中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「男滝・女滝」(旧中山道を歩く 203)

2010年07月28日 09時42分56秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(大妻籠の民宿「つたむらや」は右側一番奥)

(妻籠宿 5)
翌朝(5/14)も快晴であったが、久しぶりに雨戸の部屋で寝たせいか、
7時までぐっすり寝てしまった。
暗い部屋の中で時計を見て、驚いて飛び起きた。
久しぶりに雨戸を二枚開けて、戸袋に格納。

顔を洗ったら、「朝食の用意が出来ています」という。
田舎のご飯とお味噌汁の美味しさは格別。
最後に飲んだ美味しいお茶も自家製との事であった。
早々に食事を済ませ、おなかに入れるだけでなく、
出すものを出して、
丁寧にお世話になったお礼をして出発する。

目の前の中山道を西に進む。
すぐ左に「県宝 藤原家住宅」の案内があり、十七世紀の建造物で、
長野県の宝に指定されている。

宿の女将さんにお見送りいただき、
「この藤原家から内のお祖母ちゃんはお嫁に来ました。」
だから親戚だと言う。
そんな繋がりがこの集落一体を占めているに違いない。
坂を上がり、藤原家に向うと、
右下にコンクリートに仕切られた生簀がいくつかある。
大きな魚から、小さな魚まで区切られた中に泳いでいた。
ボク達が立ち止まると、餌でももらえるとでも思ったのか、
小魚が群れを成して、ウワーッと寄ってくる。
相当な量である。
女将さんの説明では、大きいのがサーモン、あとは岩魚、ヤマメ、鱒という。

そこで女将さんと別れ、坂を登る。
いきなりの坂道でうんざりの所ではあるが、
県の宝の建物を見学するので期待しながら進む。
しかし、期待ほどでなく、ごく有触れた田舎家であった。


(県の宝「藤原家住宅」の案内)


(藤原家住宅)

少し寄り道をしたが、
西を向いて中山道を進むとすぐに庚申塚がありその前に民宿「庚申塚」がある。
道路はすぐ国道7号線にぶつかるが、
国道の右前方道路の左側に旧中山道の入口が見える。


(庚申塚の一里塚)


(民宿「庚申塚」)


(どうがめ沢入口の石標)


(どうがめ沢入口)

「どうがめ沢」と言い、石碑があり脇に石畳の道が見えるので、
国道を横断左折する。
石畳道路は林に中をつづら折れで上るが、
すぐ右側に段々の田んぼがある所へ出る。
なおも進むと小さな木の橋があり、右から来た道と合流し左へ向う。
この辺りが(下り谷)でわずかな民家があり、
その先左手の土手の上に小さな祠が祀ってあるのが見える。
これが「倉科祖霊社」である。

説明によれば、
(倉科祖霊社には、松本城主小笠原貞慶の重臣、
倉科七郎左衛門朝執の霊が祀られている。
伝説では、七郎左衛門は、この地で盗賊のために殺されたとされているが、
史実は次のようである。
七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、
その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、
奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討ち死にしてしまった。
当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、
そうした因縁からその争いも起きたと見られる。)(南木曽町)とある。

どうも説明が中途半端である。
倉科七郎左衛門の戦死を憐れんだ主人貞慶が
倉科七郎左衛門のためにここに社を置きその霊を祀った。
と言うところまで記載されていれば納得できるが、
それも書いていない。
誰がどうして祀ったかは定かではないのである。


(つづら折れの林の道)


(木の橋)


(左手にある古い建物)


(倉科祖霊社の石柱)


(石段を上がった所にある倉科祖霊社の祠)


(男滝・女滝の案内)


(滝を見るには右側の道を行く)

少し先に(「男滝・女滝」はこちら)の案内があり、
滝方向には道は右側の道を進む。
中山道は左側を行くが、左右の道はいずれも先で合流するから、
滝見物のため右側の道をとる。
この「男滝・女滝」は、滝としても歩いている者には一服の清涼感がある。

しかし、何といっても吉川英治の傑作小説「宮本武蔵」の中で、
武蔵の男心を表現した場所であるから、
その場所を一度は見て置きたいものである。
この場所で武蔵は、男の恋心を表現するために、
恋人「おつうさん」を押し倒して、図らずも「おつう」に断られ、
武蔵は男としての気持ちを抑えるために滝に打たれる。
そんなシーンが描かれている場所である。

「男滝・女滝」方向に進む。
水の音が大きくなると左手にまず「男滝」が見えてくる。
「男滝」の滝つぼを回るようにして進むと「女滝」がある。
なるほど「男滝」は滝の幅が広く男性的で、
「女滝」は滝の幅が細く、女性らしく見える。


(男滝)


(女滝)

