中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

芭蕉句碑と寝物語の里(旧中山道を歩く 284)

2011年12月07日 10時04分29秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(芭蕉句碑)


(正月も・・・の芭蕉句碑)

(今須宿 4)
車返しの坂を下ると、石碑が数個建っている場所へ出る。
近づくと芭蕉の句碑と言われるもので、

・正月も 美濃と近江や 閏月  (芭蕉)

また、その隣の石碑には、
「貞享元年十二月 野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため
熱田よりの帰路二十二日ころ、ここ地 今須を過ぎるときの吟」
とある。

さらに、その右横には、

「野ざらし芭蕉道  
・歳くれぬ 笠着て草鞋 はきながら  はせを
とある。


(野ざらし芭蕉道の碑)

少し離れた右手には二基の石碑があり、背の高い方には、
「おくのほそ道   芭蕉道」とあり、
四角い碑には、「おくのほそ道」と題して、
有名な奥の細道の文章の最初が、
「月日は百代の過客にして、・・・とあり、――中略。

行春や 鳥啼き魚の目に泪

の句が載っており、つづいて草加を旅立つ部分、

ことし元禄二とせにや、・・・・とあり、――中略。
奥の細道各地の紀行文を抜粋しながら述べて、
終わりに大垣入って、親しき門人が集うくだり、
「其の外したしき人々とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、
且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、
長月六日になれば、伊勢の遷宮お(を)がまんと、
又舟にのりて、

・蛤の ふたみに 
       わかれ 行秋ぞ  芭蕉
 」を述べている。


(「おくのほそ道 芭蕉道」の碑)


(おくのほそ道、「行春や・・・」と「・・・行秋ぞ」の碑)

奥の細道を締めくくった句を大垣で詠み、
しかも奥の細道の最初の一句
行春や ・・・)に対して、結びの句が、
(・・・行秋ぞ)で締めくくったのは、
芭蕉は春に対して秋を意識してこうしたのだろうか?
春はこの先の希望を、秋はこれで終わる寂しさを訴えた、
見事な結びの一句ではある。 と思う。

さて芭蕉句碑から百メートルも行かない先の左手に、
「寝物語の里」の碑がある。

一つの小さな溝を挟んで、
手前側は美濃(岐阜県)、向こう側は近江(滋賀県)の国境になっている。

「寝物語の里」伝説は、
この先右側にある「寝物語の里の由来」と彫った説明がある。
これに寄れば、
(昔 文治年間 源義経が、兄頼朝と不和になり、
奥州の藤原秀衝の許へ落ちて行ったので、
その妻静御前もそのあとを追ってここまで来た。
近江側の宿に泊っていると、隣の美濃側の宿で、
大声で話しているのは、義経の家来のようであるので、
寝ながら訊ねると、そうだと答える。
静御前は喜んで、私は主人を慕ってここまで来たが、
家来は皆途中で捕えられて、誠に心細い。
奥州までつれてって欲しい、と頼むと快く承諾してくれた。
これが寝ながらの物語だったので、この名が起こったと言われる。
異説は幾つでもある、とのこと)(米原市)


(国境となった溝,左岐阜県、右滋賀県の名札がある。)


(寝物語の里の碑と由来を述べた石碑)

広重描く浮世絵(木曽海道六拾九次之内 今須)も
「寝物語の里」を描いている。
解説に寄れば、
(本図は、町の西外れ、近江と美濃の国境の光景。
今須宿の先に位置する長久寺と言う集落である。
一尺五寸ばかりの溝が国境となっており、
これを挟んで西の近江国側に20軒、東の美濃側には5軒あったという。
本図において、手前に描かれる茶屋は近江屋、奥は両国屋と見られる。
近江屋の軒先には、「仙女香坂本氏」とおしろいの宣伝が、
両国屋には、「寝物語由来」と言う看板が見られる。
この国境では、両国の人が、壁越しに寝物語をした所から、
この辺りを「寝物語の里」ともいった。

この小さな溝で、関西と関東とを分けるという説、
あるいは、不破の関を境に西は関の西、つまり関西で、
関の東を関東とする説、
あるいは、逢坂の関を境に分かれるとか、
名主と庄屋の違いは、関東は名主、それ以外は庄屋というから、
関東は群馬県まで名主で、お隣の長野県は庄屋になり関東ではない。
いろいろ説は有るようであるが、
ボクには、はっきりした関西弁が聞かれる京都か大阪に入って、
やっと関西に来たと感じる。
実際にはどこで分けているのだろうか?


(広重の浮世絵)

中山道を進むともうここは近江で滋賀県に入っており、
ここから1kmほど、かえで並木の中山道になっている。
街道は松並木か杉並木が多いが、かえで並木と言うのも珍しい。
かえで並木が終わると、左へ踏み切りを渡り、

中山道は柏原宿に入る。

いよいよ本日をもって美濃路とお別れになり、
近江路に入って行く。


(かえで並木)


(かえで並木2)


(*)筆者註:余計なことであるが、(・正月も美濃と近江や閏月)の句は、
芭蕉の句かどうか疑わしいとされています。(芭蕉俳句集 岩波文庫)
念のため追記します。




車返しの坂(旧中山道を歩く 283)

2011年12月03日 10時57分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(真宗寺)


(路肩に咲くコスモス)


(法善寺)


(八幡神社)

