中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鳥居峠Ⅱ(旧中山道を歩く 168)

2009年05月30日 08時27分55秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(峠の茶屋2)


(鳥居峠の眺望所、神社への距離案内)

(鳥居峠2)
水場の後ろに案内看板があり、
(中山道鳥居峠
御岳山眺望所まで 180m
明治天皇駐蝉所石碑まで 200m
御嶽神社・御嶽遥拝所まで 600m)とある。

道路の先を見ると、今来た道の左脇に急坂を登る狭い道が見える。
やっとの思いで登ってきたボクには、とても600mも左上に登る勇気が無く、
進むべき道路は平坦な広いほうの道と勝手に決める。

とりあえず美味しい水をたらふく戴き、小用も済ませて山間の道を行く。
峠とあるからには、向こう側は下り道に違いない。
山と山の間を通り抜ける風が強く、帽子が吹き飛ばされそう。
峠を抜けると目の前がひらけて道路は、二つに分かれる。
さてどちらかと見渡すと、
左手に「熊除けの鐘を鳴らしてください」の看板が目に付いた。


(熊除けの鐘)

案内書に寄れば、熊よけの鐘がおいてあるので
「鳴らして進もう」とあったことを思い出した。
碓氷峠、和田峠で活躍した熊除けの鈴を持ってきたが、今回も役に立った。
鈴を忘れてきた人たちのために、大きな鈴がぶら提げてある。
子供が悪戯でもするように、カミサンと二人で交互に大きく鈴を鳴らす。
鈴は山にこだまして、もし熊がいればびっくりするほどだ。

その先は新緑に燃える栃の木の群生地があり、
「鳥居峠のトチノキ群」として木祖村の天然記念物に指定されている。
鳥居峠は中山道三大難所の一つに数えられているが、
碓氷峠の上り8.3kmが最もきつかった様に思う。次が和田峠であるが、
これは碓氷峠と比較して、上りは気にならなかったが、長い下りが大変で、
それらに比べると鳥居峠の登りは約2km、
下りも短く難所というほどのことは無かった。


(栃の木群生地の石塔)


(栃の木群)


(道路脇のお地蔵様)


(道路案内標識)


(御嶽神社の石柱)

話を戻して、さらに進むと案内標識が見え、
右薮原宿、左奈良井宿、正面丸山公園とある。
正面道路には石の鳥居、石柱があり、「御嶽神社」とある。
奥の神殿の左右には沢山の石造物群があり、

その左側に御嶽山遥拝所がある。
そこから上に見える山が御嶽山であろうか、雪を頂いた山が見える。
遥拝所の前に急な階段があるので丸山公園に向かって下りていく。


(御嶽山神社)


(御嶽山神社2)


(御嶽山神社3)


(御嶽山神社脇の石造群)


(神殿右横の石造群)


(神殿左横の石造群2)


(さらに左の 遥拝所)


(遥拝所から下る急階段)


(遥拝所から見た山、何山でしょうか?御嶽山?)

下りきったところが少し広場になっており、
右側に「義仲硯水」の案内看板が見える。
(昔、木曽義仲が平家打倒のため旗揚げして、北国へ攻め上がるとき、
鳥居峠の頂上で、戦勝祈願の願書をしたためるのに使った水と伝えられている。)と
「硯水の伝説」が残っている。
本来の硯水は、この場所より5~6m上に登ったところにある
水場であると案内があるので登ってみる。


(今の硯水/すずりみず)


(数メートル山上の本来の硯水)

「義仲硯水」の場所よりさらに一段下ったところに丸山公園はあり、
そこにはまた多くの石造物がある。

「木祖村史跡鳥居峠」「信濃十名所鳥居峠」

松尾芭蕉の句碑、

・木曽の栃(とち) うき世の人の 土産かな

・雲雀より うへにやすらう 嶺(とうげ)かな


(木祖村史跡鳥居峠の石碑)


