河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

ちょっといっぷく12

2022年03月03日 | よもやま話

禅宗の言葉に「一挨一拶」というのがあります。禅問答をすることによって相手の悟りの深さをはかることだそうです。
 弟子「仏とはいかなるものか?」
 師匠「野に咲く花なり(どこにでもあって、人の心を優しくさせるものだ)」
これは私流に解釈したもので、本来は、
 弟子「仏法とはいかん?」
 師匠「ひからびたクソ(どこにでもあるものだ)」

「挨=押す(心を開く)」、「拶=迫る(心に近づく)」の意味があるので、お互い心を開き、互いが近づいていくが「「一挨一拶」で、この四字熟語からうまれたのが「挨拶」という言葉です。

一日でする代表的な挨拶の【語源】と【英語】です。
◆おはよう
 【語源】お早いお着きでございます
 【英語】Good morning
◆こんにちは
 【語源】今日はご機嫌いかがですか
 【英語】Good afternoon
◆こんばんわ
 【語源】今晩はご機嫌いかがですか
 【英語】Good evening
◆さようなら
 【語源】さようならば(=それでは)これにてごきげんよろしう
 【英語】Good bye (God be with you=神と共にありますように)

おおよそ世界共通に「安否をたずねる、祈る」が挨拶の基本ですが、日本語の「おはよう」はちょっと変わっています。
実は、歌舞伎から生まれた言葉なのです。朝早くから準備をしていた裏方さんや、見習いの役者さんが、後から来た上司に「お早いお着きでございます」と言ったのが始まりです。
芸能人の挨拶が、一日中「おはようございます」、「おはよう」なのはその名残です。

新婚旅行でハワイに行ったときのことです。、朝、ホテルのジャングルのような庭を散歩していた。70センチほどの小川があって飛び渡ろうとした時、ホテルの従業員が、
「あぶないで!」
「この外人、大阪弁しゃべるんや!」と思ったが、後で気付いた。
「Have a nice day!」

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その二十 戦国 ―― 六

2022年03月03日 | 歴史

 婆さんが亡くなって四十九日までのお勤め(毎夜、縁者が集まってお経をあげる)の時の話しである。読経が終わると、お茶が出てきて歓談になる。誰かが「骨納めはどこへ行ったんや?」と父にたずねた。

 「京都や一心寺(天王寺)へ行くのはたいそうやさかいに、太子の西方院にしたわ」

 それから話題は太子の話になっていった。たばこ屋のおっちゃんが春やんにたずねた。

 「竹ノ内街道と太子街道(喜志から太子へ行く道)の別れ道あたりを六枚橋というけど、六つも橋があったんかいな?」

 「六つもあるかいな。橋は農協の横の細い川に一つ架かっていただけや」

 「ほな、なんで六枚橋というねん?」

 「板を六枚並べてたから六枚橋や!」

 「なんや、単純な話なんやなあ」

 「単純やあるかい! 南無阿弥陀仏の六字の名号、三途の川の渡し賃の六文、墓にある六地蔵、大峰山に参った時に唱える六根清浄やら、には深い意味があるんや!」

 「ほんまやなあ、思案六方逃げるが勝ち ちゅうのもあるなあ」

 「そら、おいちょカブやがな。しかしなあ、六で思い出したが、昔、あの六枚橋をものすごい人が通らはったんや」

 みんな興味津々の顔つきになってきた。オ父ンがたずねた。

 「誰やねん?」

 「聞きたいか?」

 「そらそやろ!」

 「のどが渇いた!」

 「おい、ビール持ってきて!」

 オ母ンが持ってきたビールを飲みながら、春やんが話し始めた。

 ――時は慶長19年(1614)、錦に染まる秋の暮れ、六根清浄唱えつつ、葛城山より下りてきた三人の山伏(やまぶし=修験道の修行者)。六枚橋にさしかかり、天を仰いで何やら思案げ。そのうち呪文を唱えだし・・・、 

 「高まが原に神すまります・・臨兵闘者皆陣裂在前・・観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・ナーマクサーマンダー バーサラナン・・・」 

 唱え終わると、一番前にいた主人らしき男が、腰にたずさえていた草鞋(わらじ)の替えを空に放りなげた。くるっくるっ、くるっと回転して地面に落ち、草鞋のつま先は左を向いている。 

 「おお、そうか。父上の教え通り、思案六方逃げるが勝ちの法則。右の竹ノ内街道は敵の隠密が多くいる故に、左の喜志の方へ行けということか・・・」

 そない言うて、喜志の方へと足を向けた。このお方こそ――。 

 「誰やねん?」

 「聞きたいか?」

 「そらそやろ!」

 「のどが渇いた!」

 「おい、ビールもう一本持ってきて!」

       

 ――このお方こそ、「天下第一のつわもの」と呼ばれた真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村や!