(今須宿 3)
中山道を進むと、左に真宗寺があり、コスモスが咲く道を進む。
右手に法善寺を見て進むと、
今度は左手に「村社 八幡神社」の石の鳥居と常夜灯があり、
さらに進むと十字路にでる。

今須宿で初めての信号である。
信号と言っても赤黄青の三色の信号でなく、
赤一つの点滅信号である。
左手前角に古い常夜灯がある。


(十字路の今須で初めての点滅信号)


(信号手前の常夜灯と左手に見えるKKオーツカの建物)

見渡すと左手奥の高台に、
KKオーツカの看板をつけた建物がある。
案内書や関が原の観光協会で貰った地図によると、
右角にKKオーツカがあることになっている。
よくあることで左右間違いならば、
それはそれで良いのだが、
案内所も観光協会の地図も揃って右角にKKオーツカがあるのは、
間違いとは思えない。

点滅信号を見ながらKKオーツカが右に見えるように左折する。
道路はやや登りになっており、すぐ名神高速道路をガードでくぐる。
どうも道が違っているように感じる。
道は右に曲がり、さらに右に入る別の道がある。
見渡すと道路先で軽トラックに荷物を積んでいる人がいる。
道を間違ったら出来るだけ早く地元の人に聞き、
修正するのがボクのやり方である。

地図を見せながら、
「お仕事中失礼します。
この道を行きたいのですが、この道で間違っていませんか?」
「どこへ行くのですか?」
ボク「柏原宿へ行きたいのですが・・・」
ボクが見せた地図を見ながら、
「ああ、「寝物語の里」へ行くのは、この道を戻って、
点滅信号を左へ行くのが正しいですよ。」と回答がある。


(点滅信号は直進。KKオーツカに惑わされないように)

何のことは無い、中山道は点滅信号を直進すれば良かったのだ。
点滅信号まで戻って中山道を直進する。
しばらくすると、車返し地蔵尊の石柱が道路左の台地の上にある
道路は下り坂で21号線を渡る信号があり、
その先に東海道本線の踏切がある。
この坂道を「車返しの坂」という。


(車返し地蔵尊の碑)


(車返しの坂の21号線との交差点)

車返し地蔵尊の坂のいわれは有名で、
不破の関は平安時代以降、よく文芸作品の題材になった。
南北朝の昔、時の関白で歌人の二条良基は、
不破の関が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、
わざわざ都から牛車に乗ってやってきました。
村人は、都からやんごとなき方が不破の関に来ると聞いて、
荒れ果てた不破の関を修築してお待ちしました。
ところがこの坂道を登る途中、
不破の関の屋根を直したと聞いて、
破れ屋根であってこそ面白いものをと、
この坂で引き返してしまったという伝説から、
車返しの坂と呼ばれるようになったそうである。
車返し地蔵尊を祀って残している。


(車返し地蔵尊)


(左奥が車返し地蔵堂)


(右横の地蔵堂1)


(右横の地蔵堂2)


(車返しの坂、21号線を渡って)


(車返しの坂、21号線の右の東海道線の踏み切り)


(車返し踏み切り)

坂を下って踏み切りの先、右手には、オーツカの大きな工場がある。
関が原観光協会の地図も、案内書の記載もこれで正しいと言うことになる。
道に迷った原因となったKKオーツカの名前が入った建物は、
左手にあったが、のちにできた事務所であるに違いない。
あとで知ったことであるが、
KKオーツカの本業は不織布による布の製造で、
主に自動車の内外装を手がけている会社である。

(*)筆者注:不織布=編みや織りによらないで作る布のこと。

坂を下りきると、前方右手に石碑がいくつか建っている。
近づくと芭蕉の句碑である。
回りを見渡すと進行方向左手に

「寝物語の里」の石碑がある。


(石碑が並ぶ公園)





今須の一里塚と妙応寺(旧中山道を歩く 282)

2011年11月26日 10時04分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2

(国道21号線下っている)


(今須の一里塚)

(復元された一里塚、その石碑)

(今須宿 2)
国道21号線は自動車がスピードを出して走るので、
道路を横断するのは、はなはだ危険であるが見晴らしが良いので、
左右を良く見届けて注意して道路を横断しよう。

横断して少し坂を下ると一里塚跡が見事に復元されている。
江戸から114番目の今須の一里塚である。

一里塚の前から、21号線に沿って進むと、
左手に「中山道 今須宿」の標柱がたっており、
その後ろに「今須宿 本陣跡・脇本陣跡」と題して説明版がある。
(今須宿は美濃の国と近江の宿の境の宿として栄えました。
215坪の本陣が一軒で、現在の小学校一帯に位置していました。
脇本陣は美濃十六宿の中でも今須宿のみ二軒あり、
これも小学校付近にあったようです。
脇本陣河内家の建物は現米原市伊吹町の玉泉寺に移築され、
当時の面影を残しています。――後略)とある。
この標柱の後ろの方に小学校はある。

(今須の一里塚前)

(「中山道 今須宿」の標柱)

道路をはさんで反対側を見ると、
国道21号線の手前が広場になっており。
「曹洞宗 青阪山 妙應寺」の石柱がある。
そして左折する道路は、
国道21号線と東海道本線をトンネルでくぐり、
その向こうに妙応寺の山門が見える。
道路は門前で左右に曲がるのであろう。

(「曹洞宗 青阪山 妙應寺」の石柱)

