中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

弁財天の池(旧中山道を歩く 230)

2011年02月23日 10時35分32秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(弁財天の池)

(大湫宿 3)
焼坂の馬頭観音を右に見て、
次は左に「旧中山道 細くて宿」は直進の案内看板を見て、
道順が正しいことを知る。

やがて右手に大きな池が見えてくる。
「弁財天の池」である。
ひょうたん池のようになっており、
真ん中のくびれた部分に石橋が掛かっており、
その先に石祠がある。
弁財天の祠である。
石祠の中には、元文五年(1740)の彫られた弁財天が祀ってある。
池の水面には枯葉が落ちている。

(山上にありながら、いつも水をたたえているこの池は、
古くから旅人に愛されていました。
大田蜀山人も「左の方に小さな池あり、
杜若(カキツバタ)生い茂れり、
池の中に弁財天の宮あり」と旅日記に書いています。)と説明がある。

夏場には、花菖蒲が満開になると想像される枯れた茎が
一面に池の中に残っている。
普通、弁天さまは手に琵琶を持った天女像であるが、
ここでは八臂の立像が祀られている。
・(注)八臂=八本の手を言う。
八臂かどうか、わざわざ狭い橋を渡って確かめた。


(池の中央にある祠)


(祠の弁財天は八臂であった)

すこし歩くと左手に「女男松の碑」とあり、
少し先に枯葉にうずもれた石碑がある。
そしてその先に「奥乃田一里塚」が両端に建っており、
両塚ともほぼ元の姿を留めている。

山の中の道は、どこまでも同じような道が続いており、
馬頭観音や旧中山道の立て看板を見て広い道路に出る。


(女男松の碑跡)


(奥之田の一里塚)


(左右に一対ある一里塚)

正面に「日吉第二小学校跡」の新しい石碑がある。
道路の両側には、まばらに古い家が見えるが、
過疎の土地になったのは、何時のことだろうと、
思いやられる。

その先に旗がひらめき、馬頭観音堂が見られる。
ここから細久手宿である。


(この先細久手宿の看板)


(中央に日吉小学校の碑がある)


(日吉小の碑)


(馬頭観音堂の旗がひらめく)







琵琶峠の石畳(旧中山道を歩く 229) 

2011年02月16日 10時25分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(琵琶峠入口)


(琵琶峠の石畳)


(大湫宿 2)
左の大湫病院を過ぎると、右側に石畳の脇道がある。
脇道には「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。
ここにある琵琶峠の石畳の石は、大小さまざまで、
凸凹して歩くものにはとても歩きにくい。
これが本来の石畳だと言うことが良く判る。

十三峠を過ぎて、また峠があり、
中山道は本当に山の中である。

(大田蜀山人・壬戊紀行)のよれば、
(これより坂を下ること十町ばかり、山には幾つとなく、
長櫃(ながびつ)の如きもの俵の如きもの数を知らず)といわれたように、
この石畳に敷いてある石の大きさの差は甚だ大きい。

この石畳について(岐阜県教育委員会・瑞浪市教育委員会)の説明によれば、
(中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより
江戸時代当時の原状を残す所が少なくなっています。
こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる
約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、
よく原形を保っています。
特に琵琶峠を中心とする約1kmは、
八瀬沢の一里塚や馬頭観音などが現存し、
当時の面影を残しています。
昭和45年(1970)には500m以上にわたる石畳も確認され、
峠を開削したときのノミの跡を持つ岩や
土留め(どどめ)・側溝なども残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、
平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、
江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。)とある。

大きな石畳の上を歩く人にとって、歩きやすいのは背の高い人、
ボクのように短足の持ち主にとっては、歩き難いことこの上も無い。
石畳は標高558mある峠まであり、かなり苦しい。
やっと登った峠には峠の馬頭観音様と皇女和宮の歌碑が並んで建っている。
馬頭観音様は旅の安全を願って、街道の苦しい場所に置いてある。

和宮様の御歌は、

・住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび

と読める。

和宮様の歌は一貫して、ふるさとの京都を思い、
「江戸に下るのは国民のためで、私はいやいや行くのよ」と言う、
想いがにじみ出ている。


(杉林と石畳)


(落ち葉と石畳)


(石畳の頂上付近)


(琵琶峠頂上の観音様と和宮歌碑)


(八瀬沢の一里塚)

