中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

義経元服の池と平家終焉の地(旧中山道を歩く 311)

2012年03月18日 10時47分11秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(信号「鏡口」で道路を右側に移る。)

(武佐宿 3)
「源義経元服の池」など道路の右手にあることが分かっているので、
鏡口の信号を渡り道路右側に移る。

中山道は登り坂になっており、車の多い国道8号線を行く。
間の宿を表わす古い建物が続き、少し右に道路がカーブする先に、
鏡神社が右側にある。
(神殿は階段を登った少し高い所にあるが、
南北朝時代の建築で国の重要文化財になっている。
万葉時代の女流歌人として名高い「額田王」の父であるとされる、
鏡王が神官を勤め、
天日槍(あめのひぼこ)を祀られた神社である。)
(竜王町観光協会)とある。


(国道8号線は間の宿らしい建物が続き上り坂)


(鏡神社入り口、左手の屋根が烏帽子掛けの松の幹)


(鏡神社の鳥居)

(*)筆者注:天日槍(あめのひぼこ)は古事記に次のようにある神話の主人公。

ヒボコの神話は以下の通り、
(昔、新羅の沼で女が昼寝をしていると、
その陰部に日の光が虹のようになって当たった。
すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。
その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、
肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、
アメノヒボコと出会った。
ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。
男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、
男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、
ようやく許してもらえた。
ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、
玉は美しい娘になった。娘はヒボコの正妻となった。)

鏡神社参道へ少し入った所の左側に、
松の切り株に屋根を付けた幹だけが残っているが、
これは「源義経 烏帽子掛けの松」として残っているもの。
鏡神社のせつめいでは、
(この先の池で元服した牛若丸は、
この松に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、
源九郎義経と名乗りを上げ、
源氏の再興と武運長久を祈願した。――後略)とある。


(源義経 烏帽子掛けの松)

向かい側に(鏡の里)の道の駅があり、
道の駅の斜め向かいに「義経元服の池」がある。
残念ながら、池は干上がっていて空であるが、
元服の池の石碑もあり雰囲気はある。

鏡の里保存会では元服の池について、
(平安時代 東山道 
源義経 元服池、東下りの途中、
当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。
その時に使いし水の池なり)とある。


(道の駅 かがみの里)


(源義経 元服の池)


(水が干あがってそこが見える元服の池)

旧中山道は、なおも上り道であるが、途中左へ入る道路がある。
車は午前七時~九時まで左折進入禁止の場所である。
左折すると道路はくだりになり、左手に「明治天皇聖跡」の碑が
小さな公園の奥にある。
数百メートルの家並みが残り、旧中山道らしい面影がある。
道路の右脇に旧中山道の案内があり、
旧道をよく残している場所であることを説明している。
道路は、さらに下り道で、先の左手にガソリンスタンドがあり、
国道8号線に合流する。


(車は朝だけ、「左折禁止」の道路を左へ行く)


(「明治天皇聖跡」の碑)


(旧中山道らしい道)


(旧中山道の旧道らしさを残す道)


(ガソリンスタンドで国道8号線と合流)

合流する手前左手に「平宗盛胴塚→」の案内があるので、
細い山道を中へ入っていく。
奥まった所に、「平宗盛卿終焉」の地の石碑が建っており、
大小二基の石塔が並んで建っている。

脇に野洲観光物産協会が(平家終焉の地)と題した、
説明があるので紹介したい。
(平家が滅亡したのは壇ノ浦でなく、ここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて、
1183年一門を率いて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、
1185年壇ノ浦合戦でついに破れ、
平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、
清盛の妻の兄平時忠だけは捕らえられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、
義経は兄頼朝に憎まれ追い返され、再び京へ戻った。
途中京都まであと一日ほどのここ篠原の地で、
義経は都の首を持ち帰るため、
平家最後の総大将宗盛とその子清盛を切った。
そして義経のせめてもの配慮で、
父子の胴は一つの穴に埋められ塚が立てられたのである。
――中略――
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり
この池で父子の首を洗ったと言われ「首洗い池」、
又は、あまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから、
「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。)
今もその池はあるが、
自動車道などに削られて小さくなっている。


