今は家中に時計があるが、昭和30年代は、一家に一つ柱時計があるだけだった。農家だったので、日が昇れば起き、陽が沈むまでに家に帰るで、生活がなりたっていた。子どもの帰宅時間も、「5時までに帰りなさい」ではなく、「どこかの家に灯がともったら帰れ」だった。帰らなければ、村中が、校区中が大騒ぎになった。それを知っているから、日暮れには必ず帰った。とりわけ日曜日は必ず帰った。宿題をすませて、6時にテレビをつけて『てなもんや三度笠』を見る。「あたり前田のクラッカー」で番組が終わると、30分ほど漫画を読む。7時からは『隠密剣士』が始まる。
隠密の秋草新太郎が忍者の霧の遁兵衛とともに、世の平和を乱す忍者集団を倒していくというドラマだ。その日は、用事できた春やんも一緒に視ていた。30分のドラマが終わると『ポパイ』が始まるのだが、「おっちゃん、隠密て、ほんまにいたんかなあ?」とたずねると、
「いたがな。喜志まで来てたがな」と話し始めた。
――二上山の東に竹ノ内という村がある。そこにやってきた二人の旅人。裳付衣(もつけころも)に首から袈裟(けさ)をつるした四十くらいの男。後ろに付き従うは、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)に菅笠(すげがさ)をかぶった町人風の男。名前を千里(ちり)という。
「お師匠様、ここが私の生まれ故郷の竹ノ内でございます」
「今晩は我が家にお泊りくださいませ」
「さようか。ならば甘えることにしよう」
その晩は千里の家に泊めてもらう。十月の名月のころ、師匠が縁側で月を眺めているうちに、何かを思いついたのか、筆に墨を付け、帳面に、
「大和の国に行脚(あんぎゃ)して、葛下(かつげ)の郡(こおり)竹の内という処は彼のちりが旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む」
と書きつけた。その時、竹藪の奥から綿弓〈綿をほぐす道具〉で綿を打つ音がビンビンビンビンビン・ビンビン・・・と聞こえてきた。しばらくすると音はやんだ。ウンとうなづき、帳面に一句、
「わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」
そう書き記すと弟子の千里を呼び、
「この句を見よ。琵琶(びわ)の弦は五本。五になくさむ」
「五二七九三六・・・、この暗号は危険の意味!」
「弓を持った敵がいる・危険・竹ノ内の奥に潜んでおけということじゃ。竹ノ内峠を越えて河内へ行き、西行法師の墓に詣でるのを楽しみにしていたが、叶わぬようになってしまったわい。忍びの者を放って調べさせよう」
さて、この俳句の師匠こそ、何を隠そう、「古池や蛙飛び込む水の音」で有名な松尾芭蕉や! しかし、それは仮りの名で公儀隠密の秋草新太郎。付き従う弟子の千里は伊賀流忍者の霧の遁兵衛。
東海、畿内の様子を調べてこいとの幕府の命を受け、東海道を下って伊勢神宮に参り、故郷、伊賀上野で前年に亡くなった母の墓参りをして、竹ノ内へやつてきた。
芭蕉といえば西行法師を神仏のように尊敬していた人。伊勢では西行谷という所へ行き「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」と詠んでいるし、竹ノ内の次には吉野の西行堂まで行っている人や。それが、竹ノ内峠を越えた河南町の広川寺にある西行法師の墓に参ってないのには、河内へは行けない事情があったんや。
すぐに忍びの者をつかいにやる。二、三日して報告がきた。
喜志の川面の浜は石川の水運を利用して、南河内の様々な産物が運ばれる所。これを管理していたのが木戸山にあった代官所や。忍びの者が代官所の屋根裏に潜んでいると、木綿問屋の白木屋丹左衛門、略して白丹が案内されてきた。やがて奥から出てきたのは代官の赤井丹後守(たんごのかみ)、赤丹や。
「白木屋、今日はなんの用じゃ」
「へい、今年も代官様のおかげをもちまして、多くの綿を仕入れることができました。つきましては、お礼にと」
風呂敷から菓子箱を重そうに取り出して、差し出す。赤丹が箱のふたを少し開け、黄金色を確かめると、にたりと笑い、
「綿を買占め、値をつり上げて高く売る。白木屋、そちも悪よのう」
「なにをおっしゃいます。お代官様ほどでは・・・」
「それはそうと白木屋、大坂城代の青山丹波守様から知らせがまいった。ご公儀が隠密をつかわしたようじゃ。すでに配下の者を見張りにやった。ご城代様にもよろしく頼むぞ」
「それはもうたんまりと」
「ワハ、ワハ、ワハハハハッ」
これで事の次第がはっきりとした。青丹と赤丹と白丹がグルになって大儲けをしてたんや。
すぐさま千里を江戸へ報告にやる。とはいえ、河内へ行けない芭蕉は、独りで寂しく吉野へ旅だったということや。
野ざらしを心に風のしむ身哉――
【補筆】
「松尾芭蕉の隠密(スパイ)説」は有名な話なので、簡単に理由を説明すると、
・芭蕉は忍者の里「伊賀」の出身
・忍者は俳諧師や僧侶などの姿で活動する
・1日でフルマラソンの距離を歩く健脚だった
ということです。
春やんの話は、芭蕉の最初の紀行文『野ざらし紀行』にあります。奈良県葛城市竹内に十日ほど滞在しています。しかし、西行法師大好きの芭蕉は西行の墓がある広川寺には来ていません。春やんの言うとおり、なにか事情があったとしか考えられません。やるせない気持ちであったに違いありません。竹ノ内のあと、一人で吉野の西行庵をおとずれます。その時の様子を次のように記しています(現代語訳しました)。
西行上人の草の庵(いおり)の跡は、奥の院より右に220mほど分け入り、芝刈りに通う細い道を通っていった、切り立った谷を隔てた所にあり、ありがたい気持ちになる。西行が歌に残した「とくとくの清水」は昔と変わらず、今もとくとくと雫(しずく)が落ちていた。
露とくとく心みに浮世すゝがばや
ちなみに、西行の歌とは、
とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな
(わずかに苔の岩間から落ちる清水ですら使い切るほどもない我が生活だ)
対する芭蕉の俳句は、様々な解釈ができます(季語は「露」)。
上の解釈にすると「尊敬する西行法師も使っていた聖なる水で身を清めたい」となるのですが、広川寺の西行墓に参れなかった悲しみを考えると、下の解釈が正しいと思います。
※木戸山の「代官所」は、正式には代官所ではなく、関所の役目も果たす準代官所的なものです。
※「隠密剣士」の写真は制作をしていた宣弘社のHPから借用しました。月光仮面・怪傑ハリマ王・豹の眼もこの会社の制作です。