山門に向って進む。
関が原町の説明によれば、
(妙應寺は正平十五年(1360)に、
今須領主長江重景(ながえしげかげ)が創建した、
県下で最も古い曹洞宗寺院で、
曹洞宗の大徳峨山禅師(道元の弟子)を開山として、
母妙應尼菩提のため妙應寺を建てたものです。
寺領も沢山寄進したので、久しくこの寺は栄えた。――後略)

(妙応寺の山門)

山門を入ると本堂が正面に見え、左右に常夜灯が並んでいる。
右手の松の根元には、老夫婦が抱き合い微笑ましい道祖神があり、
高さ二メートル余の大鬼瓦が見られる。
さらに進むと、狸の夫婦が肩抱き寄せた愛らしい道祖神も。

本堂左手の門をくぐると、
「長江地蔵大菩薩」の石碑がある地蔵堂がある。
奥には長江氏代々の墓が並んでいる。

(本堂)

(ほほえましい老夫婦の道祖神)

(狸の夫婦?)

(「長江地蔵大菩薩」の石碑)

(長江氏代々の墓)

妙応寺を出て、中山道を行くと左手に
「垂井警察署 今須警察官駐在所」がある。
垂井宿、関が原宿、今須宿併せて垂井警察署が管理していることになる。
膨大な土地に垂井警察署だけで事足りると言うことは、
この地域の治安のよさを物語っている。

この垂井警察署 今須警察官駐在所の向かいに、
今須の問屋場跡の建物がある。
(問屋場は物流の拠点として、人や馬の継ぎたてなどを行った。
ここ今須宿では、美濃十六宿のうち、当時のまま現存し、
その威容を今に伝えるのは、ここ山崎家のみです。)と関が原町は述べている。

(垂井警察署今須駐在所)


(問屋場)

その先左側塀の中に常夜灯がある。
(街道が賑わっていた文化五年(1808)のこと、
京都の問屋河内屋が大名の荷物を運ぶ途中、
ここ今須宿付近で紛失し途方にくれて、
金毘羅さんに願をかけ、一心にお祈りをしたら、
幸い荷物は今須宿から出てきて、
そのお礼に建てた常夜灯である。)(関が原町)という。

何が入っていたか判らないが、
当時、荷物を紛失すると問屋業は廃絶、命はなかったに違いない。
常夜灯の一個や二個では済まされない問題であった。

その後中山道は穏やかな日を浴びて、
のどかな道を進んでいく。


(寄進した常夜灯)




常盤御前の墓と今須峠(旧中山道を歩く 281)

2011年11月22日 10時04分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(二つある東海道本線にガード)

(今須宿)
鶯の滝を過ぎると、東海道本線のガードが見える。
道路は二股に分かれガードも二つある。
どちらが中山道か迷った挙句、左手のガードの方向に行くと、
二又道路の又の所に、案内があり中山道は右側を指している。

と、うまく書いたが、実は知らないで左側をまっすぐ歩いてしまった。
行けども、行けども「常盤御前の墓」らしきものはない。
案内書によれば、すぐ到着するはずであるのに変だなと思っていたら、
右側から出てくる道が合流してきている。

右側の合流している道を覗くと、
「常盤御前の墓」の案内看板が見えるではないか。
間違ってしまったかと、元の東海道本線のガードまで戻り、
よくよく見ると、何のことは無い、最初に書いたように、
二又の又の所に、「常盤御前の墓」の案内があるではないか。
失敗のことを書くのは今回初めてであるが、
本当は、道を間違える失敗はいつものことで、今始ったことではない。

それにしても正しい道を先に進むと、先にまた二又道がある。
今度は間違えないように、あたりを注意深く見回すと、
案内があったので、今度は左方向の道をとる。
先に進むと右手に「常盤御前の墓」右方向の案内があり、手前に地蔵堂がある。
右に折れるとすぐ左に、
小公園があり「常盤御前の墓」があった。


(東海道線のガードは右が正しい)


(先の二又道路は左へ行くのがが正しい)


(常盤御前の墓右の看板前の地蔵堂)

宝篋印塔と五輪塔が並んで建ち、
その右隣には芭蕉と弟子の化月坊の句碑が立っている。
関が原町の説明では、
(都で一番の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常盤御前。
義朝が平治の乱で敗退すると、
敵将清盛の威嚇で常盤御前は今若、乙若、牛若の三児と別れ、
一時期は清盛の愛妾にもなります。
伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、
乳母の千種とあとを追ってきた常盤御前は、
山賊に襲われて息を引き取ります。
哀れに思っさ山中の里人が、
ここに葬り塚を築いたと伝えられています。)とある。

向って左が常盤御前の墓で、今も生け花が真新しいのは、
ご近所の方が毎日手入れされているからであろう。


(左側に小さく見える常盤御前の墓)


(常盤御前の墓の全体景)


(左側が常盤御前の墓といわれる。)


(宝篋印塔と五輪塔が並んで建つ)

となりの芭蕉句碑には、

・義ともの心耳 似多里秋乃可世   者世越翁(はせおおうの変体かな)
(義朝の心に似たり秋の風 芭蕉翁)

とあり、もう一つの芭蕉の弟子の句碑には、

・その幹に牛も かくれて佐くら哉  七十六雙(おきな) 化月坊
       (その幹に牛もかくれてさくらかな 化月坊)

とある。関が原町の説明では、
(化月坊は慶応四年(1868)には、
この塚の前に俳人接待のための「秋風庵」を開いた。
庵開きには十数人の俳人が参加し、盛大な句会が催されたという。
その後庵は日守の一里塚東隣(現垂井の一里塚東隣)に移築され、
茶所として旅人の休息所、
句会の場となって活用されることとなった。)とある。