(中央が「信濃十名所鳥居峠」右側が「雲雀より」の芭蕉の句碑、左は「嶺は今朝」の法眼の句碑)
 

(「木曽の栃」の芭蕉句碑)

さらに碑の頭部は欠けているが、雪月花の句碑で次の三句と推定されている。
・雪ならば 動きもしように 山桜
・染め上げし 山を見よとか 二度の月
・雪白し 世はほのぼのと あけの山


(頭が欠けた石碑が雪月花の三句の碑)

また法眼護物の句碑
・嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋

そして鳥居峠古戦場の碑は、
明治32年木曽村の有志によって建立された。戦国時代木曽氏が
甲斐の武田軍を迎え撃ったことや奈良井の「葬り沢」、
峠の様子が書かれていたようだ。


(古戦場の碑随分古ぼけて見える)

下りの急勾配の中山道を降りていくと、
林の間から山のふもとに広がる藪原宿が、
こじんまりと美しく見渡せる場所に出る。

この峠からが木祖村藪原宿である。


(下る途中に見える薮原宿)





鳥居峠(旧中山道を歩く 167)

2009年05月25日 06時49分43秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(鳥居峠への階段)

(奈良井宿5)
鎮(しずめ)神社を出て、街道を進むと右手先方に狭い階段が見える。
いよいよ旧中山道鳥居峠への上り口である。

道路はそのまま直進し右のほうへ大回りして登っていくが、
人が歩いた旧中山道はその道をショートカットして、急坂を登る。


(階段の先の草道)


(ガードレールの間から国道に合流する)


(道路はこの先半円を描いて左へ)

すぐに大回りしてきた道路に合流するが、
その道路は今度は左に半円を描くように曲がる。
車が坂道を行くには止むを得ない。
箱根の山や碓氷峠、日光のいろは坂のようなものである。

左に折れると道路は二又になっており、間に案内看板が立っていて、
右手の道路の4~50m先にもう一つの案内看板が立っているのが見える。
案内に沿って進めば、右手に見える案内看板の横をさらに登れとある。


(二股の間にある案内看板、右手奥にもう一つの案内看板が見える)


(案内看板)


(右奥に見えた看板と石畳)

石畳のひなびた道は旧街道にふさわしいが、
その勾配を見ると行き先が思いやられる。
とても急だからである。
鳥居峠が、中山道の三大難所の一つといわれる所以(ゆえん)が理解できる坂道だ。
しばらく歩いて道路標識を見るとまだ35メートルしか進んでいない。
山登りなんてこんなものだ。ボクには300mも歩いた気分である。


(急勾配の石畳)


(谷を越え)


(山道を越え進む)

覚悟を決めて登り始めると、左へ降りる道に出るが、奈良井への近道とある。
ここまで来てまた奈良井に戻ってはたまらないと、
さらに登ると展望台と書いてある場所に出る。

左上のほうに東屋らしきものが見えるので、疲れた足を引きずりながら進む。
南の方の梢の上のはるか先に雪を頂いた山が見える。
とても厳かで美しい。
山のことには特にうといボクには山の名前さえわからない。


(展望台)


(展望台から見えた山、ご存知の方山の名前を教えてください)

展望台を降りてもと来た道に戻りさらに登ったり下ったり、
谷間の木橋を二回ほど渡ったりして、しばらくすると、
休憩所のような山小屋がみえる。近づくと「中の茶屋」とある。

(菊池寛の「恩讐の彼方に」の一舞台となった場所で、
ここから遠く「青の洞門」へと舞台は移っていく。)と、
奈良井宿観光協会の手で、小屋の中に掲示されている。


(何度か渡った木橋、手すりが腐って落ちている)


(奥に見える山小屋)


(中の茶屋)

その先に「本沢自然探勝園」の看板がある。
確かに新緑に包まれた美しい山道ではあるが、
上りの厳しさに負けて、とても公園とは思えない。
元気はつらつの、帰りには「抱っこして」の子供には公園に思えるであろうが、
間もなく後期高齢者入りのボクのようなジジイには、
地獄の一歩手前――煉獄――への道とでも言いたい所。