「女滝」脇の新しく出来た長い急な階段の道を手すりにすがりながら登ると、
県道の広い道路に出る。
右端に廃業したと思われる寂れた「滝見茶屋」があり、
茶屋の前は駐車場であったらしい広場がある。


(滝見茶屋)


(バス停「男捶滝(おだるたき)」)

広場の隅に「男滝・女滝」について、
南木曽町教育委員会の案内があるので紹介しておく。

(町指定名勝 旧中山道「男滝・女滝」
滝に向って左側が男滝、右側が女滝である。
木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、
憩いの場でもあった。
この滝には、滝壷に金の鶏が舞い込んだ、
と言う倉科伝説が伝わっている。
また、吉川英治氏によって、
その著「宮本武蔵」の舞台としても取り上げられている。
滝付近の中山道は当初男�券川(おだるがわ)の左岸を通っていたが、
江戸末期頃から現在の道筋になった。)とある。
この説明も理解し難い。
あれもこれも盛り沢山に説明しようとしてかえって訳が分らない。

その広場の左端にバス停「男�券滝」がある。
そのバス停前を左に行くと、
右手に架かる橋の上に「馬籠宿右」の案内があるので
右折して橋を渡る。


(右手に掛かる橋に右馬籠宿の案内)

その先は石畳の荒れた道が続き、
躓き転ばぬよう十分注意して歩かなければならない。
荒れた登り道を行くと木の橋があり、
これを渡りしばらくすると県道に出る。
道路向こう側に(峠入口)のバス停が見え、
脇に旧道の石畳の道が続いているのが見えるので馬籠峠に向って上る。
この辺りは静かな林の中を行くが、
足元の石畳がでこぼこなので気を付けたい。
躓いて転ぶと大怪我をする。


(凸凹の石畳道に注意)


(バス停「峠入口」右の石畳の道)


(林の中の石畳道)

やがて左手に大きなサワラの木がある。
説明には、
(このサワラ大樹は、樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34?。

サワラ材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます。
この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来ます。

さらに、このサワラの下枝が立ち上がって、
特異な枝振りとなっていますが、
このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と言います。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所あると信じられてきました。
傷つけたり切ったりしますと、たちまち祟ると言い伝えられ、
杣人(そまびと=きこり)はこの木の下を通ることを嫌がりました。
この木のように両方に枝の出た木を
両神居(りょうかもい)と言います。)とある。(木曽森林管理所 南木曽支署)

さらに山道を進むと、

一石栃白木改番所跡に出る。


(サワラの巨木1)


(サワラの巨木2)


(サワラの巨木3、枝が幹に沿って立ち上がっている。天狗の腰掛枝、神居木(かもいぎ)


(一石栃白木改番所跡)









民宿「つたむらや」(旧中山道を歩く 202)

2010年07月26日 09時32分25秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(民宿「つたむらや」)


(妻籠宿 4)
お宿「つたむらや」について、最初にお話をしておきたい。
このお宿の「おもてなしの心」は、ボクの経験で過去に泊まった
国内外の全てのお宿の中で一番優れたものであった事を
お伝えしておきたい。
民宿をプロの旅館と比較することも憚られるが、
そんな旅館と比較しても、
負けることのない「おもてなし」であった。

「おもてなし」って何?

辞書によると、
①とりなし、待遇
②振る舞い、態度
③取り計らい、処置④御馳走、接待,

とある。

良いおもてなしとは、この全てを兼ね備えるということであろう。
民宿「つたむらや」では、待遇も態度もご馳走も取り計らいも適当(*)で、
大変満足して帰ってきた。
但し、これはボクにとっては100点ということで、
誰か別の方が感じる「おもてなしの心」は
「0点」であるかも知れない。
「おもてなし」とはそういうものか?

(*)適当=いい加減という意味でなく、ふさわしい、目的・要求にあっているの意味)

土日祝日以外の普段の日の宿泊客は、一組か二組であるとの事。
宿泊可能人数は最大26名。
後で知ったことであるが、頂いた名刺を見ると、
昭和63年に秋篠宮文仁親王と川島紀子様が
お泊りになった宿と書いてあった。
秋篠宮様がご結婚される前の学生時代に、
大勢の学友と一緒に宿泊された宿である。
滞在中、こんなことは一言も触れられなかった。


(つたむらや)


(三軒の民宿が並んでいる、一番手前が「つたむらや」)

宿の女将さん(その宿の主婦兼女将)に聞いた話であるが、
ここに並ぶ三軒の民宿は全部親戚で、
「つたむらや」の建物はおよそ120坪あり、別途、養魚場を経営している。
信州サーモン・ヤマメ・岩魚・紅鱒を養殖し、
妻籠・大妻籠の宿から、これら魚を注文に応じて出荷しているそうな。
一泊二食7500円。