(左が「義朝の・・・」芭蕉句碑、右が「・・・さくらかな」化月坊の句碑)


(コスモスの咲く道路脇)

「常盤御前の墓」の公園を出て、中山道を行くと左から来た道路に合流する。
すぐにまた次の二又道に出る。どこにも案内はない。
左に行けば国道21号線の道路下をガードで潜り抜けるようだ。
右に行けば線路沿いに行くことになるが、上り坂で先の方まで見渡せる。
案内書では線路の下をくぐるように書いてあるが、
どこにもくぐりそうな場所は見当たらない。
二又道路の間ににお地蔵さんがあるが、
お願いしても教えてくれそうもない。
うろうろしていると後ろから一台乗用車が勢いよく走っていった。
早く自動車に気づけば手を挙げて、せめて方向だけでも聞けたのに・・・残念。


(二又道を左へ行けばガードはあるが・・・)


(お地蔵さん、後で調べたら背面に方向が書いてあったらしい、読めるかどうかは別として。)

止むを得ずリュックを下ろして、関が原で貰った地図を取り出すと、
道路は線路を「踏み切り」でまたぐ様になっている。
左右の道路の間に石の地蔵さんがいるが、
お地蔵さんに訊いても、
石だからきっと首も振らないに違いない。
間違っても良いと、線路に沿って登り坂を相当歩くと、
先に踏切が見える。


(沿って歩いた線路)(振り返ったらこんな感じ)


(先の踏み切りを渡る)

この踏切を渡り、山の中へ入っていく。

今須峠である。

坂道をぐんぐん登り、
道路が右に左に少し曲がり見晴らしの良い広い所に出ると、
これが国道21号線で、
道路向こう側の右手に案内書どおりの一里塚が見える。

今須宿である。


(山の中へ上り坂)


(山の中へ登り坂2)


(山が少し開けて来た下り坂、今須峠というらしい)


(出たところが国道21号線、右手に今須の一里塚が見える)









藤古川と鶯の滝(旧中山道を歩く 280)

2011年11月19日 10時09分58秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(藤古川)

(関が原7)
不破の関跡を出て坂を下ると藤古川を渡る橋がある。
川の中央の欄干に、「藤古川」と題し、次のような説明がある。
(この川を古くは関の藤川と称し、壬申(じんしん)の乱には川を挟んで
東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が対陣した。
地区の民はそれぞれの軍を支援したので、
壬申の乱以後、東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、
川下の藤下・山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、
現在に及んでいる。)(関が原観光協会)

説明がわかりにくいのは、天皇が二人出てきて、
対峙したというところにある。
歴史と地理、水泳と音楽は極めて苦手であるボクには、
特にわかり難い。

ボクが理解した内容では、
大化の改新以降の時代に起きた壬申の乱(672年)、
天智天皇の弟に大海人皇子がいて、
当時は弟が王位継承するしきたりになっていた。
つまり大海人皇子が王位に付く順番であった。
病弱な天智天皇に代わって、
大海人皇子は民の人心を掌握した政治を心がけていたので、
大海人皇子が次期天皇と目されていた。
ところが天智天皇の息子には大友皇子がいて、
時期王位は大友皇子に継がせるよう太政大臣の位に任じていた。

余命僅かな天智天皇が大海人皇子を枕元に呼んで、
時期王位はそなたに継いで欲しいと頼むが、
これは本心でなく、
もし承諾すれば命さえ危ないことを察知して大海人皇子はこれを辞退し、
頭を丸めて出家し、藤古川の東へ逃げてしまいます。

天智天皇が亡くなり、大友皇子が政治をしますが、
大海人皇子が邪魔です。
兵を集めこれを討とうとしますが、
大海人皇子もこれを察して、軍勢を起て、
不破の関と鈴鹿の関を押さえ、戦に勝った。
この戦を壬申の乱といった。

戦勝の一因は、大海人皇子の部下に尾張、
美濃の強兵が居たことがあげられる。
後に、信長が天下布武を目指した時も尾張・美濃の兵士であったが、
この土地の兵は強かったかもしれない。(体力でなく意気込みが)
なお、大友皇子は明治年代になって弘文天皇の名を贈られている。
後世に贈られた天皇名を使って説明されるので、話が判りにくくなる。
つたない説明でご理解頂けたであろうか。

さらに関が原町の説明では、
(平安時代以降は、この川は歌枕になって有名となり、
多くの文人墨客の歌に詠まれている。

・みのの国せきの藤川たえずして
         君には仕えん万世までに(古今和歌集)
とある。

藤古川こと関の藤川を渡り、
中山道を直進するとまもなく十字路に着く。
正面に地蔵堂が見え、右前方に中山道直進の案内があり、
坂を登ると「矢尻の池(井)」が左手にある。
(この窪みは、壬申の乱の時、
大友皇子の兵士が水を求めて、
矢尻で掘った井戸と伝えられています。
長い年月がたった今では、
その名残を僅かにとどめているに過ぎません。)(関が原町)とある。
今は、井戸は干上がって底が見えている。


(箭先地蔵堂という、大谷吉隆の墓2丁とある)


(十字路右手に「矢尻の井」の案内)


(地蔵堂の後ろにある矢尻の池(井)で干上がっていた)