(天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、
大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
このとき武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、
戦死者を葬った場所として、
「葬り沢(ほうむりさわ)」と呼ばれる。)(楢川村)とある。


(急坂を登る)

「葬り沢」をすぎて、最後の長い急坂を、
ヨイショヨイショと気持ちの上で掛声を掛けながら進むと、
前方が開け、山小屋「峠の茶屋」がある。
小屋の右横にはとうとうと流れる水場があり、
左横には三箇所のお手洗いもある。
峠を登り初めておよそ二時間。小屋の扉を開くと総ヒノキ造りで、
綺麗に掃除が行き届いた板張りは、
中央に通路左右に十畳間ほどの仕切りなしの部屋がある。
お手洗いも綺麗に掃除されており、豊富な水量を利用した水洗であるが、
下水道があるわけでなく、必要量以上に水を流すということではない。

ここから先が木祖村藪原に入る。


(峠の茶屋、右手に水場が)




木曽大橋、高札場、鎮神社(旧中山道を歩く 166)

2009年05月23日 09時26分58秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(駅横の奈良井宿の看板)

(奈良井宿4)
日本橋を出発してから28日目。
2009年5月14日(木)快晴 [最高気温 東京20℃の予想。奈良井16℃の予想。]
あずさ1号新宿発AM7:00~塩尻着9:30.
駅前の地域振興バス(どこまで乗っても100円)
10:00発~奈良井駅前着10:55.


(JR奈良井駅)

奈良井駅前で下車する。快晴で気温も低く歩くには快適。
駅前には、ジャージ姿の男子中学生を沢山見かける。
ある人は腰を下ろしてスケッチブック筆を走らせ、
ある者は立ったまま筆を立てて、構図を取る構えを見せている。
今日は写生会のようで、先生方も見かける。

伝統的建造物群に囲まれた奈良井の街並みには、絵になる材料がいくらでもある。
プロの画家や文人の中には、一生この町で過ごす方もいるほどである。
奈良井宿の街並みが朝の光の中に輝いて、前回 訪問したときと違った美しさを感じた。

今日は中山道三大難所の一つ「鳥居峠」を越える予定で、
本来ならバスの終点「権兵衛橋」停留所で降りて、
高札場を過ぎ、鎮(しずめ)神社、歴史民族博物館を観て、鳥居峠に入るところである。

しかし今日は、持病を持つボクの身を案じて、
この三大難所だけは同行するというカミサンが一緒である。
せっかく一緒に来たカミサンに、奈良井宿の美しい伝統的建造物群を見せてやりたい。
それでJR奈良井駅のまえでバスを降りることにし、古い町並みを歩くことにした。


(木曽の大橋)

建造物群を観る前に、前回ボクが見落とした「木曽の大橋」を訪ねる。
JR奈良井駅の先で斜め左に入る道路を進み、
JRをガードでくぐると目の前が開けて、芝生の公園に出る。
公園を横切った先に「木曽の大橋」が見える。
ここでも沢山の女子中学生が、写生をしていた。
すがすがしいのは、この年頃の子供たちは変に色気づいて、
普通挨拶などしないものなのに、
男子も女子も通りかかった人にはきちんと挨拶をすることだ。

紳士淑女の第一の用件は、きちんと挨拶が出来ることである。

先に挨拶をされるようでは、
ボク自身、紳士としての資格が無いようなものだから、
彼らに負けず先手を打って先に挨拶をする。
写生の手を止めている人に、
「この木曽の大橋はどこから見ると一番綺麗に見えますか?」と質問すると、
立ち上がってきて、橋の右側に行き
「ここからです」
という。その写真をご覧ください。


(女子生徒が教えてくれた大橋の美しいアングル)