(「平宗盛胴塚→」の案内)


(山の中へ入る細い道)


(平宗盛胴塚は暗くてよく撮れなかったが見えますでしょうか)


(蛙なかずの池の説明板と後ろに見える二基の胴塚)


(前にある首洗いの池、又の名を「蛙なかずの池」)

下り坂の国道8号線を進むと、
左手に(一里塚跡は土手の下」の案内があるが、
土手の下をのぞいても一里塚らしい案内標識も、また塚も見えない。
しかしこのあたりに一里塚あったのであろう。
残っていれば126番目の一里塚のはずである。
滋賀県には一里塚らしいものはこの先に一つしかない筈である。


(「一里塚跡は土手の下」の案内)


(土手の下は別の用水池があって他に何も見えない)

坂を下りきったあたりに、(浄勝寺前)の信号がある。
旧中山道はここから国道8号線と別れ、右の狭い道に入る。
数百メートルでまた国道8号線に合流する。
途中、大笹原神社の石柱があり、地蔵堂もある。


(浄勝寺前)の信号)


(右の狭い道)


(大笹原神社の石碑)


(国道8号線と合流前の地蔵堂)

国道8号線に合流すると左側に土手があり、
土手の向こう側には池があり「西池」という。

土手は8号線に沿って500m近くある。
西池はかなり大きなものである。


(西池の土手)


(西池)

次回は、琵琶法師に語りつがれた「平家物語」の「平宗盛斬首さる」の一節を、
現代文に訳しましたので、紹介します。







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浮世絵「木曽海道六拾九次之内 武佐」(旧中山道を歩く 310)

2012年03月14日 10時10分31秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(馬渕町の信号)


(住宅の間を抜ける)


(近江牛のお肉屋さん前の信号も直進)


(回りは水田地帯)

(武佐宿 2)
馬渕町の信号を右折すると、住宅街の中へ入り、
住宅が切れると回りは水田地帯となる。
およそ1km先は東横関町となり、日野川の堤防に登っていく。
昇りきったところに、本来は川の流れが見える所であるが、
竹藪が生い茂っていて、何も見えない。


(東横関のバス停)


(日野川の堤防)


(広重が武佐を描いた場所)


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 武佐」)

案内書によると、広重の浮世絵「木曽海道六拾九次乃内 武佐」は、
この地点から対岸にかけて描かれているらしい。

広重美術館の説明によると、
(――前略――武佐宿を出たところには、横関川(日野川)があり、
さらに行くと善光寺川があった。
広重が描いた川は、横関川であろうとされているが、
中井川と言う説もある。
二艘の船をつなぎ止め、その上に板を渡して仮橋としている。
「中山道分間延絵図」や、太田南畝の随筆「壬戊紀行」には、
横関川の記述として、「舟橋をして渡る云々」とある。
重い荷物を背負っているからか、
おぼつかない足取りの老人の姿が橋の中ほどに見られる。
船をつないだ仮橋は渡りにくかったことだろう。
対岸からこちらに渡ってくるのは巡礼の夫婦か。
生い茂る葦は、湖岸近くの風情をよく示すものである。)とある。

昔は舟渡しであったところに明治から何度か橋が架けられたが、
昭和12年近代的な横関橋がこの上流にかけられ、
渡しがあった場所の橋は撤去されたという。
旧中山道は対岸にあるはずで、
そこへ出るには左へ迂回して横関橋を渡らなければならない。
横関橋を渡り、土手を対岸と思われる所まで進む必要がある。

横関橋を渡るために、土手を左方向に進む。
舗装されていない土の道である。
やがて見えてきた横関橋を渡ると、
橋にある歩道は昔の橋の一部と思われ、かなり幅広い。


(土手の道、広重の浮世絵に似せようと木を入れて撮る)