くぐり戸の、「民宿つたむらや」と墨書した障子戸を開けて中に入る。
「ごめんください」と、やや大声で案内を請うもしばらく返事がない。
しかし、耳を澄ますと、奥の部屋でなにやら人の動く気配がする。

そこでもう一度、大音声で
「ごめんください!!」と呼ぶと言うより、怒鳴ると言う感じで案内を請うと、
やっと奥の障子が開いて、
田舎の「かあちゃん」と言う、いでたちのの女将さんが出てきた。
「いらっしゃいませ!そこへかけください!」
「昨日予約しましたhide-sanです。」
「まあまあ、良くいらっしゃいました。そこにお休みください」と言う。

言われたとおりに腰を下ろすと、
民宿の名刺と妻籠宿の案内地図、
それに宿帳を出し、暇な時に書いて置いてください、と言う。
お出でになったお客様には全て同じようにするのであろう、
妻籠宿の宣伝を込めて、宿場の案内を細かく説明した地図を貰った。
今日見学してきた後であり、もう必要ないものであるが、
家に帰って確認のためと地図も名刺もバッグの中に押し込んだ。

女将さんが「そこへ休んでください」と言った割には、
すぐお部屋に案内しますと急かす。
こちらは今日、22kmも歩いてきたので、
一度座ったらすぐに立ち上がれない。
疲れた足から、やっとの思いで靴を脱ぎ板の間へ上がったら、
囲炉裏のある部屋の反対側、
つまり囲炉裏の部屋が右側とすると、左側に客室があるらしい。


(軒卯建の白壁の手前の部屋に泊った。軒下にぶら下がっているのは消防用の手押しポンプ「龍吐水」)

「お部屋を案内します」と言うので、
ついていこうとしたら、
上がった廊下のすぐ左の障子を開けて、
「ここです。」という。
見渡すと6畳間に座卓が一つ、両側に座布団、
部屋の隅に時代物の衣桁(子供の頃見た衣文掛けのことで、
結婚式場などで見る内掛けなど着物を掛けておくものの事)
反対側に床の間と押入れ、床の間にはコインTVが置いてある。

部屋の隅に、二組の布団(敷布団と掛け布団、枕にシーツ)と
石油ストーブが置いてある。
窓はなく明かり障子で、開けてみると部屋は中山道に面している。
寝る時はどうするのかと思ったが、右手に戸袋があったので覗くと
雨戸が二枚格納されていた。

「寒い時はストーブを付けてください。
ついでですからお手洗いとお風呂を案内します。」と言う。
案内にしたがって後ろについていくと、高さ150cmの低い鴨居があって、
頭に注意と注意書きがぶら下がっている。
「ここは卯建(うだつ)の出入り口です。
頭に注意してください。
最もぶつけても頭に怪我がないように
緩衝材で巻いてありますから心配ありませんが」と言う。
軒卯建(のきうだつ)を外から見たことはあるが、
内側がどのようになっているのか、見たのはこれが初めのことであった。

「うだつ」とは、防火壁でのことで、隣家との境に造ったが、
相当な費用が掛かるので、懐が裕福でないと造ることが出来なかった。
そのため商売が繁盛しているか、出世してお金持ちにならないと、
卯建を揚げることが出来なかった。

愚鈍なことをしていると、
「そんなことでは、卯建が揚がらんぞ!」と、
子供の頃良く叱られたものである。
防火壁の厚さは20cmもあろうか、
これなら隣家に燃え移らないだろうと思った。

防火壁の向こう側は、家主の生活棟であるとのこと。
その先はまだ新しい木の香が漂うような部屋があり、
その先に洗面所とトイレ、お風呂があった。


(軒卯建の手前が宿の方の生活棟)

「お風呂は沸いておりますから何時でもどうぞ!
夜中でも、朝でも良いですよ」とのこと。
「トイレは洋式ですか?」とボク。
実はネットで洋式であることは調査済みであったが、念のため訊いた。
「今風です」と答えが返ってきた。
「夕食は 18時から。朝食は7時からですが、よろしいですか?」
言うことなしである。
「ハイ!結構です」と大きな声で答えた。

本日泊る部屋まで戻って、
「今夜はこの囲炉裏の横で食事にしましょうね。
本当はこの部屋の向こう側に食事をする部屋があるのですが、
今夜はあなた方だけですから」と。
結構なことこの上ない。
二つ返事で了解した。
ボク達は部屋に入り、女将さんは食事の用意か奥に入ってしまった。

夕食は囲炉裏の部屋でとは言ったが、部屋にもストーブがあり、
夜は相当冷えるのかもしれない。
5月13日で今日一日、汗をビッショリかいて歩いてきたのに・・・

さて、夕食の時間が来て、囲炉裏の部屋を覗くと、
いつ済ましたのか夕食の用意は出来ていた。
囲炉裏には薪がくべられており、ぱちぱち音を立てて燃えていた。
陽が落ちてから少し寒くなっていたので、
この火がとても懐かしく、
暖かく、疎開していた子供の頃を思い出した。