坂を下りやや広い通りに合流した所の左に、
(「弘文天皇御稜候補地」と「自害嶺の三本杉」150m先)の案内がある。
明治になって弘文天皇呼ばれるようになった大友皇子は、
大津の山前で自刃された。
東軍の将 村国連男依(むらくにのおより)は、
皇子の御首を戴き、不破の関野上に凱旋し、
後の天武天皇こと大海人皇子の御実験に供し、
この丘陵に葬り奉り、
三本杉を植え「自害峰」といったと伝えられている。


(「弘文天皇御稜候補地」と「自害嶺の三本杉」150m先の案内)


(弘文天皇こと大友皇子御稜候補地)

現実に戻り、先に進むと国道21号線をまたぐ歩道橋がある所に出る。
21号線に出る手前右側に山中の高札場があったと言われている。
歩道橋を上り21号線を渡ると、中山道の案内杭がある。
山中である。


(21号線歩道橋)


(中山道の案内杭の後ろにあった高札場跡)

そしてしばらくして右側に「村社 若宮八幡神社」の石塔が見える。
奥を覘くと、鳥居の下に石段があり、はるか上まで繋がっている。
案内書によると、神社の石段は東海道線の踏切を越えさらに400m先に
本殿があると言うので登るのを諦める。


(若宮神社の石塔と石段と鳥居)

さらに進むと、黒血川にでる。
関が原町の案内によると、
(壬申の乱(672)でここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、
玉倉部邑(たまくらべのむら)(関が原町玉)を経て、
大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出ました。
しかし、大海人軍はこれを撃退、
その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。
この激戦で、両軍兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、
黒血川の名がつき、
そのときの凄まじい様子を今に伝えています。)とある。


(血で黒く染まった黒血川)


(橋の反対側の黒血川)

その先右手に三つの地蔵堂が並んでおり、
中央が「黒血川地蔵尊」、左手が「鶯滝地蔵菩薩」、
一番右手が「交通安全地蔵菩薩」になっている。
この地蔵堂の前、つまり中山道進行方向に向って左手に、
「鶯の滝」があり、美しい水がとうとうと流れる様は、
旅人の疲れを癒す格好の冷気を与えてくれる。
前方は道路が二つに分かれ、東海道本線をくぐるガードが二つ並んでいる。


(三つの地蔵堂)


(黒血川地蔵尊とある)


(黒血川地蔵尊、無断でで開帳して写す)


(清滝地蔵菩薩とある)


(清滝地蔵菩薩、ご近所の方が手入れをされて新しい花があった。)


(交通安全地蔵菩薩)


(「鶯の滝」を金網越しに写す)


(前方に見える東海道線の二つのガード)















不破の関(旧中山道を歩く 279)

2011年11月13日 14時57分39秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(不破の関跡)

(関が原宿 6)
左手に見えた白い壁の建物は不破の関跡である。

不破の関については、
(東山道の美濃不破の関は、東海道伊勢の「鈴鹿の関」、
北陸道の越前「愛発の関(あらちのせき)」とともに、
古代律令制下の三関の一つとして、
壬申の乱(673)後に設けられたとされています。
延暦八年(798)に停廃されて後は関守が置かれ、
平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が
しきりと記されてきました。)(関が原町)とある。

不破の関の建物の奥が小公園になっており、
不破の関守の屋敷跡がある。
その屋敷跡にさまざまな石碑(歌碑・句碑等)が建っている。
説明あるように、平安時代以降は、
文芸作品や紀行文に不破の関が記され、その痕跡として石碑である。


(不破の関守屋敷跡が小公園になっており、歌碑や句碑等が立ち並んでいる。)

いくつか残っている中で
ボクに文字など読み取れる石碑を一つ紹介しておきたい。

・秋風や 藪も畑も 不破の関  芭蕉

と芭蕉が詠んだ句碑である。

あとはボクには読み取れない石碑ばかりであった。


(芭蕉句碑)


(文字も見えなくなっている石碑1)


(文字も見えない石碑2)


(かろうじて読める石碑3)

(*)帰宅後調べた所、
(石碑1)みなうつるちかづきの顔月見かな 支考
(石碑2)大友の王子の王に点うちてつふす玉子のふわふわの関 
      蜀山人の狂歌
(石碑3)名月や山も谺に起きとをし 廬元坊
であることが分った。

不破の関跡の前にある中山道は二股に分かれており、
その間に道標が建っている。
「左 旧中仙道」 「右 中仙道 大谷吉隆墓 十丁」
と刻まれている。
左は下り坂になっており、右は登り坂で、
その上り坂を30mも行くと、右手に不破の関資料館がある。
資料館を見学して不破の関がどれほどのスケールで
あったかを頭に入れておきたい。


(二股に分かれる道路、右奥に見える東屋の右手が資料館)


(左が旧中山道)


(資料館の案内)

旧中山道に戻り、坂を下る。
下りきった所に藤古川が流れており、
不破の関の西限と言われている。
その手前に関が原町の説明板が建っており、
西城門(にしきもん)が在ったとされる。
この辺り道路の真ん中に融雪用の水路があり、
積ご近所の方に聞くとやはり豪雪地帯であるらしい。
雪の時は地下水をまいて雪を溶かす融雪装置がある。
(積雪の多い新潟県の長岡で見たことがある)

坂を下りきると、藤古川に掛かる橋がある。


(下り坂、下りきったところが藤古川)


(藤古川に掛かる橋)







西首塚と福島正則陣跡(旧中山道を歩く 278)