(川の水が見え、左の横関橋が僅かに見える。)


(横関橋)


(横関橋の歩道部分は広い)

橋を渡り終えたところに右に入る道があるので、
右折して対岸の土手を歩く。
今度は舗装してある。
道路はやがてY字路になるが、右は土手の上を行く土道である。
どちらへ進むべきか迷ったが、今度は堤防から離れていくはずであるし、
今まで舗装路であったから、左の舗装がしてある道をとる。
左手は遠くに見える国道8号線まで水田地帯である。
道順が正しければ、右手に若宮神社が見えてくるはずで、
期待しながらしばらく歩くと、右手の奥に若宮神社を見つけ、
ここが対岸地点と推察し、
とりあえず道順は正解であったと安堵する。
どんどん進むと変則十字路に出る。
突き当たりに地図があるが、
分りにくい地図で、どちらへ行くべきか考える。
夏と違いPM15:30の時刻では、山道でもないのに、
回りは少し薄暗くなっている。
ここは国道8号線へ出られるよう、
右斜め(直進と書くのが正しいかも)の道をとる。


(橋を渡り終えた対岸は竜王町)


(橋のたもとを右折)


(二又道は左へ)


(左手は水田)


(若宮神社)


(民家の間を抜ける。)


(変則十字路に突き当たる。少し薄暗い)

これも正解で、国道8号線(西横関)の信号に出る。
信号角に道標があり「是よりいせ道 ミなくち道」と刻まれている。
道の字が変体仮名で書いてある。
古文書講座で覚えた道の字である。
それにしても、どの道が伊勢であり、水口道かわからない。
薄暗くなってきているし、車の数が多くて、
道路端を歩くのも恐ろしいくらい。
しかし方向としては国道8号線を行けば間違っても守山方面に行けると思い、
右方向へ進む。


(西横関の信号)


(信号角の道標)


(古文書講座が役立った道の字)

多くの車におびえながら8号線を行く。
善光寺川を渡り進むと、左に日本ペイントの建物がある。
案内書ではペンキ屋手前を左へ入るとある。
ぺンキ屋の名前が書けなかったのであろう。
ここを左折して進み、すぐまた国道8号線出でる。
出たところが(鏡口)の信号、バス停のあるところ。
昔、間の宿であったと案内書にある。
(鏡神社・義経元服池)の案内もある。
これで旧中山道の方向は正しいことがわかった。


(車の量が多い)


(ペンキ屋手前を左折)


(合流地点(鏡口)の信号にある案内看板)

(鏡)の間(あい)の宿は、よく整備されていて、
江戸時代の屋号や職業がよく表示されている。
旅籠亀屋跡、旅籠京屋跡、後で出てくる義経宿泊の館跡等、
鏡の宿本陣跡(元祖林惣右衛門則之という)詳しい案内が目に付いた。
自治体の中山道に対する興味の深さを感じる。

義経は鞍馬山から金売り吉次とともに、この地に宿泊した。
その夜、野盗がおし入ったが、
ことごとく義経がこれを退治した逸話が残る。


(旅籠亀屋跡)


(旅籠京屋跡)


(義経宿泊の館跡)


(本陣跡)

国道8号線は登り坂になっている。
すぐ右手に天台宗真照寺があり、その先に源義経宿泊の館跡の碑がある。
京の鞍馬山で修行した遮那王(牛若丸)が奥州平泉へ向う途中、
鏡の宿に泊った場所である。
(この宿は白木屋と呼び澤弥伝と称し駅長であった。)とある。(鏡の里保存会)
中山道はなお登り道になるが、進むと右手の畑の前に駐在所跡の碑がある。
鏡の里保存会の説明を要約すると、
(明治14年から近江八幡警察署鏡分署として開設され、
明治22年武佐警察署下鏡巡査駐在所となり、
昭和30年まで使用されていた。)とある。

