している。
左を見ると、高速道路が走っており、
高速道路に沿って手前を右折する「東海北陸自然歩道」の案内が見える。


((T字路角の案内石柱)


(石柱の拡大)


(十字路)


(松尾寺の石柱)


(「東海北陸自然歩道」の案内)

どうもこれは違っている様子。
もう一度、十字路先を見ると、「東海北陸自然歩道」の道標の右横に、
中山道の案内が見えた。
この案内によると中山道は直進するようになっている。
道標にしたがって直進すると国道21号線に突き当たる。

案内によるとこの辺りに「一類孤魂等衆」の碑があるはずで、
文字の意味がわからなくて記憶に残っている碑があるはずと、
廻りを見渡すと道路の向こうに大きな木があり、
その下に供養碑はあった。
交通量が多く、渡るのにも注意をして行く。


(「一類孤魂等衆」の碑)

(江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、
一人の旅の老人が「母親の乳が飲みたい・・・」と
つぶやいていた。人々は相手にしなかったが、
乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い、
「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやりました。
老人は、二口三口美味しそうに飲むと、
目に涙を浮べ、
「有難うございました。懐に七十両の金があるので貴女に差し上げます」
といい終わると、母親に抱かれて眠る子のように、
安らかに往生を遂げました。
この母親は、お金を戴くことは出来ないと、
老人が埋葬された墓地の傍らに、
「一類孤魂等衆」の碑を建て供養したと伝えられています。)
旧中山道はこの碑の先しばらく国道21号線に合流するのですが、
すぐ先に丹生川(にゅうがわ)があります。
その川の橋を渡ることになるのですが、
生憎、橋は交通量が多いため自動車道と歩道に区切られていて、
しかもその歩道は今ある供養碑の反対側にある。
すばやく道路を渡り、歩道橋を渡る。
次に中山道は21号線から分かれて右へ行かなければならず、
交通量の多い21号線を再び横断する。


(丹生川の歩道用の橋)


(橋を渡り終えたら右側へ渡る)

横断した所から21号線は右側に歩道があり、すぐ先に右折する道が見える。
右折すると、大きな看板で「中山道」とある。
中山道はここから車も人通りもなく田舎道でホッとする。


(右折した道路にある「中山道」の看板)


(街道らしい佇まい)

0087
(お休みどころ「いっぷく場」)


(中山道 樋口の手書き案内)


印象に残る「いっぷく場」の古い家、中山道樋口の案内、
そして出たところが(樋口)の信号、左手に畳屋を見て、
ここで21号線を横断し直進する。
中山道番場宿まであと1kmの手書き案内も役にたつ。
回りの風景が山に囲まれた田園風景の中を進む。
左手の案内杭では、番場宿まであと1.5kmとある。
やがて右手に、真宗大谷派「敬永寺」があり、
その脇に米原市米原地域福祉センター
「ゆめホール」の立派な建物があり、
お年寄りを送り迎えする大きなバスが数台駐車している。


(樋口の信号と畳屋の看板)


(番場宿まであと1kmとある。)


(田園風景の中)


(番場宿まであと1.5kmの案内)


(敬永寺)


(ゆめホールと駐車場)

その先右手にある、大きな案内地図によると、
この先道路は北陸自動車道にぶつかり左折する。
次いでこの高速道路のガードをくぐると、
右手に小公園があり、公園の中ほどに大きな
「中山道 一里塚の跡」の石碑がある。。
久礼の一里塚で、江戸から数えて117番目の一里塚、
京三条へ約19里(75km)である。

ここから番場宿に入っていく。

(地図)


(自動車道に突き当たりを左折)


(高速道路のガードをくぐる)


(右手の小公園)


(久禮の一里塚跡の碑)