(囲炉裏の横碁盤の前にボクが大福帳の前にカミサンが座って夕食を食べた。)

お膳を見渡すと、山家のことで、ありきたりの山菜に香の物、
酢味噌にウド、山菜のてんぷら、川魚の塩焼きに、
何か刺身が一品付いている。
山の中でマグロの刺身が出てくると、
冷凍のコチコチで味も悪く、
興醒めであるが、ここの魚の刺身はどう見ても川魚。
川魚は鯉しか思い浮かばないが、
鯉にしては小さい。
また刺身の量が3切れほどで少ない。
その他に、茶碗大の入れ物に茶碗蒸しのような、
中身が卵を蒸したようなものが入っている器が一つある。
(茶碗蒸しかなあ)と思って眺めている所へ、
女将さんがやって来た。

最初に、その茶碗蒸しのような器の説明で、
これはご主人の趣味で造っているお酒であるという。
つまり「どぶろく」で、まだ原料のお米が入っている状態の日本酒である。
日本酒は米が原料であるが、米を発酵させてお酒にする。
米の澱粉が分解され糖分になり、
その糖分がアルコールへと変化する。
その分解された米汁を絞って、
不純物を沈殿させたものの上澄みが清酒である。

ためしに飲んでみると、口当たりはすごくよろしい。
甘酒から甘味を抜いて、アルコールを加えたような感じで、
すこぶる口当たりが良い辛口の酒である。
私たち夫婦は、大の酒好きで、酒の味はよく解る。

しかし、病気持ちのボクは、
今は沢山飲めないのが残念である。
せいぜい一合程度が限度。
しかし底の浅い茶碗の一杯は、どう見ても100~120CC。
お酒が飲めない人もあるから、量は少なくしてあるのであろう。
最初の一杯はサービス、つまり無料。
しかし好きな人には、後を引く一杯であった。

次の一杯を依頼すると、次の一杯は400円也であった。
今度の一杯は、気のせいか茶碗が大きい。
前の一杯と合せて400円なら安いお酒である。
さらに追加の一杯が欲しい所であるが、
その先を我慢できるのがボクの長所。
自分で勝手に意志が強いと思っている。


(入口の大戸に張ってあった「どぶろく」マップ)

ところで、アルコールには酒税法があって、
他人に提供する酒造は罰せられる。
酒造者が自ら楽しむ程度なら
罰せられることがないことをボクは知っている。

しかし、こうしてお客様に提供するとなると、
きちんと届出しなくてはならない。
訊くと、きちんと届出はしてあり、酒の名は「男滝」と言うらしい。

この先中山道を進むと見ることができる滝の名前である。
小説の「宮本武蔵」が「おつうさん」を押し倒し、
思いを遂げようとすると、おつうさんの抵抗を受け、
欲望を沈めるため滝に打たれるシーンがあるが、
その滝の名が「男滝」である。その先には「女滝」もある。

今年、ご主人は杜氏としての国家試験を受けて、
本格的な酒造業に手を染めるとの事であった。

お酒はこれくらいにして、その他の料理であるが、全て自家製。
つまり、その家で栽培あるいは養殖された品物ばかりであった。
デザートにキューイフルーツが出てきたが、
これも自宅で栽培し収穫したものを、
冷凍保存し今日、解凍して提供したとのことに驚いたが、
さすが冷凍キューイはお世辞にも美味しいとは言えなかった。

その夜は疲れもあり、おかわりした「どぶろく」の所為もあり、
お風呂に入ってすぐに眠ってしまった。
夜中に肩が寒く目が覚めたが、
ストーブに火を入れて部屋を暖めなおし、
深い眠りに付いた。


(最高26名宿泊しても大丈夫な食堂、十、八、六畳とつながっている)

(写真奥の「つたむらや」の屋根)





大妻籠(旧中山道を歩く 201)

2010年07月17日 06時18分15秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(板の上に石を載せた木曽谷の家)

(妻籠宿 3)
妻籠宿の寺下地区のはずれに藁馬実演販売所があって藁の馬がある。
実物大の馬の大きさの藁人形ならぬ藁馬が置いてある。
この先馬籠峠から馬籠宿へ向うことが頭にあって、つい見とれてしまった。
妻籠宿のはずれの左側にWCがあり、右手に尾又橋がある。
その先は人家もなくなり、右手は蘭川、左手には山の道を進む。

(藁の馬)


間もなく右から左へ行く県道256号線と交差する。
県道をまたいだ先が京都側の妻籠宿入り口で、
大きな駐車場とお手洗いがある。
県道の右手は蘭川で田島橋がある。
その先の中山道は草道で、林と右側の墓地を見ながら進む。