この先に鏡神社がある。


(中山道は長い上り坂)


(源義経宿泊の館跡の碑)


(駐在所跡)






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住蓮坊首洗いの池(旧中山道を歩く 309)

2012年03月11日 11時43分53秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(水田地帯を約2km歩く)

(武佐宿)
2km弱何もない田舎道を歩くと、
道路右側に(大門跡)の案内板がある。
大門跡とは見付跡と同じようなもので、
宿場の入り口を指す。
その先に武佐神社がある。
その先に高札場跡の案内もあり、
高札場も武佐宿の入り口あるべきものである。
高札は、領主や宿場がその決まりを表示するもので、
宿場の入り口に置かれるものだからである。
宿場に入る旅人は、これらの決まりを読むために、
笠を取って読み、高札を管理するのは庄屋の仕事であったから、
字の読めない人には、読んで聞かせるような事もした。


(大門跡)


(武佐神社の石の垣根)


(武佐神社)


(高札場跡の案内)

武佐神社の先左側に「明治天皇御聖蹟」の碑があり、
その右手にある参道を行くと、左側は石垣になっており、
突き当たりに「明治天皇行在所」の石碑がある。
左手を見ると山門があるが、その手前の石垣の上に、
「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑がある。
(*)後光巌天皇は、南北朝時代の北朝初代天皇。


(「明治天皇御聖蹟」の碑)


(参道と思われる。この奥に「明治天皇行在所」の石碑がある)


(「明治天皇行在所」の石碑)


(山門)


(石垣の上の「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑)


ここは広済寺といい、由緒を要約すると、
(これは康安元年(1361)後光巌天皇が60日間の滞在をされた。
また明治天皇については明治十一年(1878)北陸巡幸の折、
ご昼食の場所となった。)(広済寺)とある。
ずいぶん由緒のあるお寺である。

この先右側にある冠木門は、武佐宿の脇本陣跡で、
今は武佐町会館となっている。
その向かい側に旧八幡警察署武佐分署庁舎が有形文化財に登録され、
昔懐かしい建物が建っている。
その先で(武佐町)の信号を越えると、
1989年に武佐小学校生徒が卒業記念に作った案内看板が、
武佐宿の重要な歴史的建造物を描いている。


(脇本陣跡の冠木門)


(警察署跡の建物)


(武佐町の信号)

まず初めに、武佐宿の伝馬、人足の取締役を兼務していた米、油の商人
大橋家が左手に、
ついで伝馬所跡(駄馬、人足を常置した所)が郵便局に、本陣跡、
次いで松平周防守陣屋跡が左手にあり、愛宕山の常夜灯と共にある。
その先、右手には常夜灯と共に高札場跡
(おきてを書いた札をかかげたやぐらのところ)、
等など卒業生が記念に造った案内は、
郷土の歴史を明らかにした名作と言えよう。


(武佐小学校の作成の案内)


(大橋家)


(伝馬所跡)


(伝馬所跡の郵便局と書状集め箱)

(本陣跡)


(松平周防守陣屋跡)


(陣屋跡と愛宕山の常夜灯)


(高札場跡、小学生が作った案内)


(高札場跡)

道路は近江鉄道の武佐駅に突き当たり、
右折しすぐ左折すると踏み切りになる。
踏み切りの500mほど先に大樹が伸びて枝を広げている。
大樹の手前、少し奥まった所に、若宮神社があり、
大樹の根方に、伊庭貞剛宅跡の広大な敷地が、
中山道に面して今は公園になっている。


(武佐駅)


(踏み切り)


(大樹が見える)


(若宮神社)


(伊庭貞剛翁 生誕地)

