中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

安楽寺(旧中山道を歩く 78)

2005年12月15日 19時48分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(安楽寺の入り口)

(本堂)


(倉賀野宿7)
倉賀野神社をあとに旧中山道へ出て左折、約200メートル先の
右側、信号の手前に「安楽寺」がある。
この寺は天平時代の創建と伝えられ、将棋の形をした板碑があることで知られる。
また、将軍地蔵、二十二夜堂、本堂裏山には横穴式石室古墳がある。

(将棋の形をした板碑)

安楽寺にある板碑は、
(将棋の駒形をした天引石に梵字で、阿弥陀三尊に天蓋、
花瓶がつけられている。銘文や年号もあったが、
残念ながら石の風化剥落があって正確な年代は不明であるが、
全体の造りや梵字の彫り方などから南北朝(1300年代)を
下るものでないと思われる。
板碑は「板仏」または「平仏」ともいい、正しくは「板石
塔婆」といい、板状の石で作った卒塔婆のことである。
板碑は鎌倉時代中ごろから室町時代にかけて多く創られた。
緑泥片岩による板碑の多い当地方において特殊な板碑といえる。
砂岩製のこの種の板碑は、県下に約九基あるが、この安楽寺の
異形板碑は中でも大きく立派なものである。)
     (高崎市教育委員会)

将軍地蔵は地蔵尊としては、身に鎧兜をつけた珍しいものです。
脇本陣家の須賀一族の祖先が建立したものらしい。

(鎧を着けた地蔵尊)

(二十二夜堂)

二十二夜堂(観音堂)は
(当山第四十八世亮田(りょうでん)上人が、
住職在職中、吾妻郡沢渡温泉在、浄土宗、宗本寺の哲誉上人と
国定忠治一家の代貸、空っ風の長四郎(小山の長四郎)とが、
奇遇し哲誉上人から長四郎が「幻の火伏せの名号」の巻物
一巻を授与されたところである。)(五十一世住職 亮仁)

(本堂とつながっている古墳)

安楽寺古墳は、横穴式石室の古墳で本堂につながっており、
面白いつくりで、群馬県指定文化財になっている。
この石室には三方の壁面に七体の石仏が彫られており、
十二年に一度「巳年」に開帳される。平成十三年に
百五回の開帳が行われ、次回は平成二十五年に開帳される。

安楽寺を過ぎたあたりに上の木戸があったところで、
倉賀野宿はここまでであった。

その先の道路の右側に、旧中山道らしい松並木が続く。
昔の松並木ではなく、新たに植えられたもので、木がまだ若いが、
それでも旧中山道の面影をとどめている。


(松並木)

このあたり左手奥に小鶴巻古墳、大鶴巻古墳があるが、
少し奥まっているので通過する。
松並木が終わるあたりには、左側に「かんら信用金庫」があり、
その先「ガスト」を左折すると正面に、
「浅間山古墳」があるので寄ってみよう。
一目で前方後円墳であることが良くわかる。

(浅間山古墳)

(別の角度から見た古墳)

文部科学省、高崎市教育委員会によると、
埋葬者については、伝説なども無く不明であるが、典型的な前方後円墳であるという。

この辺りから高崎宿に入る。



良寛の碑と庚申塚(旧中山道を歩く 77)

2005年12月10日 14時58分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(飯塚久敏と良寛の碑)


(倉賀野宿6)
この倉賀野神社には、漂白の文人飯塚久敏と良寛の碑と庚申塔群がある。
飯塚久敏は幕末の倉賀野宿出身の文人。

若くして江戸の国学者橘守部に師事し、
歌学、地誌学に通じ多くの著作を残した。
中でも良寛の伝記物語「橘物語」(天保14年・1843)は良寛没後12年に成ったもので、
世にある良寛伝の中で嚆矢とされる。
本殿裏に建つ石碑には、表側に

「いまはむかしえちごの国に良寛という禅師ありけり・・・」という

『橘物語』の書き出し部分が、
また裏側には久敏起草の本神社修復寄付帳文が刻まれている。
おもに甲信越地方に出て広く活躍しながらも、地元では長く
「埋もれた文人」であった久敏を顕彰するため、
平成七年に建立された。

久敏が残した歌を紹介しておく、

・伊香保路のぬまのあやめもわかぬ夜に
      あらわれいでてとぶほたるかな

・たちいでてかへり見すればふるさとの
      うごかぬ山もとほざかりつつ

・よろこびのいろをおもわにあらわして
      日頃のうさをかたる夜はかな 


(庚申塚。古いものは文化13年(1816)のものもある。白い立て看板の左)

この石碑の右横に庚申塔が沢山並んでいる。

庚申というのは、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が組み合わさったもので、
他の干支と同様に60日に一度づつめぐってくる。
その庚申の日には、人の体の中に住む「三尺(さんし)の虫」が
睡眠中に体から抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を報告するという言い伝えがあり、
一晩中眠らなければその虫が体から抜け出さないので、人々は徹夜をしたという。

中国の道教の思想に発しているといわれ、江戸時代には全国的に
庶民の間に広まり、その日には庚申塔のお参りをして、
当番の家に集まりめいめい持ち寄ったご馳走をいただき、
談笑して夜を過ごした。

江戸の川柳に
「庚申はせざるをいれて四猿なり」という。

見ざる、言わざる、聞かざる、に「せざる」を加えて四猿という。
つまり庚申の夜は謹んで徹夜することから、
夫婦の仲も遠慮(せざる)しなければいけないというもの。

川柳はさらに

「庚申をうるさく思う新世帯」

というのもおおらかでほほえましい。
(最近下ネタが多いが、この話題は古今東西に渡って、
限りない興味がある事柄ですので、お許しを願います。)



飯盛り女の心意気(旧中山道を歩く 76)

2005年12月06日 14時57分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(冠稲荷神社)


(倉賀野宿5)
倉賀野神社の左奥に「お稲荷さん」の赤い鳥居が目に付く。
鳥居並びにある石玉垣には倉賀野宿にいた飯盛り女の名が刻まれている。
変体仮名でボクの知識内で読むと

・三國屋内 さね、・玉屋内 かさ、
・丁字屋 きく、・木村屋内 さわ、
・玉屋内 やす、まつ、(別の石に名があり、玉屋には上記「かさ」と三名いたことが分かる)
・新家内 むら、志満、・三浦屋内 つる、たけ、えの(3名)。
などなど・・・。往時、旅篭は32軒と記録にある。

(玉垣)

(玉垣に見える遊女の名 三國屋内 さね)

(玉垣に見える遊女の名 新屋内 むら、志満)

一軒につき二名までと定めた飯盛り女であるが、玉垣を見ると二名以上いた旅篭もあることが分かる。
二名としても64名、三人として96名。
一説によれば彼女らが寄進した金額は合計百両にも上るという。
十両盗むと死罪の時代、一両=4000文、長屋の家賃や大工の
日当が500文。飯盛り女は、一昼夜を五つに区切り、場所や女により異なるが、
一区切り平均50文の時代、寝ないで稼いで250文。
一人一両ずつ寄付したとしても、一両を稼ぐには寝ずに16日間が必要となる。
睡眠も必要なら小遣いも必要であろうから、相当日数必要であったに違いない。
飯盛り女の心意気が感じられる。

もとは倉賀野宿の太鼓橋の近く、冠稲荷にあった玉垣だが、
明治の末に神社合併で御祭神が倉賀野神社に合祀されたため、この境内に移築されてきた。
遠く越後などから奉公に出され、宿場の繁栄を陰で支えた女たち。
彼女たちが厚く信仰した商売繁盛のお稲荷様であった。