2011年11月08日 10時37分30秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(脇本陣跡)


(365号線の交差点)


(西首塚)

(関が原宿5)
中山道を歩き始めてから、今日で43日目。(2011年10月18日)
天候晴れ、気温24℃の予想。
東京発6:26新幹線で名古屋。
JR名古屋発8:39→JR大垣→JR関が原着9:27。

JR関ヶ原駅を出て、中山道となる国道21号線を右折する。
まもなく脇本陣跡があり、385号線と交差する信号に出る。
ここを右折すると北陸へ延びる北国街道である。

横断歩道でこの信号を渡り、中山道を直進する。
すこし行くと右手に戦国武将の旗指物がはためいている所があり、
近づくと西首塚とある。
奥のほうに小さな祠が二つ並んでおり、
馬頭観音や千手観音が祀ってある。
その中央が塚になっており、大樹の下に首塚はある。
しかし塚の上に建っている石柱には、
「関が原合戦戦死者胴塚」と刻まれている。

関が原教育委員会の説明によれば、
(戦死者数千の首級を葬った塚である。)としている。
また、塚の上には小さな五輪塔が沢山並んでいる。


(千手観音と馬頭観音の二つの祠)


(少し見難いが戦死者胴塚とある)


(塚の上の数多く残るの五輪塔)

そこから少し先に国道21号線から分かれて左に入る道がある。
この道が中山道ではなく、少し先に(松尾)の信号があるところに、
左折道路があり、入り口に「是より中山道 関が原町」と書かれた
標柱があるところで左折するのが正しい。


(左折する道があるがここは曲がらない)


(国道21号線上の「松尾」の信号を左折)


(信号脇の左折道路の左手に「是より中山道」の標柱がある)


)「中山道」の案内標柱)

やがて、不破の関の東城門(ひがしきもん)跡があり、
関が原町の説明によれば、
(東城門は日の出とともに開門され、
日の入りとともに閉門された。
また奈良の都での事変や天皇の崩御など、
国家的大事変が起きると、
中央政府の指令によって固関が行われ、
すべての通行が禁止された。)とある。


(不破の関東側の大木戸ー東城門ー跡、と福島正則陣跡の案内)

ここに福島正則陣跡100mの案内があるので、
寄り道をすることにする。
そこは福島正則陣跡であると同時に、
春日神社にもなっている。
神社前には、その昔月見の名所であった場所に「月見の宮大杉」と呼ばれ、
樹齢800年余と推定される、
関が原町指定天然記念物の杉の大木がある。

ここに、関が原の合戦の折、福島正則が陣を敷いた場所である。
福島正則については、
(福島正則は関が原の合戦の折、先鋒となったが、
一番鉄砲の功名を井伊直政隊に横取りされるや、
正則自ら鉄砲隊を指揮して、
宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、
一進一退の攻防戦が続きました。)(関が原町)とある。
秀吉の出自が武士ではないので、
その家来たちは賢いとはいえない人々が多く、
粗野で直情径行にあり、腕力だけはひけを取らない。
福島正則も、おだてられれば、
すぐ敵の味方についてしまうような人だったに違いない。

中山道に戻り先に進むと、左手に白壁の美しい建物が見える。
不破の関である。


(福島正則陣跡への道)


(福島正則陣跡、月見の宮大杉)


(不破の関跡)









関が原決戦地跡,石田三成陣地跡と宇喜多秀家陣跡(旧中山道を歩く 277)

2011年11月04日 10時33分49秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(石田三成の旗印「大一大万大吉」)


(歴史民族資料館)


(関が原宿4)

歴史民族資料館を出ると向い側が、
徳川家康陣地であり、首実験場でもあった。
案内地図によって笹尾山の石田三成陣地に向かう。
小学校の高学年の一団とすれ違う。
郷土の歴史を学ぶ授業の一環であろう。
暑い中を礼儀正しく、元気良く「こんにちは!」と、
口々にボクに挨拶してすれ違っていく。

(関が原町へようこそ!)の意味が込められているように感じた。


(陣場野 徳川家康陣地)


(徳川家康陣地、ここで首改めをした)


(首実検の絵)

関が原町の案内に沿って進むと、
田圃・畑の真ん中に決戦地のぼり旗がひらめく場所がある。
近づくと(史跡 関が原古戦場 決戦地)の石碑が建っている。
のぼり旗は四本立っており、
二本は石田三成の大一大万大吉の紋所、残り二本は徳川の葵の紋所である。
この決戦地の先を左折して、石田三成陣地の笹尾山に向う。
笹尾山は少し高い所にあり、山の下は、今は駐車場になっている。
脇に茶店があり、駐車料金を貰っている。


(決戦地跡、向こう側の山の左手に笹尾山はある)


笹尾山を登る。
途中、山の斜面に頑丈な木柵が二重に造られており、
三成の用心深さが伺える。
三成はサムライでなく寺小姓だったようで、
そのお寺に秀吉が立ち寄った時、熱いと飲めないのを気遣って、
呑みやすい、ぬるいお茶を出したのが、
秀吉に認められ家来になったというエピソードがあるという。

秀吉が藤吉郎のころ、信長の草履を温めるため、
草履を懐に入れる気遣いをした話は有名である。
それと同じ気遣いをした三成を、
自分に重ね合わせたのであろうか、
自分と同じように仕事ができると判断したのであろうか?
自らの家来に取り立てている。