伊庭貞剛について
(近江健康文化友の会・財団法人ハートランド推進財団)
の説明が英訳と共にあり、

要約すると次の通りである。
、(伊庭貞剛はここ近江八幡市西宿生まれ、21歳で剣の免許皆伝となり、
明治元年(1868)招かれて京都御所警備隊士となる。
明治十年(1878)大阪上等裁判所判事となる。
明治十三年(1881)住友家に入社し大阪本店支配人となる。
明治二十四年(1894)煙害問題解決のため、四国別子銅山支配人になる。
五年後別子銅山の煙害問題に目途をつけ別枝を離れる。
明治三十三年(1900)住友家総理事に就任するも58歳で職を辞し隠退する。
大正十五年80歳の生涯を閉じ、西宿に眠る。)
そうそうたる経歴の持ち主である。
屋敷址は広大で今は公園になっている。

この先約500m(西宿町)の信号で国道8号線に合流し、
8号線を走る自動車におびえながらかなり歩く。
やがて六枚橋のバス停があるところ、ガソリンスタンド手前で左折し、
すぐを右折する。
角に(南無阿弥陀仏)と刻まれたお墓様なものが建っており、
その手前に(中山道)と小さな標識が右折を示している。


(西宿町の信号、国道8号線に合流する)


(国道8号線の自動車)


(六枚橋バス停)


(最初の右折箇所、「中山道」右の案内あり)

右折するとすぐ右手に歯科医院の看板があり、その先に歯科医院がある。
歯科医院前を通り過ぎて、左は田圃でちょっと先にバス停があり、
石碑が建っている。刻まれた文字は読み難いが、
「安楽坊・住蓮坊墓」と読める。
このバス停の先右手に小公園があり、「住蓮坊首洗い池」の看板があるので、
中へ入っていくと、竹の柵で囲まれた池らしきものがある。
池らしきと書いたが、実は水がなく、底が干上がっていて沢地になっている。
脇に「住蓮坊首洗い池」の石碑がある。


(歯科医院)


(バス停と住蓮坊・安楽坊の墓の碑)


(住蓮坊首洗いの池の公園)


(首洗いの池)

(住蓮坊首洗いの池の碑)

千僧供町街づくり委員会の説明を要約すると、
(住蓮坊・安楽坊は、鎌倉時代前期の僧侶、法然上人の弟子であった。
従来の仏教と比べ念仏を唱えれば極楽往生できるという教えであったので、
信者は爆発的に増えた。
時の帝(後鳥羽上皇)の二人の女官が住蓮坊・安楽坊に帰依し、
尼になってしまった。
それを知った帝が住蓮坊・安楽坊を捕え処刑した。
その首を洗ったのがこの池である。)とある。

今考えると側室が尼さんになったくらいで、
入信させた坊さんの首を刎ねるのは、理解しがたい。
第一、側室二人くらい何をしようと、
別の側室を新規に抱え込んだ方が良さそうに思うが、
それはボクだけの男の身勝手と言うものだろうか・・・

この公園を出て中山道を行くとすぐ国道8号線に合流するが、
合流地点に(安楽坊・住蓮坊)墓とあるようだが、石碑がある。
(よく読めないので、間違っているかもしれない。)
バス停脇の案内と言い、どこか近くにお墓があるに違いない。
石碑の向こうは水田地帯である。


(国道8号線との合流地点)


(「住蓮坊・安楽坊お墓」の碑)

白鳥川を渡って約1km行くと、
左手に(具足山妙感寺)の石碑と(近江八幡警察署馬渕警察官駐在所)が、
それを通り過ぎると、(馬渕町)の信号にでる。
信号左手は(フジファミリーショップ)があり、
右手には自動車修理工場がある。
信号の先がY字路で、右かどに八幡神社があり、
そこには高札場跡があった。

中山道はY字路を右に入る。

(白鳥川)


(具足山妙感寺)の石碑)


(駐在所)


(馬渕町の信号と右手の自動車屋さん)


(信号左かどのフジファミリーショップ)


(信号先のY字路を右へ)


(右手の八幡神社)


(鳥居脇の盗撮場跡の碑)

(*)住蓮坊・安楽坊のお墓は、聞くところによると、
国道8号線六枚橋の信号を左折して、
約1kmの所にあるという。(確認してありません)