(京都側にある妻籠宿の看板と田島橋)


(道路を横断した所にある石標「右旧道 まごめ」とある)


(林と墓地を過ぎる草道)

草道はすぐ国道7号線にぶつかり、これを右折する。
すぐ大妻橋に出るが、手前左側の奥のほう民家の前に、
南木曽町の指定史跡になっている、大きな石柱道標が立っている。


(右折すると大妻橋がある)


(橋の手前奥の民家の前にある石柱道標)

南木曽町の説明によれば、
(明治25年に賤母(しずも)新道が開通するまで、
馬籠~妻籠~三留野を通る中山道は、
古くから幹線道路として重要な役割を果たしていた。
ことに妻籠の橋場は「追分」とも呼ばれ、
中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所である。
この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、
当所の松井與六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人と共に、
飯田・江州・地元の商人によって、
明治十四年六月に建てられたものである。
当時の繁栄がうかがえる石柱である。)とある。

ボクにはどうでもよい、余分なことが書かれているが、
つまり飯田街道との分岐点になる石の道標を、
土地の有力者と商人が私財を投じて造ったと言うことである。
だから街道沿いには無く、はるか奥のほうにあって、
今では何の役にもたっていない。

大妻橋を渡り右側の民家の先に石畳の道が見える。
旧中山道は、ここを右のほうへ行く。
杉林の中、上り坂を行くが、中山道らしい静かな道を行くと、
やがて坂の上に「大妻籠」の案内看板がある。
道は左手に国道7号線が見えるが、
中山道はその看板を右のほうへカーブする。
すぐ石の道標があり(右 旧道)とあり、小さな橋を渡ると、
突き当たる格好で大きな民家が見える。
道路は左へ曲がり川に沿っていくことになるが、
前方に道の左右に民家が見えてくる。
一軒一軒が大きな家である。
近づくと右手に三軒の民宿が並んでいる。


(中山道の石標,「右旧道」と刻んである)


(石畳の道)


(林の中の静かな登り道)


(木曽路らしい山の中の道が続く)


(山里の民家が数軒)


(手入れが良く行き届いている民家-豊かなのであろう)


(大妻籠の案内、左側は国道)


(案内看板を右折し橋を渡ると大妻籠の集落)


(大妻籠の集落大きな家が多い)


(右側に卯建のある家、三軒の民宿が並んでいる)

一番奥にある民宿が今日の宿「つたむらや」である。
出来るだけ馬籠宿に近いところに宿を取ろうと、
妻籠からは一番奥の民宿を選んだのである。

明かり障子の入口を開けて、奥に続く土間に立って、案内を乞うも返事がない。
しかし奥のほうで物音がするし、隙間から明かりも漏れて、
人の気配もする。大きな家で、とても奥まで聞こえないらしい。

大音声で「御免ください!」と二回くらい呼ぶようにして案内を乞うと
しばらくして、正面の奥の障子が開いて、
「いらっしゃいませ」の声で、安心する。
「そこへ御かけください」と女将さんらしき人がいうが、
見ると上がりかまちの先に囲炉裏があり、
その先が畳になっており、部屋は十畳ほどあろうか。

荷物を降ろし、板の間に腰を下ろす。
民宿の名刺と宿帳を渡され、暇な時に書いて置いてくださいという。

やれやれこれで何とか今夜はゆっくり休めそう。
時計を見ると、PM16時少し回った所であった。

次回は民宿について

(民宿「つたむらや」石垣が六角形になっている)


(囲炉裏のある部屋)

本日(5/13)歩いた歩数38000歩=約22kmを歩いたことになる。
明日は大妻籠から馬籠峠~馬籠宿~落合宿~中津川宿まで歩き、
東京に帰る予定である。




旧中山道を歩く 200回の節目に当って。

2010年07月12日 11時51分59秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(広重画、「木曽海道69次之内、妻籠」)

(200回の節目に)
前回 「旧中山道を歩く」200回目を迎えた。
良くここまで来たものだと、われながら驚いている。

思えば六年前の2004年3月27日、
旧中山道を歩くことを思い立って、
ただ歩くのでは能がないと、
各地の史跡を訪ね写真を撮り、
できれば旧中山道の道筋を解りやすく書き記して置く。

それをブログに載せて、これから旧中山道を歩く人たちに、
何かお役に立てればよいと書き綴ったのが、
積り積って200回になった。

(妻籠宿)

中山道の東京を歩き終えるのに4日、
埼玉県を歩いて7日、
群馬県は6日、
長野県は、信濃が8日、木曽が7日掛かっている。

32日掛かって、まだ中山道の妻籠宿にいる。
妻籠宿は中山道69次から言えば、
江戸から42番目の宿場であり、
6年掛かって、まだ中山道の60%しか歩き終えていない。
距離から考えても、妻籠宿まで江戸から319kmであるから、
中山道が534kmとすると、やはり60%は歩いた勘定になる。

