♬あめゆきさんの存在が、この山田わかによってわかったのです。あめゆきさんの総数は天皇の名の元に船が用意されて、日本人女性が売られて行き、その数は50万人とも言われています。
この山田わかについても、横浜で騙されてというように、それ以上のことは書かれていません。しかし私は実際に中学生のときに
親戚のおばから、私の将来を心配して、天皇の船に騙されてアメリカに渡った知人の女性からの手紙の話を聞いているのです。
久しくそのことは忘れていましたが、数年前にあめゆきさん、からゆきさんを調べていてフラッシュバックが起こり、すべてそのことを思い出したのです。
河原で誰もいないところで、おばは言いました。私が洋裁が好きで、人形の服を作るのが趣味だと知ったからでした。
その知人の女性もメイドをしながら、洋裁の勉強ができると言われてその船に乗りアメリカに行きました。しかしそこは娼婦の館で、売られたことを知ったのです。おばへの手紙には、「私について来ないように、そして自分の親や親戚には絶対に秘密にしてほしい」と、つづられていたそうで、おばは「天皇を信じてはだめ」と私に強くそういいました。
この山田わかについてだけでは、騙された人が悪いと思ってしまう人もいるでしょう。
当時の日本社会の貧しさを知らなければ、それは本人たちの都合と言われるかもしれません。
わかだけではなく、こうした日本人女性がたくさんいたのにも、関わらず、そういった話が出てこないのは、恥だとする国民性があるからです。
もし親や親戚に知られたら、その人たちが、日本で形見が狭くなる(こういう言い方も古いですけど)と一生を過ごしてきたに、違いありません。
天皇の館はそれで設けた財閥が建てました。
私達はまだ歴史については、断片的なことしか、わからずそれらもこの下に書かれているように、深刻さはありません。
若い女性が騙されて売られて行った話は、からゆきさんにもあります。からゆきさんは、九州が主だったようですし、あめゆきさんよりも、ずっとまえの話です。
あめゆきさんはウィキペディアもありませんね。
たくさんのあめゆきさんの流した涙を、私たちは忘れないでいましょう。
日本政府が韓国の従軍慰安婦についてきちんとしてこなかった理由が、これでわかりますね?
日本政府とお堀の主はおなじ一族で固められているからです。
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http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/singapore/singa2/ameyuki.htm
あめゆきさんの歌
山田わかの数奇なる生涯
山崎朋子の「サンダカン八番娼館」に続くアメリカに渡った日本人女性娼婦に関する著書
山崎朋子は1975年10月にアメリカに行き、在留邦人向けの講演会の講師をつとめた。
ホテルの近くの日本料理店でのレセプションで、近くに座ったある老人から
戦前に女流評論家として活躍した山田わかのことを知っているかと尋ねられた。
女性史研究者を自認する山崎は、とうぜん山田わかのことは知っていて
山田わかは社会学者山田嘉吉の妻であり、山田わかの著書を4,5冊もっていると答えると
その老人は、山田わかがサンフランシスコで白人専門に客をとっていた売春婦で
アラビヤお八重という名であったということを教えてくれた。
驚いた山崎は、山田わかのことを調べて本に書きたいと思い、後日その老人に会いに行く。
この老人は北米毎日新聞社長の清水巌であった。
彼は山崎が「サンダカン八番娼館」を書いたので、山田わかについて関心をもち
きっと山田わかの伝記のような本を書くだろうと思ったのだった。
清水巌は、山田わかを知っている人として、
娼館が軒をつらねたチャイナタウンでホテルを経営していた90歳の北野基次と
94~95歳の日本料理レストランを経営していた泉イエを紹介してくれる。
アメリカ講演を終えていったん帰国した山崎は、ふたたびアメリカに来たのは
その年の12月だった。
サンフランシスコ空港には、清水から紹介された川瀬泰一という初老の男が迎えに来ていた。
そして、その日の朝に北野基次が急死したことを告げられる。
がっかりした山崎はともかく泉イエに会うが、結局泉イエは山田わかの具体的なことは
何一つ知らないということがわかる。
山崎朋子が10月の講演を終えて12月に再び渡米するまでの間に日本において
とりあえず山田わかについて調べる。山田の生まれ故郷の久里浜にも行ってみる。
また彼女は市川房枝から、山田わかのことを聞く。
山田わかは過去のことはどこにも書いていないが、一度だけ
岡崎の宿で一緒に泊まった平塚らいてう(らいちょう)に少し話をしたことがあり
平塚らいてうから市川房枝が聞いたので、その話を山崎は市川房枝から聞く。
さて、サンフランシスコで、山崎朋子は
せっかく教えてもらった北野基次は急逝して会えず
もう一人の泉イエに会うが、泉イエから山田わかの具体的なことは何一つ聞くことはできなかった。
がっかりした山崎朋子は清水に報告すると
清水は日本人の読みそうな新聞数紙に山田わかのことを知りたいと新聞広告を出す。
広告を見た日本人からホテルに泊まっている山崎のもとに何件かの電話があり
とうとう、山田わかの過去のことがわかる。
「サンダカン八番娼館」では、天草でからゆきさんのことを地元の人に聞いても
誰も口をつぐんで教えてくれなかったが、小さな港町の食堂で運良く北川サキに会い
サキの家について行って、やっと念願の話を聞くことができたのだった。