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根来陣屋跡と泡子延命地蔵(旧中山道を歩く 308)

2012年03月05日 11時13分34秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(根来陣屋跡の碑)

(愛知川宿 4)
「中山道 陣屋小路」の石柱の案内に沿って進む。
東老蘇公民館の小路を古くから陣屋小路と呼んでいる。
その突き当り、奥石神社の参道横の駐車場用の広場に出る。
ここに江戸時代にあった根来陣屋の跡である。


(奥石神社横の根来陣屋跡の敷地)

根来陣屋についての説明を要約すると、
(鉄砲の根来衆で有名な根来家は、
秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となり、
数々の戦功を立て大和・近江・関東に領地を拝領し、
この場所が根来家の領地になったのは、
寛永十年(1633)東老蘇668石と西老蘇13石であった。
元禄十一年(1698)この地に陣屋が設置され、代官所が置かれた。
江戸期の絵図に陣屋が描かれている。)
(東老蘇町づくり実行委員会)とある。

その絵図を紹介して置きたい。


(根来陣屋の古地図)

中山道へ戻ると、石柱のある場所は(東老蘇公民館)である。
先に進むと常夜灯があって小さな橋があり、
(中山道 森橋)とある。
これを渡って少し行くと左手に(杉原医院)があって、
医院建物前の中山道沿いに、
猫の額ほどの枯山水が置かれている。


(東老蘇(ひがしおいそ)公民館)


(中山道 森橋と常夜灯、カーブミラーにボクが写っている)


(杉原医院の枯山水)

実は建物前の枯山水よりも、
医院裏手のご自宅の庭園が「杉原氏庭園」として
滋賀県指定文化財になっている名園であることである。
残念ながら拝見することは出来なかった。
「緑苔園」といい、
江戸時代末期作庭の500㎡の庭とのこと。(安土町教育委員会)

さらに進むと信号があり、
道路の左右はどこまでも続く水田地帯を行く。
やがて(奥石神社御旅所)の石碑が建つ小広場がある。
御旅所とは(旧中山道を行く 306)に述べたが、
神社の祭礼の際、祭神が巡幸するとき、
神輿(みこし)を仮に鎮座しておく場所を言う。
ついで右手に「鎌若宮神社」の鳥居と石塔がある。


(信号右に「中山道」の石碑がある)


(お旅所の石碑)


(鎌若宮神社の石碑)

その先は閑散とした田舎道が500mも続き、
やがて右手にいかにも意味ありげな長屋門があり、
その先にお寺の山門がある。
お寺は「東光寺」とあり、
門前の左手に「建部伝内の遺跡」の石柱がある。
建部伝内は豊臣秀吉の祐筆で、伝内を安置した伝内堂がある。


(閑散とした田舎道)


(長屋門)


(東光寺山門、山門前の石柱(右)と建部伝内の碑(左)


(本堂)


(伝内堂)


(道内にある伝内の像)

中山道はその先1.5kmほど特筆することも無く過ぎ、
右手の一段下がった小さな川の横に、「泡子延命地蔵御遺跡」がある。
これは醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」の話と同じで、

(茶店に一人の僧がやって来た。
娘がお茶を出し僧を見て一目ぼれする。
僧が立ち去ったあと、
飲み残しのお茶を娘が飲むと、
不思議なことに子を授かり出産する。
三年後、泣く子供を抱いて大根を洗っていると、
旅僧が通りかかり、
子供の泣き声がお経を読んでいるように聞こえる。
娘が振り向くと三年前に恋をしたその僧である。
その話をすると旅僧は子供に、ふっと息を吹きかけると、
子供は泡となり消えた。
僧が言うには、
西のほうに「あら井」というところの池の中に、
尊き地蔵がある。
この子のために堂を建て安置せよ、と。)
現在は、この地蔵堂は(西福寺)にあるというので、
後ほど確かめた。