(大妻籠の案内)

319km良くも歩いたものだと、我ながら感心している。
このあと、距離にして215km、宿場の数にして27宿残して、
岐阜県、滋賀県を抜けて京都に入る。
日程的には、あと13日もあれば京都三条大橋に到達できそうであるが、
あっちでキョロキョロ、こっちでキョロキョロ、
はたまた、天気が良くない、暑い寒いは当たり前で、
こんな日を避けると、あと何日掛かるか分らない。

おろおろしている間に年を越してしまいそうであるが、
どうにかこうにか、京都までは完全踏破したいと願っております。

どうぞ今後とも、懲りずにお訪ねいただきますよう、お願いいたします。

(妻籠宿郷土環境保全地域の図)

妻籠宿の伝統的建造物群(旧中山道を歩く 200)

2010年07月06日 10時30分08秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(妻籠城から見た妻籠宿)

(妻籠宿 2)
妻籠城址をあとに山を下って中山道に戻る。
三叉路の内中央の草道を下って妻籠宿に向う。
林の中の道を抜け、妻籠宿まで0.7kmの案内を左に見て道を進む。
江戸時代の建物か、古い家が何軒か見え、妻籠宿が近いことが分かる。

(林の道)

(妻籠まで700mの案内)

(何軒か古い家が)

やがて左手に妻籠宿の名所の一つ鯉岩のある所に出る。
これが「鯉岩」と案内板があるが、
(鯉の形)を想像するには、かなりこじつけないと鯉に見えない。
写真をご覧になって、鯉を想像できる人は素晴らしい。

それも其のはず鯉に見えにくいのは、その昔の大地震で岩が崩れ、
鯉の頭の部分が落ちてしまったからだそうです。
「木曽路名所図会」には滝登りをするような形をした鯉が居たらしい。

(鯉岩)

(ボクが想像した鯉)

ここから妻籠宿が始まる。
南木曽町の説明によると、
(妻籠宿は慶長6年(1601)江戸幕府によって「宿駅」に定められ、
江戸から42番目の宿場として整備された。
明治以降は宿場の機能を失い、衰退の一途を辿ってきましたが、
昭和43年歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を甦らせている。
昭和51年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。)とある。

(昭和43年歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を甦らせている。)と
一行で説明は終わっているが、
昭和43年以降、江戸時代の景観を残そうとした自治体の方々の苦労は
並大抵なものでなかったと、
自分が住んでいる役所の方から聞いたことがある。

(山に囲まれた妻籠宿)

中山道沿線の各自治体は、戦後の経済成長に伴い、
若者は都会に誘惑される中、過疎を食い止めるための雇用確保に、
工場、会社の誘致を盛んに行った。
妻籠馬籠は「夜明け前」の原風景を残している地域ではあるが、
深い山の中にあって、鉄道からも遠く取り残された不便な所で、
際立つ産業も無く、誘致するにも立地条件が悪く、
工場会社は誘致できず、
過疎が進むのを食い止めるために立案されたのが、
時代物の建造物を整備しこれを利用して観光産業への転換を計ることであった。

しかし最早何の価値もなくなりつつある古ぼけたあばら家を、
一軒一軒手を入れ改修してゆく作業は大変苦労があったと聞いています。
そんなものを修復して果たして過疎の解決になるかの疑問があったからです。
しかし、信念の基に行われた事業が成功して、
今では沢山の観光客が押し寄せている状況です。
特に、ボクが中山道を歩いてみて、
これほど沢山の外国人(白人、中国系の人)にすれ違う経験は、
今までの所、ここ妻籠宿でしかないのですから。

伝統的建造物群保存地区の指定を受けているのは、
他に奈良井宿がありましたが、
そこで外国人に出会ったことはありませんでした。

話を元に戻して、
中山道沿い妻籠宿の鯉岩の真向かいには、
南木曽町有形文化財の熊谷家住宅が解放されており、
往時の生活の様子を垣間見ることが出来ます。

その少し先左側に「妻籠口留番所之跡」がある。
口留番所とは、人や荷物の動きを見張る。
殊に妻籠宿では木曽ヒノキの持ち出しを見張った、
木曽福島の関所の出先機関のようなものであったと思われる。

(熊谷家住宅)

(妻籠口留番所跡)

(高札場)

口留め番所のすぐ先の右側に、妻籠宿の高札場がある。
高札場は、住民や宿場を通行する人たちが守るべき規則
(法令)が記されており、その周知徹底を図った。
高札場を管理する人は、庄屋がこれに当り、
旅人は笠をとり、読んだといわれ、
文字が読めない人には読み聞かせたと言う。

