「みんながちゃんと集まってるのに、なんで来えへんかったんや」
そう言うやいなや、コガキが私の頬っぺたを思い切りたたいた。
涙もでなかった。
クラスのみんなは「・・・!」。
ただ幸いだったのは、その時もその後も誰も私を非難しなかったこと。
たぶんその日は誰とも話さなかったように思う。話す気力もなかった。
一人で下校して、庭の片隅に積んである風呂柴の上に座ってぼんやりしていた。
前栽の樹々で庭は暗いのに、夕陽をうけた東の空はやけに明るかった。
そこへ秋日の中をふらふらと春やんが歩いてきた。私を見つけて、
「どないしたんや? えらい寂しそうやなあ」
「・・・」
「秋の日のヴィオロンのためいきの 身にしみてひたぶるにうら悲し・・というやつか」
春やんがわけのわからないことを言ったので、少しおかしかった。それで、その日あったことを春やんに話した。
「そうか。義はあっても不条理なことというのはようあるこっちゃ」
「ギ」も「フジョウリ」も何のことかわからなかったが、「思い通りにはならない」という意味だとなんとなくわかった。
今から百年前の、ちょうど今くらいの季節のこっちゃ。
西日を受けてまぶしいのか、目をしくしくさせて春やんが話し出した。
今にも江戸幕府が倒されようとしていた時[幕末]。
日本に貿易を求めてきた外国に対して幕府は次々と港を開いていった[開国]。
その一方で、日本を侵略しようとしている外国をやっつけなあかんという勢力がいた[攘夷]。
幕府はそんな勢力を捕まえては牢屋にいれていきよった[安政の大獄]。
攘夷派は、もはや幕府では日本はつぶれてしまう。天皇を大将にして外国をやっつけよやないかい[尊皇攘夷]と朝廷と仲良くなっていく。
幕府は、朝廷をないがしろにはしてません。朝廷と幕府が一つになって政治をしていきましょう[公武合体]。
幕府は、天皇にお仕えすることに勤めて朝廷を補佐します[勤王佐幕]と、のらりくらりとかわしていきよった。
これではらちがあかん。もはや幕府を武力で倒すしかない[倒幕・討幕]と長州という国が立ち上がった。
ほんでもって、しぶる孝明天皇を説き伏せて倒幕の約束をもらう。
そいでもって、文久3年(1863)旧暦8月13日に天皇自らが先頭に立って外国を打ち払う[攘夷親征]ために、大和の橿原神宮に祈願に行く[大和行幸]と決定した。
さあここがようわからんとこなんやが、外国を打ち払うということは、それに反対する幕府も倒すということになるんや。
ほんでもって、その祈願に行くということは倒幕の出陣をするということになるのや。
これを聞いて喜んだのが、京の都にいた大納言中山忠能の三男坊の中山忠光(18歳)をとりまく仲間や。
時期来たらば真っ先に帝の軍に参陣せんと勇みはやってた。そこへ大和行幸の知らせや。
8月14日、すぐさま大和行幸の先鋒として大和へ向かおうと連絡が流れる。
夜には38人の仲間が集まった。ほとんどが二十代の血気盛んな連中が皇軍御先鋒隊を名乗って京を立った。
淀川を舟で下って15日の昼前に大阪、16日の早朝に堺の港に着いた。
徒歩で狭山を経て、やって来たんが富田林や。
水郡善之助という大庄屋がいて、大将の中山忠光とは見知った仲。
楠公以来、富田林は尊皇の気風が強いところや。水郡善之助、その子栄太郎(13歳)ほか、河内の尊皇の志士20人と荷物運びの百姓数十人が加わった[天誅組河内勢]。
8月17日のまだ夜の明けやらぬころに水郡邸(上写真)を出発。河内長野の三日市から観心寺へ。大楠公の首塚に参拝して水越峠を越えて大和の五條に向かった。
五條の代官所を攻めようという計画や。五條は幕府が治める天領や。その代官所を攻めるということは幕府を攻めるということになる。
つまり、尊皇討幕のさきがけ(魁)や!
大和に出陣される天皇の軍にさきがけて幕府を討つ。天に代わって幕府を誅する。つまり天誅をくだすというわけや。
そこから、誰言うとなく天誅組という名が使われるようになっていった。
③につづく
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