少し進むと石畳両側に一里塚が見えてくる。
八瀬沢の一里塚である。
東京から91番目の塚で、両側の塚はほぼ完全な形で残っている。

その先も歩きにくい石畳を下っていくと、アスファルトの道路にぶつかる。
手前左手に「お手洗い」が設置されているので、利用していこう。
アスファルト道路もこの石畳のあるところだけは、石畳を敷いてあり、
石畳はこの先も続いていることを示している。
先を覗けば、枯葉が覆いかぶさった道路が見えるが、
枯葉の下はごつごつした石が敷いてあるに違いない。
しばらく下ると先が開けてきて、坂の下に民家が見えてくる。
案内書では民家の前を過ぎてなどとあるように、
民家の庭先のような所を過ぎて、広い通りに出る。
出る手前に、「琵琶峠西上り口」の石碑があり、
琵琶峠はここで終わる。


(アスファルト道路も石畳の跡を残して)


(民家の庭先へ)


(庭先を通過して出たところに石碑がある)


(琵琶峠の石碑)

歩きやすいアスファルトの道を行くと、
すぐニワトリのオス・メスの鳴き声が聞こえてくる。
道路は登り坂になっているが、その途中右側に三棟の鶏舎がある。
卵採取が目的なのか、食肉専門の養鶏所なのか、分からない。
その先で道路は二手に分かれるが左手を行く。
登り坂を苦しみながら歩くと、
今度は犬の鳴き声が、しきりに聞こえてくる。
恐ろしいような鳴き声、甘えるような鳴き声、
空腹だから何かよこせとでもいうような、
入り混じった鳴声が身近に聞こえてくる。

左手に瀟洒な建物、右手に公園の入口のような建物が建っており、
「公認訓練所」、「株式会社 国際犬訓練所」の看板が目に入る。
金網に仕切られているが、大きな犬が今にも襲ってきそうな気配に、
動物嫌いのボクはわき目も振らず先を急ぐ。


(国際犬訓練所)

道路はどんどん登り坂で、やがて右手に、
雪国にありがちの屋根付きバス停が目に付く。
バス停の向こう側に大きな杉の木が生えており、
根元にお地蔵様が建っている。
バス停は「天神前」で、お地蔵さんは「天神辻の地蔵尊」という。
昔の人たちが、山の中の難儀な旅の安全を願って立てたのであろう。


(天神前バス停)


(天神辻の地蔵尊)


(紅葉真っ盛り)

道筋は、時あたかも紅葉の真っ盛りでとても美しい中を進んでいく。
まもなく、大きな養鶏場を左に見て進むと、焼き坂の馬頭様が右にあり、
登り坂をいくと右手に池が見えてくる。

「弁財天の池」である。


(大きな養鶏場入口)


(焼坂の馬頭様)


(旧中山道の案内)







母衣岩(ほろいわ)と烏帽子岩(えぼしいわ)(旧中山道を歩く 228)

2011年02月08日 10時39分11秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(宗昌禅寺の石塔)


(禅寺の本堂)


(寺坂の石仏群)

(大湫宿)
十三峠の山道が終り、
「中山道 大湫宿(おおくてじゅく)」と「宗昌禅寺」の石碑が左手にあり、
「大湫宿」に入ったことを教えてくれる。

「宗昌禅寺」の石塔のある道路を左に折れお寺に向うと、
登り坂になっており、もう一度左へ折れる。
つまり正四角形の二辺を行くのだから、さっき見た広場の左手に出る。
広場は中山道と今歩いている道に囲まれていることになり、
「寺坂の石仏群」を右手に見ると、
その反対側の左横にこの宗昌禅寺は立地しているのだ。
臨済宗妙心寺派のこの宗昌寺は慶長三年(1600)、
大湫宿を開いた保々宗昌が開基したと言われる。
大湫宿の脇本陣が「保々」(苗字)の表札がある所を見ると、
開基した保々宗昌の子孫の方かも知れない。

中山道を進むと突き当たりに小学校が一段高い所に見える。
道を左折すると右手に大湫公民館、コミュニティセンターがあり、
その裏手の高い所が小学校である。
ここが大湫宿本陣跡になり、
皇女和宮が文久元年(1861)将軍家茂に嫁ぐため江戸に向う途中、
一夜を明かされた場所になる。
学校に入るには坂道を登るが、校庭の隅に和宮様の歌碑が建っている。

・遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける
 ・思いきや 雲井のたもと ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは

の二首が刻まれている。

旅立つ時に詠んだ歌が

・惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも

と詠んだ歌を考えると、御年15歳の皇女の想いが身に沁みる。


(大湫公民館)

 
(公民館上の小学校、本陣跡)


(校庭入口にある皇宮の女官像?三人官女?)