妻籠宿の伝統的建造物群はここから始まる。
高札場の前が江戸側の枡形になっており、口留め番所から道は右折し、
高札場前で左折する。左折した所に、
今ではなかなか見ることができない水車が動いている。

(高札場脇の水車)

古い家並みが続き沢山の観光客が、地図を片手に建築物を見て歩いている。
しばらくすると右手に「脇本陣奥谷」と大書した門柱があり、
入口を覆うようにして見越しの松が枝を伸ばしている。
ここは「夜明け前」の島崎藤村の実家の隣にある大黒屋、
そこの娘「ゆう」さんの嫁ぎ先の林家である。
藤村の詩集若菜集にある「初恋」の主人公が
おゆうさんであった。

(脇本陣奥谷)


(脇本陣正面入り口)

(脇本陣側面)

林家なのに「脇本陣 奥谷」って?と思われるが、
脇本陣は造り酒屋を兼ねており、その屋号が奥谷であった。
国の重要文化財に指定されている脇本陣の
内部が見学できるので寄って行きたい。
見学に当っては、知識豊富なガイド嬢が素晴らしい案内をしてくれるので、
忙しいからと言わず、しっかり聞いていただきたい。
明治以降に再建された脇本陣は、禁止されていた木曽五木の伐採が、
明治以降解禁になった関係で総桧造りになっている。

明治天皇がお休みになった場所でもあり、
高貴な方のお手洗いやお風呂、明治初年にテーブルを造るようにいわれ、
テーブルの意味が分らず、台を造って、その上に板を載せ、
テーブルとしたという、当時の調度品など貴重なものが見られる。

(高貴な方が入ると言うお風呂、焚口は無く、湯を入れた)

(頭上に水滴が落ちてこないよう工夫された風呂の天井)

入場料は、脇本陣、歴史資料館、本陣と3館併せて900円の所、
共通入場券は700円、さらに町内に宿泊されると二割引560円になる。

歴史資料館も見て表に出る。

伝統的建造物群は続くが、すぐ左手に妻籠本陣がある。
ここは島崎藤村の実兄 広助が養子に入った家である。
室内の貴重な部屋(上段の間など)をご覧いただけるので
是非お立ち寄りください。

(妻籠宿本陣)

(本陣の玄関の敷台、お駕籠を横付けに出来た)

(殿様の部屋である上段の間)

島崎藤村の「夜明け前」の初めのほうに、
馬籠宿を次のように記している。
「街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いて
その上に民家を建てたようなところで、
風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。」と
文面が続くが、実際歩いてみると屋根に石を乗せた家は、
今となっては、なかなか見つけることが出来ない。

しかし、ここ妻籠本陣はその文面通りの屋根に石を載せた建物である。
人は物を見るとき、膝から下と目の高さより上は見落としやすい。
ここだけはしっかり屋根の部分を観ていただきたいものである。

(板の上に石を載せた屋根)

その先に京都側の枡形があり、その先は寺下地区で、
妻籠宿の伝統的建造物群が最も良く保存されている場所であるが、
妻籠宿の建造物については、あまりにも有名であるので、

ここでの紹介はこの程度にしておきたい。

(枡形、常夜灯の手前を右へ折れる)

(左へ折れる枡形)

(妻籠宿の寺下地区)

(妻籠宿の寺下地区2)

(妻籠宿の寺下地区3)

(広重画「木曽路69次之内妻籠」)











良寛碑と妻籠城址(旧中山道を歩く 199)

2010年07月01日 10時12分44秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(上久保の一里塚)

(妻籠宿の入口)
上久保の一里塚の間を通り過ぎて、坂道を下ると、
左4~5m昇った山の中腹に良寛が詠んだ歌碑がある。
南木曽町の説明に、
(木曽路にて、

・この暮れの もの悲しさに わかくさの
          妻呼びたてて 小牡鹿(さおしか)鳴くも

この歌は手まり上人といわれた良寛が、
木曽路を通った折に詠まれた二首の内の一首です。)とある。

(良寛の歌碑)

しかしこの説明板によると、
木曽路にて二首を詠んでいるうちの一首であるというが、
残りの一首がどんな歌なのか書かれていない。
その一首は?と疑問が残ってしまう。

帰宅後に調べると、その一首は、
(木曽路にて
・狭筵(さむしろ)に 衣片敷き ぬばたまの
        小夜ふけがたの 月を見るかも)であった。
その意味は、(狭い筵に、自分のかけた衣の袖の片方だけ敷いて、
夜更けになった月を自分一人で眺めることだなあ。)と言う意。

また、「この暮れの」の歌の意味は、
(何となくもの悲しく感じられるこの夕暮れ時に、
妻が恋しいと声を張り上げて、牡鹿が鳴いているなあ。
・若草の=妻にかかる枕詞)(良寛詩歌講座より)