 関ケ原の合戦で豊臣方についたがために高野山のふもと九度山に追放されて、十四年にわたる謹慎生活。そこへ「故あって徳川家康と一戦交えんがため、なにとぞ加勢少なき大坂方をお助けください」と、大阪城奉行の大野治長(はるなが)がじきじきにスカウトにきた。

 幸村は即座に「父の代より豊臣の御恩は片時も忘れたことはござりませぬ。この度の加勢にて幾万分の一にも報いたてまつります」と返答した。天へ昇るように喜んだ大野治長、「それではこれを支度金に」と置いていった契約金が、

黄金二百枚と銀三十貫目」。今の金に直すと7億5千万円や!

 すぐにでも大阪城へと思ったんやが、この時の紀州の殿様は徳川方の浅井長晟(ながもり)。「幸村に不穏な動きがあれば、すぐに知らせよ」と村人にお触れをだしてる。黙って九度山を脱出したのでは村人に迷惑がかかる。

 そこで幸村は、村人と相談をして一計を案じた。

 「村のみんなと大宴会をして、みなが酔って寝ている間に九度山を脱出する。村のみなは、わし(幸村)にだまされたことにしておけばよい」

 村人からすると、酒飲んで、酔うて寝てたらええんやから楽なもんや。家来八十名をいくつかのグループに分け、紀州街道、西高野街道、中高野街道、東高野街道、大和街道を行く者に分散した。

 幸村自身は家来二人と山伏姿になり、紀見峠から金剛、葛城の尾根を通って、やって来たんが太子の六枚橋や。

 

 さあ、六枚橋から喜志へ向かった幸村一行、その晩は川面の宿屋に泊り、また一計を案じた。

 「石川を舟で下って大和川に入り、そのまま大阪城の堀まで行けばよい。人目にふれないし、おまけに楽ちんや」

 宿屋の主人に宿賃をはずんで舟の手配をしてもらう。

 次の朝、山伏が舟に乗ってるのはおかしいので、船頭姿になって舟に乗り込んだ。

 川面の船頭が「ほな出しまっせ」の一声で、竿を一突きすると、あっという間に舟は流心に入る。今よりもっと水量があったので瀞峡(奈良県十津川村)の川下りみたいなもんや。小一時間もすると柏原や。大和川の付け替え前、ここからは川が三つに別れている。舟はそのうちの一番西寄りの平野川に入る。この川の水を堀に引き込んでいるのが大阪城やから、あっという間に城に到着した。

 幸村が船頭に、

 「かたじけのうござった。船賃はいかほどじゃ?」

 このとき、ふところから財布をだそうとする幸村の腰に差している脇差し(小刀)を、船頭が見た。刀の柄(つか)に目貫(めぬき)という留め金があって、それに飾り物がしてある。真田の家紋の六文銭や!

 船頭これ見てびっくりしよった。関ケ原の合戦で、徳川秀忠の大軍を信州上田城で足止めくらわしたという評判を聞いていたので、この船頭、

 「天下第一のつわものを舟に乗せたというだけで、鼻が高こおます。六文でけっこうです!」

 「なんと六文。それでよいのか・・・。六枚じゃのう?」

 「へえ!」

 真田幸村が財布から金を取り出し、船頭の手に乗せた。

 黄金六枚!

 黄金一枚は金10両で、1両は約30万円やから、1800万円や!―― 

 「春やん、その船頭の子孫というのは川面にいるんかいな?」

 「そらいるやろ」

 「誰やねん?」

 「聞きたいか?」

 「そらそやろ!」

 「のどが渇いた!」

 「おい、ビールもう一本持ってきて!」 

【補筆】

 幸村の九度山追放に付き従っていった重臣は16名で、ほかに妻子を連れて行ったため、侍女や小者らも含めて総勢は80名くらい。父昌幸は三年前に亡くなっていますが、九度山を脱出する時に「それなら、自分の息子も甥も連れていってほしい」と言う希望者が40名いました。

 春やんの言う通り、出来るだけ小人数にして、数か所の道に分散しました。

 家康の事績を記した『徳川実紀』には、10月9日の明け方に、九度山を出た幸村一行は、紀ノ川を渡り、橋本から紀見峠を越えて河内国に入り、翌日の10日午前10時頃に大坂城入城を果たしたとあります。石川の水運を利用すれば可能な時間です。

 この後は、大坂冬の陣、夏の陣の活躍となります。「幸村」という名は、英雄視される中でつけられたもので、本来は「信繁」ですが、ここでは幸村にしました。

※古地図は『六か国図』 国会図書館デジタルより 加工

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