(笹尾山麓の駐車場)


(襲撃に備えた木の柵)


(防御柵)

余計なことを考えながら、笹尾山を登る。
やがて開けた場所に出て、石田三成ののぼり旗が翻っている場所に出る。
旗には石田三成陣地とある。
脇に展望台もあり、(関が原古戦場 石田三成陣地)の石碑もある。
ここは関が原が一望に出来る高台で、
小早川秀秋が東軍に寝返ったのを、
目の当たりに見ることが出来たであろうと思われる。


(三成陣所と展望台)


(石田三成陣所の石碑)


(三成陣所から一望できる関が原古戦場)

笹尾山を降りて、道路を南にとり、宇喜多秀家陣地に向う。
途中、島津義弘の陣地、小西行長の陣地を通り過ぎ、
右手奥まった所に入ると、
天満神社入り口の石碑があり、その奥へ入ると、
杉木立に囲まれて、天満神社境内に宇喜多秀家の陣地跡がある。

秀吉の五大老の一人、岡山の藩主 宇喜多秀家のお墓が、
ボクの住んでいる板橋区のお寺にある。
岡山の藩主のお墓が、何故東京都板橋区のお寺にあるのか、
気になるところである。

宇喜多秀家は関が原の罪で八丈島に流された。
秀家の妻は加賀藩 前田家の娘 豪姫で、
加賀藩江戸上屋敷は、今の東京大学、
下屋敷は中山道の第一の宿場町 板橋宿に隣接した22万坪を有していた。
前田家の娘 豪姫(秀家の妻)は八丈島に流された秀家を案じて、
定期的に仕送りをしていた。
秀家は八十三歳で亡くなったが、
明治になって恩赦により、子孫の家族が本土に戻ってきたとき、
東京板橋にあった加賀藩前田家の下屋敷跡地に約二万坪を与えられ、
農家として暮らし、その子孫が建てた秀家のお墓が板橋に残った。
そんな経緯である。


(天満神社の石碑、この奥に宇喜多秀家の陣所がある)


(静かな天満神社境内)


(秀家公陣所跡の碑)


(人気のない静かな神社境内の宇喜多秀家の陣所)


(静かな杉林を抜けてくる陣所)

宇喜多秀家陣跡を出ると、途中に不破の関土塁跡の遺跡がある。
関が原はこの先不破の関を通るが、
その北限に土塁を築き関所の役割を果たした。
その土塁の跡である。

中山道へ出て、JR関が原駅へ戻り、
大垣経由で名古屋駅に行き、新幹線で東京に戻る。
帰京したのは20:30であった。
歩いた距離歩数 4万歩=約24km。


(不破の関の土塁跡)




関が原の古戦場(旧中山道を歩く 276)

2011年11月01日 09時55分17秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(古戦橋)


(首塚の大ケヤキ)

(関が原宿3)
駅前の観光案内所のオジサンに地図を貰い、
首塚と徳川家康陣地と歴史館、笹尾山の石田三成陣地、
宇喜田秀家陣地の場所を概略聞いて出発する。
太陽の陽をさえぎるものも無い暑い暑い道を歩き始める。

まず、JRの跨線橋を渡る。
この跨線橋には「関が原古戦橋」と書いてある。
上手く洒落たなと感心しながら渡ると、
すぐ左手の森の中に、首洗いの井戸、東の首塚、
松平忠吉ならびに井伊直政陣跡がある。

関が原の合戦の先鋒と決められていた福島正則を出し抜いて、
井伊直政は、家康四男松平忠吉を伴い、
自慢の「赤備え(全身赤づくめの)」と称された精鋭を率いて抜け駆け発砲をした。
この発砲を機に合戦の火蓋は切られた。
時は午前八時。
こうして関が原は戦場のるつぼと化した。
(詳しくは。関が原歴史民族資料館で映像とともにご覧ください。)


(東首塚の入り口)


(首洗い井戸)


(東の首塚)


(茨原・松平忠吉・井伊直政陣所古跡とある)


(関が原古戦場・東首塚の石碑)


(首級墳碑)

首塚には大ケヤキが植えられ、石の垣根で囲まれている。
その左前に首洗いの井戸があり、右側に首級墳碑が建っている。
東首塚、首洗いの井戸に付いては、
それぞれ関が原町の説明板があるが、
首級墳碑についての説明がすべてを物語っているので、
その概要を次の通り記す。

(英傑なる徳川家康が東国において勢力を拡大したため、
石田三成は豊臣政権不利と見て旗を揚げた。
慶長五年(1600)九月両勢力はここ関が原において激突したが、
内応などの戦況の急変により、三成側は大敗を喫した。
家康は床几場において首実検をしたのち、
土地の人に、すべての首や遺骸を、東西二箇所に首塚を造り葬らせた。
東軍に敵対した、西軍将士に罪はないとは言えないが、
主君秀頼のために命を捧げたことに他ならず、
憎めるものではない。
故に、豊臣の危機に直面し犠牲になった者を葬ることは、
仁義に暑い心得のなし得ることであり、
まさに家康の教えが、今の世に太平をもたらしたと言えよう。
将来この首塚が、
丘や谷に変わり果てることの無いよう乞い願う者である。)(関が原町)

しかしよくよく見ると、入り口と思って入った所から見れば反対側に、
朱塗りの正規の入り口らしい門がある。
これは昭和になって造られたものらしい。


(朱塗りの門東首塚とある)