(校庭脇の和宮歌碑)

その先に産土の白山神社、大湫宿問屋場跡、脇本陣家が続いている。
脇本陣家のその屋敷は、門を初めとして、
長く風月に耐えたという感じが良く出た古色漂う建物であった。
今も子孫の方が居住されていると言うその家の門には、
「保々和男」の表札が掲げられていた。

その先には大湫宿のシンボルとなっている神明神社の大杉がある。
この杉は樹齢推定1200年で岐阜県の天然記念物になっている。
大湫宿の外れには、大湫観音堂があり、
大湫宿高札場跡が復元されている。


(白山神社)


(問屋場跡)


(問屋場跡から見た神明神社の大杉)


(脇本陣)


(脇本陣家の長屋門、表札に「保々」とある)


(神明神社と背景の大杉)


(樹齢1200年の大杉)


(観音堂)


(高札場跡)

宿場はこの高札場跡を最後に家並みは途絶え、
道路は二つに分かれるので右側に向う。
すぐ左側に「小坂の馬頭観音様」二体に、
道中の安全を祈ってもらいながら進むと、
道路先に小公園らしきものを発見。

道路はやや登り坂になっているが、
ここに「大湫宿大洞・小坂」の石碑が建っている。
ここから見た景色を広重が「木曽海道69次之内 大久手」を
画いた場所だろうと推定されている。


(小坂の馬頭観音二体)


(小公園で広重の浮世絵の場所とされる場所)


(広重画「木曽海道69次之内 大湫」)

その先に進むと、大湫の二つ岩なるものがある。
一つは母衣岩(ほろいわ)と言う。
母衣(ほろ)とは、戦国時代の絵巻物を見ると、
馬にまたがる鎧兜の武者の背に、
大きな袋状のものを着けているのがあるが、
この袋状のものを母衣(ほろ)と言う。
背後から弓矢が当らないようにした防御袋である。

この巨石には、真ん中にスジが入っており、
昔の人はこれを女性の性器に見立てた。
古来、男女の性器はこれを交合させることにより、
新たな生命を生み出す神秘で不思議なものと崇められてきた。
この地だけでなく、日本の各地、いや世界の各地で尊崇されてきた。

街道を進むと、もう一つの巨岩があって烏帽子岩(えぼしいわ)と呼び、
これは男性性器(どちらを向いているかは想像にお任せします。)を表わすと言い、
これで「二つ岩」とされた。
この二つの岩を、昔の人は信仰心を持って
眺めたものと思われる。


(母衣岩)


(烏帽子岩、左向きと見る?)

間もなく道路は左へカーブしていくが、左手の大湫病院を過ぎる頃に、
右手に入る旧道が見える。

琵琶峠の登り口で、坂の途中に

「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。

また、山の中だ。


(大湫病院)


(琵琶峠入口)


(琵琶峠東上り口)









観音坂と十三峠の終着地(旧中山道を歩く 227)

2011年02月01日 10時30分34秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(峠は十三以上ある)


(昇りの石畳、この上が峠?)


(三城峠)

(大井宿 7)
峠らしいところから石畳が始まる。
(三つ城峠)である。
土と落ち葉の道を下るとアスファルト道に出て、
登り坂になる。
この辺りで坂道にうんざりし出す。
(大久後の向茶屋跡)を抜けると、
草の上り道。(大久後の観音坂)というらしい。


(大久後の向茶屋跡)


(観音坂)


(観音坂の霊場巡拝碑、四箇所の岩場はあった)

瑞浪市の案内によれば、
(ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、
釜戸町大久後地区に位置しています。
坂の途中の大岩の上には、道中の安全を願う馬頭観音像が立ち、
坂の西には天保二年(1841)銘の「四霊場巡拝記念碑」が建っています。
さらにその西に連なる権現山の山頂には、刈安神社が祀られ、
山麓には往時駕籠などを止めて休息した、
大久後・炭焼きの二つの立場跡が残っています。)(瑞浪市)とある。

しばらく進むと左手に「観音坂の霊場巡拝碑」があり、
ついで、右手に「中山道」の青色の案内看板が、
さらに左手に「灰くべ餅の出茶屋跡」と標柱を順次見ていくと、
少し開けた集落が左手に見える。


(灰くべ餅の出茶屋跡)


(大久後の観音堂と弘法様の標柱)


(心地よい杉林の山道)


(刈安神社の石柱)

さらに進むと、「大久後の観音堂と弘法様」の標柱があり、
観音堂とお手洗いがある。
その後の登り坂は「権現坂」で心地よい(?)杉林の道を登る。
やがて右側に「刈安神社」の石碑と石の階段がある。
少し登ると集落があり、昔の「炭焼き立場」跡の名残である。