西福寺の先は水田地帯を2km弱、武佐宿まで歩く。


(信号と「中山道」の案内)


(泡子延命地蔵)


(西福寺と地蔵堂)


(道路わきは水田地帯)









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奥石(おいそ)神社(旧中山道を歩く 307)

2012年03月01日 10時50分59秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(奥石(おいそ)神社の森)

(愛知川宿 3)
前回、観音正寺への参道と書いた。
(観音正寺は観音寺山の中腹にあるお寺で、
木造千手観音(室町時代の作で、重要文化財)を本尊とする寺で、
後ろにある観音寺城を守る役割をしていた。
西国三十二番の霊場になっている。
観音寺城は山全体に石垣を築いて要塞とした大規模な山城で、
当時の城の遺構がよく保存されているので、
国の史跡に指定されている。
――後略)(安土町)とある。

旧中山道を進むと右手に奥石神社の石碑といくつかの灯籠が、
繁った森の前、神社の参道にあるのが見える。
これが東参道で、西参道は中山道をも少し進んだ所にある。

参道を進むと鳥居が左手にあり、これをくぐる。
紅葉がとても美しい。


(奥石神社の東参道)


(神社の鳥居)

老蘇(おいそ)の森について安土町の説明によれば、
(今から約2250年前、考霊天皇のとき、
この地一帯は、地裂け水湧いて、
とても人の住むところではなかったが、
石部大連(いしべのおおむらじ)という人が神の助けを得て、
この地に松・杉・桧を植えた所、
たちまち大森林になったと伝えられています。
また、この森は、万葉の時代から世の移り変わりとともに、
数々の歌に詠まれている名高い森であります。
この森深く鎮座する奥石神社は、
繖山(きぬがさやま)をご神体とする最も古く原始的、
根元的な神社であったため、
延喜式神名帳に載せられているといわれます。
現在の本殿は、天正九年(1581)に建てられたもので、
安土桃山時代の豪華さの中に優美な落ち着きをもつ建造物で、
安土町の国指定の重要文化財の中では、唯一の神社建築である。
老樹の生い茂る深い参道をもつこの社は、
中世より鎌宮神社ともいい、
これは「蒲生野宮(がもうのみや)」が、
なまって名づけられたと言います。)(安土町)とある。


(境内の大樹)


(大樹がここそこにある奥石神社)


(その二)

本殿については、
(重要文化財の奥石神社本殿は、三間社流造、桧皮葺 
桃山時代のもので重要文化材になっている。
奥石神社境内社諏訪社本殿(安土町指定文化財)、
一間社流造、桧皮葺の建物。
桃山時代の作と伝えられ、安政七年(1880)、
明治十三年(1880)の修理記録が残されている。)
(安土町教育委員会)とある。

神社はみんなそうであるが、
(非常に重厚な)としか表現しようがない造りの神社である。


(奥石神社本殿 三間社流造り)


(諏訪神社 一間社流造り)


(境内の水車が先に見える)

周りには、樹齢何年か知らないが、
老蘇(おいそ)にふさわしい大木が生えている。
神社を出ると社務所が開いている。
覘くと入り口に、素敵な屏風が飾っていあったのというか、
置いてあったので、一枚撮る。


(社務所)


(社務所入り口の屏風)

本居宣長の歌碑なども見学。

・夜半(よわ)ならば  老蘇(おいそ)の森の  郭公(ほととぎす)
        今もなかまし  忍び音のころ

                 本居宣長  


(本居宣長の歌碑)

その先紅葉の美しさに目を奪われて歩いて神社を出る。
中山道を西に行くと、西参道があり鳥居が立ち
「奥石神社」の石塔が立っている。
その先左手に「中山道 陣屋小路」の石柱があるので、
案内に沿って進んでみる。


(紅葉に気を取られて境内を出る)


(奥石神社の西参道の鳥居)


(陣屋小路の石碑)








コメント (6)
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