http://hbol.jp/92734 より転載しました
どうしても会わなくてはいけなかった男――シリーズ【草の根保守の蠢動 特別編】
2016年05月20日 政治・経済
夜中に電話で叩き起こされる。
「加藤先生の件、残念ながらもう無理です。残念ですが、菅野さん、もうきっぱりとあきらめてください」
この種の電話をもらうのはこれで2回目だ。日本会議を追いかける本連載がスタートしたのは昨年2月。その間、大量の資料を漁り、たくさんの人にインタビューを重ねてきた。その中でどうしても会いたかった、いや、会わなければいけない人物が2人いた。
村上正邦と加藤紘一 ――この二人を避けて、日本会議は語れない。
村上正邦には会えた。長時間にわたるインタビューの一部を基にしたものが、本連載の番外編第5回だ。しかし、あれは村上さんから聞けた貴重な証言のごく一部でしかない。まだ文字化していない重要証言がいくつもある。しかし筆者はそれをどうしても文字化できなかった。その証言の内容があまりにも深すぎるのも理由としてはある。だが、何よりも、「村上さんから聞けたこの話は、村上さんとは全く正反対の立場から日本会議と対峙していた、加藤紘一の話と対比させないといけない。あの時代の空気はそうしなければわからない」という思いが強かったのだ。
加藤紘一へのアプローチ
それからというもの、あらゆる手を尽くして加藤紘一へのアプローチを続けた。しかし、自社さ連立政権樹立後、野中広務とともに自民党政権を支え続けた超重要人物にもかかわらず、加藤紘一の動向は一切つかめなかった。彼の地盤が娘の加藤鮎子に受け継がれ、彼自身は政界とのつながりを断っているのは無論承知していた。とはいえ「宏池会のプリンス」と呼ばれ、宮沢内閣崩壊後の自民党を支え続けた重要人物の動向が一切わからないのはなんとも不思議だった。そもそも彼の秘書だった人物ももはや四散している。なんとも不思議な光景だし、これほど、「自由民主党・保守本流の壊滅」を物語るものはないと思った。
だが、そんな感慨にふけっている暇はない。そもそもの目的は自民党の歴史を書くことでも、政界のゴシップを拾い集めることでもない。あくまでも日本会議が永田町でどのように活動するのかを浮き彫りにすることだ。そのためにはどうしても加藤紘一と会う必要がある。彼から証言を引き出し、村上さんの証言と対比させ、村山内閣から小泉内閣に至るまでのあの時代、日本会議は何をしてたのか、「一群の人々」は自由民主党にどのようにアプローチしたのかを浮き彫りにしなければならない。
しかし、依然、加藤紘一の動向はようとしてつかめない。自分でやれることはやりつくした。残る手段は、他人の手を煩わせることしかない。心苦しいものの、仰ぎ見るような存在の某大先輩に、加藤の動向を探ってもらった。
「菅野さん。残念なお知らせです。加藤さんはもう、人に会えません。重篤なのです……」
加藤紘一は倒れていた。彼が脳溢血を起こしたことは報道により承知はしていた。しかし報道の内容は概ね「軽い脳溢血」と伝えるのみだ。そこまで重篤とは知らなかった。
この第一報をつかんだのが昨年9月。諦めきれなかった私は、また人を頼ってさらに加藤の動向を探ろうとした。「彼の至近に侍る」と言われる人ともコネクションができた。それから約半年、その人物は定期的に加藤の容体や彼から見た加藤紘一のエピソードを語ってくれたが、連絡は途絶えがちになった。そんな矢先の先週某日、夜中にかかってきたのが冒頭の電話だ。電話の内容は、冷酷だった。もう諦めるしかない。
ここまで加藤紘一に拘るには訳がある。
加藤氏の話を聞かねばならぬ理由
本連載では、偉大なる先達・魚住昭による『証言・村上正邦』を何度も引用した。魚住による丹念な仕事は、村上正邦が政治家としての歩んできたキャリアと、村上正邦のなんとも言えぬ敬愛すべき人柄を浮き彫りにしている。そして魚住は、そうした村上のキャリアの裏に「一群の人々」が常に付き従っていたことを明るみにした。
中でも本連載が注目したのが、魚住によって初めて明らかにされた、「戦後50年決議」作成の舞台裏だ。あの時、村上正邦は、椛島有三など「一群の人々」の突き上げをくらい、加藤紘一・野中広務率いる自民党執行部と調整を続けた。つまり加藤紘一もまた、あの時、「一群の人々」と対峙した人物なのだ。
それだけではない。加藤紘一は誰よりも早く、そして誰よりも明確に、「日本会議」の危険性を、「日本会議」という四文字を使って直接、名指しで、世に訴えた人であった。
日本会議に誰よりも早く「気付いた」男
山形県鶴岡市にある加藤紘一の実家が放火された「加藤紘一邸放火事件」が起こったのは2006年の終戦記念日のこと。放火後、割腹自殺を図った犯人は、現場でうずくまっているところを逮捕された。犯人は右翼団体「大日本同胞社」に所属する老活動家だった。警察による取り調べの結果、犯人は、加藤が小泉首相の靖国神社参拝に反対の声を上げることに抗議するため加藤の実家に放火したことが明るみになった。