瑞浪市の案内版によると、
(立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。
大田蜀山人が享和二年(1802)に表わした「壬戊紀行」には、
「俗に炭焼の五郎坂というを下れば炭焼の立場あり
左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。
ここは眺望に恵まれていたので、
十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。)(瑞浪市)


(炭焼き立てばの集落)


(草道に入る)


(通行止め?道路中央は瓦礫がみえる。)

集落が切れると、舗装道路も切れ、土の草道の先の真ん中に、
杭を二本打ち、通行止めのようになっている。
他に脇道もなく、誰かに訊くにも、人っ子一人いない山道。
どうしたものか悩んだ挙句、進むことにした。

道は瓦礫の中を進む道で、急な上り坂である。
これが「中山道だろうか」と疑いながら瓦礫の急坂を進む。
頂上らしき所に出ると、右に石畳があり「山の中の中山道」の道に見えた。
「これでよし」と内心ホッとする。
石畳の道路の左手を見ると、道路は草道で下りになっていて、
ぐるっと半円を画いている。


(瓦礫の道を登りきった場所は石畳の中山道であった。)

つまり「杭で通行止め」になっていた所は、
「直進は通行止め」の意味だったのである。
ボクが歩いた直進の瓦礫の道は、中山道のショートカットで、
本来の中山道は、左に進みその後右にぐるっと半円を描いて、
曲がっていたのである。

石畳を進むとすぐ、
右手に(十三峠の内 中山道 樫の木坂)の石碑があり、
その後ろは小高い山になっている。
これが「権現山の一里塚」である。
一里塚は左右にあり、当時のまま原形を保っているようで、
江戸から90番目の一里塚である。


(樫の木坂の石碑)


(権現山の一里塚)


(権現山の一里塚、もう一方の塚)


(一対の一里塚)


(中山道を横切るゴルフ場の道路)

ここからは下り道。両側を山に挟まれて進む。
間もなくゴルフ場の道路を横切る。
左右でゴルフに興じる人を横目で見ながらなおも下る。
両脇の土手にはグリーンのネットが張ってある。
ゴルフボールが旅人にあたらないようにであろうが、
道路の隅に真新しいゴルフボールが何個も落ちている。
ボクの前に少なくも二組は通過しているから、
その後飛んできたものであろう。
ボールに当らないよう、なるべくネット際に沿って歩く。
それにしても、ゴルフボールは全部で6個拾ってきた。

しばらく下ると、右側に「中山道巡礼水」の石碑がある。

説明によれば、
(昔、巡礼が病み伏したが、この清水で助かる。
八月一日に水の切れた事が無い。)という。
ボクが通った時には水は出ていなかった。
本当に8月1日には出るのだろうか?
原爆に遭った人たちは「水、水・・・」
と言ったそうであるが・・・


(中山道巡礼水の碑)

その先へ下ると右手の岩屋の中に「三十三観音」が祀られている。
瑞浪市の案内看板によると、

(ここには、道中安全を祈って
天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、
馬頭三十三体の観音は、大湫宿内の馬持ち連中と
助郷にかかわる近隣の村々からの寄進です。――後略――)とある。
(瑞浪市)


(三十三観音の石窟)

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(三十三体の観音像)

(三十三体の観音像2)


(左手奥が尻冷やし地蔵尊)


(お尻を冷やしている地蔵さん)

さらに下ると今度は、「尻冷やしの地蔵尊」が
左手の道路からやや奥まった場所にある。
説明では、
(山の中では水は大変大切なものでした。
山坂の多い十三峠では特に貴重なものであった。
こんな清水に対して建てられたものですが、
ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることから、
こんな愛称で親しまれてきました。)(瑞浪市)


(舗装路の向こう側中山道は上り道)


(しゃれこ坂の名号碑)


(山ノ神坂の石碑)


(中山道十三峠 童子ヶ根の石碑)


(寺坂の石仏群)


(「是より東 十三峠」の碑)

その先で舗装路に出るが、これを反対側に渡ってのぼりの道を行くと、
「しゃれこ坂(八丁坂)」の名号石碑がある。
その先に(中山道 山ノ神坂)の石碑があり、
(童子ヶ根)の石碑を抜けると、
右手に「寺坂の石仏群」が、
左手に(是より東 十三峠)の石碑がある。
坂道は下りきっているわけでなく、
見渡すと街並みが一望できる所にいる。
まだ坂道は途中である。

その先に(中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半)の石碑があり、
左手が広場になって、奥に「宗昌禅寺」がある。

ここから大湫宿に入る。

(「中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半」の石碑)

(宗昌禅寺)