それにくらべると
山田わかも彼女を知っている人もほとんど生きていないかったのだが
彼女のことをまとめた新聞記事があって、それを保管してあるカリフルニアの大学に行って
コピーをとってからは、比較的容易に伝記を書くことができた。
さすが作家なので
苦労の末やっと手がかりをつかめたという経過を書いて
読者の興味をつなぐように上手に書いている。
むかしサンフランシスコで出ていた「アメリカ新聞」の発行者は岡繁樹で
彼が山田わかの一代記「アラビアお八重出世物語」を書いて載せた。
「アメリカ新聞」のバックナンバーはカリフォルニア大学の図書館に保管されてあった。
以下に、「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」のコピーをもとに
山崎朋子がまとめたもののなかから手短に紹介する。
山田わかは横浜でだまされて、アメリカの娼館に売られ シアトルのアロハハウス娼館から、新聞記者立井信三郎の決死的協力で足抜けをする。 立井と山田はポートランド経由でコロンビア川を河口のアストリアまで下り 追っ手の及ぶであろう陸路をさけ、太平洋を南下してサンフランシスコに到達した。 そこで二人は別れることになる。 彼はサンフランシスコの宿屋の世話で、わかをサンフランシスコの娼館に売った。 しばらく稼いでから、資金を貯めて結婚しようというのが彼の考えであったのだろうか。 それはともかく、わかは突然姿を消す。 わかはどこで知ったのか、サンフランシスコの厚生施設キャメロン・ハウスに逃げ込んだ。 わかはキャメロン・ハウスから時々、牧師坂部多三郎の手芸教室に通っていた。 キャメロンハウスに探しに来た立井は彼女に会えず、牧師坂部の所にやっと行ったが会わしてくれず 絶望して毒薬を飲み自殺する。 立井の死後、わかはキャメロン・ハウスのキャメロン女史の指導を受け キャメロン女史の手伝いをしたり通訳をするようになった。 そのうち学力をつけるため山田英学塾に通うようになり、私塾経営者の山田嘉吉と知り合い結婚したわけである。 山田嘉吉は小学校しか出ていなかったわかの素質を認め、熱心に教育し彼女の天分を引きだしたのであった。 山田嘉吉はわかの教師であり、父親であり、夫であったと言えよう。 山田嘉吉は、わかに決して過去の話を誰にもしてはいけないと厳命した。 だから、わかは娼婦だった過去のことは何にも書いていない。 わずかに名古屋に講演に行ったあと紡績工場で女工の働く姿を見てから 岡崎の安宿で、一緒に泊まった平塚らいてうに少しだけ話したことがある。 その話が市川房枝を通じて、山崎朋子に伝わったのである。
「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」の最終にあたる第五回目の記事の末尾に 1938.3.20 岡繁樹記と署名があり、後書めいた短文が載っている。 筆者は、此稿を終るに臨んで、山田わか女史に一言のお詫びの挨拶を書かねばならぬ。 現在のあなたの名声と地位に対して、前身を洗ふが如き事は誠に申訳がない。 あなたの事に関して兎に角と考へて居る人達が多いが、それを知る由もないのであった。 もしあなたの死後に間違ふた話が伝へられる事は尚更遺憾ではないか。 筆者は決してあなたに悪意を持ち、あなたを傷つける為めに此一文を書いたのではない。 筆者は、一度行く道を過った人でも本人の考へ方一つで、勇気と決心さえ起せば、 あなたの様にエライ人になれると云う事を教へる為めにおなたを手本としたのである。 同時現在暗黒街に身を落としてゐる人達の為めに反省の機会を与へたい為めである。 此あなたの記事について或は誤聞があるかもしれん、又あなたとしても此記事によって 忘れてゐた昔を偲ばれる事もありはせぬかと思ふ。 もしあなたの為めに訂正の要もあれば、申込んで貰ひたい。 どうぞ、大海の様なあなたの心でこの妄言を許して下さい。
決して過去を語るなと戒めた夫嘉吉は昭和9年に亡くなった。
彼女は主婦の友社の企画で、昭和12年10月から12月まで渡米して
日米親善のため講演をしたり、大統領夫人をはじめとして米国婦人団体の代表者らと会見・懇談をしている。
特に米国の最後の講演をシアトルで行った。
おそらく夫が生きていたら実現しなかったアメリカ講演であったろうが
彼女は平塚らいてうに語ったように、自分は過去のことにはこだわっていなかったようだった。
シアトルでの講演はやじがあったが、彼女の真面目な講演はやがて聴衆に深い感銘を与え、そのときの感激をある老婦人から山崎朋子は聞いたのだった。
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♬その他の参考サイト
http://alternativereport1.seesaa.net/article/111887599.html
この問題を調査したエドワード・ベアは.「天皇一族は金銭ギャングである」と.吐き棄てるように語っている(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)。
この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5~10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。
天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。