春やんが話してくれたことではないが、春やんが残してくれた覚書帖のメモを参考にして創ったものである。
スリの正吉と別れた後、ぜひとも古市の番所へおいでくださいませと、古市の番所預かり役の赤井丹波守が言うので、その晩は、丹波守の館に泊めてもらった。酒肴が出て話をしているとき、障子を突き破って風車がシュルシュル、パツーンと床の間の柱に突き刺さった。
ご老公が目で促すと、助さんが「ハハ」と障子を開けた。外には風車の弥七がひざまづいている。
「ご老公一大事でございます」
「どうした、弥七!」
「大阪城が賊に奪われやした」
「なに大阪城が! どういうことじゃ?」
弥吉の話すことには、――堺の百舌(もず)生まれの権太という男が大坂に奉公に出て、軍学者の楠木正辰の塾に入り楠流兵法を学んでいた。やがて才能を見込まれて正辰の娘と結婚。その後、あろうことか、師匠であり義理の父でもある正辰を殺し、家を奪って百舌桑堂という軍学塾を開き、自らも風珍と名を改めた。教え方がうまかったのか、関が原の戦いや大坂の役で職を失った浪人たちの子孫を中心に3,000人もの門下生が集まる。そして今日、その風珍と塾頭数名が「御聖堂の歪みを正すべし」と門下生をあおり、決起して大阪城を襲撃して略奪。女、子どもをみさかいなく斬り倒し、あげくは町に火を放ちましてございますと――。
「なんとも無謀なふるまい。先の戦で大阪城は外堀を埋められ、そのうえ、昨年の落雷で天守は焼け落ちはだか同然、そのすきを狙ったのであろう。立ち向かうにしても大坂城代、定番、町奉行の与力、同心を集めて300人に満たぬのじゃから無理はなかろう」
そう言ってご老公、机に向かい筆をとって何通かの手紙をしたためた。
ご老公、書き終わると皆の者をかっと見据えて、
「風珍とやらの所業、この光圀はけっしてゆるしませんぞ。とはいえ、事を荒げては風珍ら不逞の輩を増長させるだけ。まずここはこの老いぼれにお任せくださり、一切の手出しはなさらぬようにと、江戸の綱吉様と老中の土屋政直に。次に御三家紀州の徳川綱教殿には、風珍に同調する者が出たときのために、岸和田藩の岡部行隆とともに大阪城を5000の兵で取り囲んでくださるようにと早飛脚を出してくだされ。それと、近辺の郡代、代官には避難民の受け入れに怠りなきようにとの知らせを。この征伐は敵味方ともに誰一人として命を落とすことがないように進めますぞ!」
「ハハーと、赤井丹波守は家来を集め、手はずを申し付けた。それからご老公、
「ここは上様に近い譜代の大名で事を収めたいので、弥七にはすまぬが、高槻藩、淀藩、郡山藩、そして京都所司代の松平信興殿にこの書状を朝までに届けてくれぬか」
弥吉が「へい、かしこまりやした」と姿を消した。
格さんと助さんが「して、私たちはいかがすれば?」
「大坂城代土岐頼殷(よりたか)および老中城番は大手町の奉行所にいるであろう、まずはそこで指図をし、その後は枚方まで行くことになりましょう。それまでは体を休めるがよい!」
かくして次の朝早く、ご老公一行は馬を借りて大手町の大坂奉行所へ馳せた。
ご老公のよみ通りに城代と城番が采配をしていた。夜半に俄雨があり、幸いにも火事は下火になったことを聞き、ほっとしている所へ家臣の者が、
「申し上げます、風珍一党は兵500を大阪城に残し、2500の兵は京街道を都に向かう様子でございます」
それを聞いたご老公、
「やはりそうか。はだか同然の大坂城を捕ったところでどうにもなりますまい。風珍らのねらいは京の都に上り、天皇をかつぎあげて時間を稼ぎ、全国の不満をもつ浪人が決起するのを待つという、大楠公の千早赤坂の合戦をまねたもの・・・。さて、風珍征伐にとりかかりましょうか」
そう言って、ご老公は机に向かい筆をとった。
「ご城代、ここに書いてあることを高札に書き、城の周りに立て、瓦版にもして騒ぎ立ててくだされ」
――百舌桑堂風珍に付き従う者らに告ぐ。大阪城は紀州、岸和田五千の兵で取り囲みそうろう。攻め込む前に逃げ落ちたき者は、京橋口に人道回廊を設けるが故に、そこを通り、町奉行所に名と風珍に加担せぬことを約束するのであれば、今後一切とがめはせぬ。また、生活困苦の輩は当座の金子を貸し与え、口入(職業斡旋)も致すゆえに即座に郷(さと)に帰られよ――。
「門下生の半数以上は町人、農民であろうし、浪人らも生活に困ってのためじゃ。これで、おさらく今日中にでも城は空になりましょう。紀州殿には、いずれ和歌山へまいりますと伝えておいてくだされ」
ハハーと城代は畏まり家来の者に指図をした。
「風珍らは馬の支度まではしておりますまい。2500の兵が徒歩(かち)で都へ向かうとすれば、今晩の泊りはおそらく枚方でしょう。それでは格さん、助さん、我々は枚方の宿へ先回りいたしますぞ」
※後半に to be continued