良寛さんについての研究で一生を費やす人もあり、
ボクの出る幕ではなく、ボクはこの辺で中山道に戻る。

(元茶屋であった家)


(茶屋の向かい側にある水車)


(気持ちの良い林の中の道)


(木陰に咲いていた花、名前は知らない)

その先で右手にのびる広い道があり、
広い道を過ぎた先に良く手入れのされた立派な住宅がある。
元茶屋であった家と言う。
茶屋の向かい側、つまり左手に石の道標と水車小屋がある。
旧街道らしい杉林を抜けて下ると、
「中山道 蛇石」の石標がある。
その先を見ると谷川の脇に大きな石があり、

南木曽町の案内には、
(中世の中山道は、ここから沢沿いに上っていった。
元禄16年(1703)に道の付け替えが行われ、
妻籠城総堀を通る現在の道となった。)とある。


(中央に見える大きな石=蛇石)


(蛇石にある石標、右妻籠、左新道、下り道旧道とある)

その先で道路は三又になり、
右は登りで妻籠城へ、
真ん中の道は下りで草の道を妻籠宿へ、
左の道は上りでアスファルト道路を飯田へ。

予定通り妻籠城へ向う一番右の道を登ることにする。
中央の道を妻籠方面から、リュックを背負った男性が、
ふうふう息を切らせながらやってきて立ち止まった。
見かねて、
「この先は下りですから、
一休みされてからお出かけになったほうが良いですよ」
その後ろに外国人の男女がやって来る。
「こんにちは!」とにこやかに声をかけて通り過ぎていく。

日本に来た外国人は、(こんにちは、ありがとう、さよなら)の言葉を
使いたくてしょうがない。
ボクも下手な英語で、
「Have a nice day!」と応じる。
この気の利いた英語に代わる日本語はないだろうか?
「素敵な一日になりますように!」なんて日本語は使わない。
辞書を引いてもせいぜい
(良い一日でありますように)くらいの日本語しか書いていない。


(右の草道が妻籠への道で、さらに右に妻籠城への道がある。)


(妻籠城への道)

右端の妻籠城址への上り道は、案内書では片道10分ほどとあった。
登り坂の勾配については、触れていない。
長い登り坂は、3分続けばかなりきつい。
それでも我慢して五分ほど上ると、道は二股に分かれ、
左を見るとかなり緩やかそうで、山をらせん状に登る感じであるが、
道をまたいで縄が張ってあり、
「この先通行できません」と張り紙がぶら下がっている。

右に直進の道は、かなり急坂である。
見ると上から降りてくる外人さん男女がいる。
女性はフレアスカートで二人とも荷物は持っていない。
実に気楽な格好である。
それに引き換えボク達はリュックサックに帽子をかぶり、
靴はトレッキングブーツといかにも物々しい。

「こんにちは!」と先に挨拶すると、
ふうふう言いながら上ってきたボク達をみて、
「こんにちは!この先は少しSteepですよ」と返事が返ってきた。
この外人さんは日本語が少し使えそうだ。
「ボクのような年寄りには難しいですか?」
とボクが自分を指差して聞くと、両手を広げて
「さあ どうだか分らない」なのか「解らない」というしぐさが帰ってきた。
「Thank you」と応えて、すれ違った。
すれ違った後で「Have a nice day!」を言うのを
忘れたことに気づいたが後の祭りであった。

急坂の山をらせん状に半分ほど回った所に頂上と言うか、
城の主郭(本丸)の址である山上の平坦地に着いた。
心地よい風が吹き、吐く息を整えながら、
猫の額ほどの城址を見て回る。


(妻籠城址)


(城址から御嶽山が見えるらしい)

南木曽町の史跡に指定されている妻籠城址について、
(妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、
室町中期には築城されていたの推定される。
妻籠城は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、
ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚平良勝が籠もって
徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。
また慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、
軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(1616)には廃城となった。
妻籠城は典型的な山城で、空掘・帯曲輪(おびまぐわ)、
さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁(さいのかみどるい)と言う土塁も備えており、
規模の大きな構えであったことが知れる。
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、
南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。)と説明がある。
ここにある(主郭へは徒歩十分で、)と言う説明から、
案内書には片道十分の道のりとしたのだと言うことが分った。

実際には、ボクの遅い足ではそれ以上に懸かるし、
山城の本丸跡での休憩を入れると、
往復で、かれこれ小一時間かかると見たほうが良い。
それにしても本丸跡から見る、山に囲まれた妻籠宿の景観は、
忘れることが出来ない美しさであった。

妻籠城址を後に山を下って妻籠宿に向う。

(眼下に見える妻籠宿、遠くは馬籠峠か?)