太鼓型の木曽の大橋」は、樹齢300年以上の木曽ヒノキで造られた
日本一幅の広い木橋である。
幅がわかる写真が無いのが残念、是非現地にお出かけの上お確かめください。
(余計なことであるが、ヒノキは年に一ミリしか年輪が刻まれず、
材木として利用できるのは樹齢100年。そのヒノキは一本百万円するという。)


(重要伝統的建造物群)


(重要伝統的建造物群2)

旧中山道に戻り、重要伝統的建造物群を観ながら、カミサンに説明して歩く。
「旧中山道の杉並木」「八幡宮」「二百地蔵」や枡形、
大宝寺の「マリや地蔵」「奈良井義高公の墓」「櫛問屋の中村邸」「上問屋の手塚家」など。
(以上「旧中山道を歩く163~165」参照願います。)

前回見落とした「徳利屋」の前の説明には、
(江戸300年、木曽街道は日本の二大幹線道路の一つとして、大いに繁栄しました。
中でもこの奈良井宿は街道中最も大きい宿場として、
諸国からの諸人往来のため大きな役割を果たして来ました。
奈良井にはその大宿であったことの代名詞として、
「奈良井千軒」という言葉が残っています。
徳利屋はこの奈良井宿のほぼ中央に位置し、七間間口という往還構えで、
しかも総二階という大きな旅籠でした。
旅籠や経営の歴史も古く、徳利の縁起に因んで屋号を延宝三年(1675)に
「徳利屋」と改めてからでも300年になります。――後略――)
長々とこの倍以上の長さで文面はつづくが、
つまり、江戸時代から300年以上の歴史ある旅館を営んできた由緒ある建物らしい。
ことに文人墨客の多くが宿泊し、中でも幸田露伴、坪内逍遥、
島崎藤村等もここに泊ったようである。


(徳利屋)

奈良井宿のはずれに古ぼけた高札場が、そして鎮(しずめ)神社、楢川歴史民族資料館がある。
高札場に掲げられた高札の文字はほとんど読めず、
読めないほど古いものかと思ったが、
説明によれば、昭和48年に復元されたものである。
高札というのは、各村各宿場に設置され、幕府の定めた決まりなどを周知徹底させる目的で、
掟、条目、禁制などを板に書き掲示していた場所で、
主として名主(関東では名主そのほかでは庄屋)が管理した。
高札前では、旅人は立ち止まり、笠など被り物を取って見たし、
文字の読めないものには読み聞かせたという。
また宿場には、宿場から宿場へ荷物の継ぎ立て駄賃なども掲げた。


(高札場その奥に鎮神社が見える)


(高札場とその奥に見える水場)

高札場の横には水場が設けられており、旅人の渇きを癒したに違いない。
奈良井と言わず、信濃、木曽(長野県)に入ってからは、
街道の脇に沢山の水場が設けられており、
飲料にして問題は無く、ペットボトルの水よりミネラル分が多いのか水温の関係か、
とても美味しく頂いた。

高札場の隣には、赤い鳥居があり「鎮(しずめ)神社」とある。
(奈良井の氏神で、寿永から文治(12世紀後期)のころ、中原兼遠が鳥居峠に建立。
天正年間(1573~92)にいたり、奈良井氏が現在地に移したと伝えられる。
また、元和四年(1618)に、疫病の流行を鎮めるため、
下総の香取神宮を勧請したことから「鎮神社」と呼ばれるという。
本殿は寛文四年(1664)の建築で、楢川村指定文化財、社叢(しゃそう=神社の森)は、
楢川村指定天然記念物)(楢川村)とある。


(鎮神社の鳥居)


(1664年建築の本殿)

神社の南側に歴史民族資料館があるので歴史に興味のある方はぜひ観覧をお勧めします。
資料館を出て街道を進むと、右側に登る階段があり、

鳥居峠を目指す旧中山道の上り口である。


(鳥居峠入り口の階段が旧道)