首塚を出て、豊臣や三成、島津家、宇喜多家の,
旗印があるのぼりの立ち並ぶ道路へ出る。
その旗の先に関が原町役場があり、歴史民族資料館がある。
歴史資料館はくどいようですが、是非見学して頂きたい。


(暦代武将の旗じるし)


(石田三成の旗印「大一大万大吉」)


(関が原町役場)


(歴史民族資料館)


(反対側から見た歴史民俗資料館)






関が原宿(旧中山道を歩く 275)

2011年10月26日 09時47分02秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(関が原宿東の若宮神社)

(関が原宿2)
若宮八幡神社にきて、時計を見るとお昼近いので、
日陰に腰を下ろして昼食にする。

胸の期待は、有名な関が原古戦場を午後から半日掛けて、
観光して廻ることである。
少し距離がありそうであるが、見たいのは東西の首塚、
徳川家康の本陣跡、歴史資料館、笹尾山の石田三成陣地、
宇喜田秀家陣跡など。

広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 関か原」の
中山道広重美術館の説明文によれば、
(石田三成率いる大阪方と徳川家康とが、
豊臣秀吉没後の覇権を争った地として著名なここ関が原は、
北国街道との分岐点でもある交通の要地でもあった。
関が原の戦いの史跡をはじめ、
絵のモチーフに富んでいるこの宿場の図として、
広重はあえてなのだろうか、
茶店ののどかな様子を選んだ。
提灯には「名ぶつさとうもち」、
看板には「そばぎり」「うんどん」とも記されている。
店内では、草履や笠、扇も売っているようである。
店先の縁台にはそれぞれ客が座っており、
一人は名物のさとう餅に、今まさに箸をつけるところである。
旅先での楽しみはこれに尽きるといった表情。
店の女性はお茶をお盆に載せて、
もう一人の客に注文を聞いている所だ。
季節は春、茶店の傍らの梅ノ木は花をつけている。)とある。

関が原という殺伐としたイメージの古戦場に対し、
いかにものどかな風景を描ききることで、
ゆるぎない平和を強調したのだろうか。


’広重描く浮世絵「木曽海道69次之内 関が原」)

関が原宿には若宮八幡神社が東西に二箇所あり、
今、ボクが昼食をとっている若宮八幡神社は、東のものである。
関が原宿は西の若宮八幡神社との間に挟まれている。
道路を西に進むと、味噌醤油の製造所であろう、
宿場らしい古い建物の壁に消えそうな文字で、
「たまり」と書かれている。

「たまり」とは名古屋でいう醤油のことである。
味噌を作り、その味噌の上に溜まる液、
つまり醤油のことを、「たまり」という。
今はどうか知らないが、ボクが子供の頃は、
醤油といえば「たまり醤油」が出てくる。
すし屋へ入って、「たまり醤油」をつけて食べられない人は、
「たまり」を区別して「江戸むらさき」といったように記憶している。
名古屋の人は「たまり」が当たり前になっているので、
寿司でも刺身でも「たまり」をつけて食べる。

見た目には、どろっとして、とんかつソースのようである。
味は塩辛そうに見えるが、意外に甘みがあり塩辛くない。
漬物にもかけていただく。

初めての人はちょっと抵抗がありそうである。


(「たまり」看板の跡が残る家)

旧中山道は国道21号線と合流していて、
若宮神社の前の通りを、先に進むとJR関が原駅に入る道がある。
その先に右手に屋根つきの門があり、
元脇本陣であったところである。
黒々と脇本陣と書かれた木札が門の左側に架かっている。
門前右側には、「至道無難禅師誕生地」の石碑が建っている。


(脇本陣跡、右側に「至道無難禅師誕生地」の石碑)

至道無難禅師(1603年~1676年)は、
(誰にでも分かるやさしい日本語で、
単刀直入に禅の核心を説いた人である。
愚堂国師の教えを受け、ついに臨済宗妙心寺派の高僧となり、
江戸において寺の建立や再建をし、
大名や世人から大変尊敬された。)(関が原町役場)とある。

江戸において寺の再建などしたとあるが、
東京で臨済宗妙心寺派というのは、まだ見たことがない。
どちらかというと真言宗豊山派が今のところ多く見られる。

さらに先に行くと365号線と交差する信号がある。
この道を右に行けば北国街道で、北陸金沢に行く。
信号手前には「返照山 円龍寺」と「真宗大谷派 宗徳寺」がある。
「円龍寺」の門前には「明治天皇御膳水」の石碑があり、
「宗徳寺」の境内には、「明治天皇関が原御小休所」の石碑がある。

明治天皇がご巡幸の折、宗徳寺でお休みになり、
円龍寺のお水を使ってお茶にされた。
(さもなくば、そのまま水を召し上がられた)
と言うことであろう。
宗徳寺の小休所もいかにもそれらしい休息所に見えた。

(*)御膳水=神に捧げる水のこと、
  転じてうやうやしい人に捧げる水をいう。

信号先には宿場らしい家屋が散見されるが、
先ほど通ってきたJR関が原駅に入る道に戻り、
駅に向うと、駅前に観光案内所があるので寄って、
関が原の案内地図を貰い古戦場を歩くことにする。


(365号線の信号、先に宿場らしい建物。右へ行けば北国街道)


(円龍寺の明治天皇御膳水の石碑)


(宗徳寺入り口)


(本堂脇の明治天皇御小休所の石碑と休憩場所)


(駅前の関が原古戦場の案内看板)