この年の11月、加藤は一冊の本を上梓している。『テロルの真犯人』と題されたこの本で加藤は、彼の実家を焼きつくしたあの放火事件の背景に迫っている。犯人の個人的な生い立ちや、犯行当時の状況だけにとどまらず、「あの老活動家をテロルに走らせたものは何か?」をあらゆる方面から理解しようと、この本の中で加藤はもがいている。加藤の思考と検証は、必然的に「時代の空気」にまで及ぶ。そして加藤は、「日本会議こそ、この空気感を醸成してる大きな要素ではないか」ということに気づく。
「時代の空気」と題された同書第6章で加藤は、「日本会議と『ゴーマニズム宣言』」というまさにど真ん中のタイトルをつけた一節さえ設けている。その小節で加藤が行った作業は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』に現れた言説が、日本会議の主張とそっくりであること、そして、安倍晋三の『美しい国』にも同じ記述があることを指摘する。
この作業は、筆者が本連載と書籍版である『日本会議の研究』で行った作業と全く同じだ。加藤もまた、資料を集め、比較し、突き合わすことで、日本会議と「一群の人々」の存在を告発していたのだ。そして加藤のこの作業は、他の誰よりも早い。魚住の『証言・村上正邦』が出版されたのは2007年10月。加藤の前掲書より一年後のこと。元となった月刊誌『世界』の連載とて、2006年11月からのスタート。あの魚住の偉大な仕事でさえ、加藤の告発より後なのだ。さらに加藤は、第一次安倍政権の誕生に際し朝日新聞のインタビューに答え、2007年3月29日、日本会議を名指しにし、強い懸念さえ表明している。加藤は全てを知っていた。そして、加藤こそ、誰よりも早く、日本会議の存在に警鐘を鳴らした人物なのだ。
日本会議についてメディアが取り上げるとき、「これまであまり触れてこられなかった日本会議」という言い回しが多用される。だが、加藤の事例のように、これまでも日本会議の存在と危険性を触れ続けてきた人々はいるのだ。
警鐘を鳴らしてきた先達
70年代から新右翼界隈の優れたレポートを発表し続けてきた、猪野健治。
主に教科書問題を追いかけ続ける、俵義文。
圧倒的な史料を用いて戦後の右翼を追いかけ続けた、堀幸雄。
戦争責任追及と差別問題への取り組みから、日本の言論空間の異常さに警鐘を鳴らす、上杉聡。
そして、政治家個人を分析することによって「戦後」をとらえなおそうとした、魚住昭。
これらの偉大なる先達たちは、それぞれ全く違う分野で、自分の見つけたそれぞれの「不思議なケモノ道」を探り続けていた。彼らの仕事はみな極めて細密で、他の追随を許さない。そしてその徹底した仕事ぶりから、彼らはそれぞれ、自分が見つけたケモノ道をさらに奥深く突き進んでいく。これ以上もうケモノ道を遡ることができない……となった時、彼らが一様に気づいた存在こそ「日本会議」の存在だ。彼らが追いかけていたケモノ道は、みな「日本会議」――「一群の人々」の巣穴――につながっていたのだ。
加藤紘一は逆だった。
山の頂きで気付いた足元の「何か」
加藤紘一は自社さ連立政権を支え続ける権力側の人間として、山の頂に立っていた。時折、山の頂に立つ加藤紘一の足元にかじりつく、「何か」がいる。この「何か」は、加藤や野中広務、河野洋平や古賀誠……と、山の頂にいる当時の自民党有力者たちを次々と引きずり下ろしてきた。
山の頂で権力を支えている加藤は、山の裾野の景色が良く見えた。この「何か」がどこからやってくるのか?と裾野を見渡した時、加藤はこの不思議な「何か」が、「日本会議」――「一群の人々」の「巣穴」――からやってくることに気づいたのだ。
魚住、俵、上杉、堀、猪野などの先達たちは、山の下から。
加藤紘一は、山の上から。
それぞれ同じ巣穴を見つけた。
そして、立場も興味もキャリアも思想も全く違うこれらの人々は、この巣穴に棲む「何か」に警鐘を鳴らしたのだ。
その警鐘はむなしく響くだけだった。
魚住の偉大な仕事は、「週刊誌ネタでしかない」と一蹴され、俵の膨大な仕事は、「どうせ共産党でしょ」と相手にされず、上杉の実直な仕事は「政治運動の一環でしかない」と取り上げられず、堀の広範囲な仕事は、「学者じゃないから意味がない」と忘却され、猪野の洗練された仕事は「アングラネタだ」と嘲笑された。
そして、加藤の叫びさえも、「オワコン政治家の虚しい戯言」と一顧だにされなかった。僕の仕事は、こうした偉大な先輩たちが残した、「叫び声」を拾い集めただけに過ぎない。
そして今、誰よりも早く誰よりも克明に、あの「何か」の危険性に気づいた加藤紘一が、今、死のうとしている。
「加藤さん、僕にはあなたの鳴らす警鐘が聞こえましたよ。しっかり聞こえましたよ。」と、報告したかった。
加藤さん、僕の仕事が遅くてすみませんでした。もっと早くやるべきだった。本当にごめんなさい。
<文/菅野完>
※菅野完氏の連載、「草の根保守の蠢動」が待望の書籍化。連載時原稿に加筆し、『日本会議の研究』として扶桑社新書より発売中

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♫ このようにして、「憲法9条があったから、日本が平和だった」と言っていた政治家が亡くなりました。
日本会議の存在を最初にあかしたのも、加藤紘一氏でした。彼の残した功績は非常に大きなものでした。
そして、記事にあるように、まだ書くことが出来ないでいる、おぞましい内容まで。
これらが、明かされる日も、きっとくると思います。